これは以前も書いたような気がするのだけど。 僕はかつて、「よかれ」と思って後輩にミスを淡々と指摘し続けて、鬱一歩手前にしてしまった事がある。 治すべきミスをキチンと指摘してあげたほうが、その後の改善ポイントがわかりやすいと思っての事だったのだけど、結果としてはあまり良いものとはならなかった。 なぜ後輩が落ち込んでしまったのか、正直なところ以前は正直よくわからなかった。 「仕事というのは怒られるうちが華」と洗脳にも近い形で教育されてきた身からすると、説教されずにファクトだけをベースに指導してもらえるだなんて、夢のような話じゃないかと思っていたぐらいである。 ところが最近、ちょっとした病をやり、自分自身がそれまで物凄く簡単にできていた事が全然できなくなった事により、目の前で出来ないことを淡々と「できるよね?」と言われる事がエラいシンドイということを身をもって知ることとなった。 「できません」と
今のネットは面白い。 ツイッターでは、毎日のようにエアリプ、つまり相手を書かないほのめかし合いがやりとりされている。 時には、ブログでも同じようなことが起こる。 ちょっとした愚痴を書いたつもりが、愚痴ってんじゃねーよ的な反応を呼んだりする。 面白い。 やってやろうじゃないか。 これは、空中から空中へ向けての戦争だ。 ぼくは、たとえばオープンソースへの貢献度から言ったら無名であるべきエンジニアだ。 くだらない記事をいくつか書いて、一部界隈で多少有名になったにすぎない。 じゃあ、なんでものを言うのか。 知ったことか。 ものを言うのに資格があるか。 多くの人間が、ものを言うのには資格があると思っていることは知っている。 しかし、実際にあるのはお前が読むのをやめる権利だけだ。 その権利は妨げないから、「資格」とか言わずに "shut the fuck up" とでもつぶやいて今すぐブラウザを閉じろ
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