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あさま山荘事件に関するkanoetatsuのブックマーク (14)

  • 漫画家山本直樹さんが語る連合赤軍「言葉が命を超えてしまった」:中日新聞Web

    新左翼組織・連合赤軍が引き起こした「あさま山荘事件」から、今年で半世紀が過ぎた。漫画家の山直樹さん(62)=東京都=は、一連の顚末を取材し、2006年から12年かけて漫画「レッド」シリーズ(計13巻、講談社)を描き上げた。執筆の背景にあったのは、1995年3月のオウム真理教による地下鉄サリン事件。時代の異なる二つの事件を「似ている」と語る山さんの作品は、現代の社会に何を投げかけるのか。(谷口大河) 「レッド」は、ベトナム戦争に反対し、彼らなりの青春を謳歌する若者たちが、次第に過激さを増し、山中のアジトで仲間を次々にリンチにかけ殺害していく姿を克明に描く。象徴的なのが、メンバーに素行や思想を自己批判する「総括」を要求するシーンだ。総括を促すためとして暴力を振るい、12人を死に至らしめた。 地下鉄サリン事件では、有名大学出身の若者たちが無差別テロを起こし、14人の死者と6000人超の負傷者

    漫画家山本直樹さんが語る連合赤軍「言葉が命を超えてしまった」:中日新聞Web
  • あさま山荘事件突入から50年 長野県警などが追悼

    】顕彰碑「治安の礎」前で行われた追悼式。長野県警軽井沢署の柏木隆署長(手前右)らが献花を行った=28日午前、長野県軽井沢町(鴨川一也撮影) 昭和47年2月に過激派組織「連合赤軍」のメンバー5人が長野県軽井沢町の山荘に立てこもった「あさま山荘事件」で警察が突入、メンバー全員が逮捕されてから28日で50年となった。現場近くに建てられた顕彰碑「治安の礎」では、銃撃で殉職した警察官2人の慰霊式が開かれた。 事件は47年2月19日、連合赤軍のメンバー5人が、あさま山荘管理人のを人質にして10日にわたり立てこもった。28日に長野県警と警視庁などが強行突入し、人質を救出、犯人5人を逮捕した。 突入の際、警視庁第2機動隊長の内田尚孝警視長=当時(47)、2階級特進=と特科車両隊部の高見繁光警視正=同(42)、同=が銃撃により、死亡。突入前に現場に近づいた民間人の男性1人も銃撃で死亡した。 式には長野県

    あさま山荘事件突入から50年 長野県警などが追悼
  • 【あさま山荘50年の証言】(6)隣の独房で響いた坂口弘死刑囚の一喝 作家の佐藤優さん(62)

    インタビューに応じる元外交官で作家の佐藤優=14日午後、東京都千代田区(三尾郁恵撮影)元外交官の作家、佐藤優(62)は、外務省をめぐる背任事件で東京拘置所に勾留中、あさま山荘事件の実行犯の1人で死刑囚の坂口弘(75)と隣房になった経験を持つ。決して交差することのない壁越しでの無言の交流。事件から50年がたち、佐藤はかつての〝隣人〟の面影を思い起こしながら、その教訓をくみ取ろうとする。 《平成15年4月、勾留中だった佐藤は、東京拘置所の「三十二房」に移った》 週に1、2回、隣房の人が映画を見ていることに気づいた。看守に訊くと「確定者だけ。わかるでしょ」と言われ、死刑囚だと理解した。ある日、ひげそりをするために房に電気カミソリを入れてもらうと「三十一房 坂口弘」と書かれたものが来た。今思えば、私が隣のことを気にかけていることを知っていた看守がそっと教えてくれたのかもしれない。

    【あさま山荘50年の証言】(6)隣の独房で響いた坂口弘死刑囚の一喝 作家の佐藤優さん(62)
  • 【あさま山荘50年の証言】(5)オウム、虐待…今につながる暴力支配 永田洋子の主任弁護人 大谷恭子さん(71)

    永田洋子の控訴審で主任弁護人を務めた大谷恭子=14日午後、東京都北区(春名中撮影)あさま山荘事件後、過激派組織「連合赤軍」での集団リンチ殺人が発覚。連合赤軍最高幹部で死刑囚の永田洋子(平成23年に病死)は14人を死なせた罪などに問われた。大谷恭子(71)は控訴審から永田の主任弁護人を務めた。永田に対する1審東京地裁判決は「(事件は)永田の個人的資質の欠陥と、森(恒夫、昭和48年勾留中に自殺)の器量不足に大きく帰因する」と判断。その後、重大事件の弁護を務めた経験から「(事件を)個人の資質の問題にすれば同じことが繰り返される」と話す。 《1審弁護団が公安事件ができる女性弁護士を探している中で白羽の矢が立つ》 あれだけの事件がなぜ起きたのか社会や時代背景を理解するためには、渦中にいたものでなければ分からない。彼女たちがなぜそうせざるを得なかったのか。控訴審の弁護団はあの時代を知り、裁判で明らかに

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  • 【あさま山荘50年の証言】(4)連赤事件と対峙し生きていく 元連合赤軍兵士 植垣康博さん(73)

    連合赤軍元兵士の植垣康博。現在、静岡市内でスナックを経営している=2月1日、静岡市(植村光貴撮影)過激派組織「連合赤軍」の元兵士、植垣康博(73)は昭和47年2月19日朝、3人の仲間と長野県の軽井沢駅で逮捕された。直前に別れた5人はあさま山荘に立てこもった。大学では岩石や地質に興味を持ち、合唱を楽しむ学生だった。山に集まったのは同じように「革命」を夢見る若者たちだった。あさま山荘事件の後に発覚した集団リンチ殺人。被害者と加害者へ分かれた運命の分岐点はどこにあったのか。植垣は1枚の絵を見つめる。 《「爆弾が作れるらしい」。弘前大物理学科に在学中、学生運動に関わるようになり、手先の器用さを買われ「赤軍派」に勧誘された》 米国従属の日をどうにかしないといけないと考えていた。最初は武器を製造するのが僕の役割だと思っていたが、機動隊との攻防戦などがあって、それだけじゃいけないなとなった。

    【あさま山荘50年の証言】(4)連赤事件と対峙し生きていく 元連合赤軍兵士 植垣康博さん(73)
  • 【あさま山荘50年の証言】(3)突入の朝 輝く山に重ねた妻と息子の顔 元長野県警機動隊員 箱山好猷さん(86)

    突入作戦を振り返る元長野県警機動隊員の箱山好猷=1月26日午後、長野県上田市(内田優作撮影)過激派組織「連合赤軍」のメンバーが立てこもったあさま山荘。長野県警機動隊員だった箱山好猷(よしのり)(86)は、殉職の危険に遭いながら山荘へ突入した経験を鮮明に記憶している。犯人グループより一回り世代が上の箱山。革命の幻想にとりつかれた若者たちを「批判する力が弱く、純粋すぎた」とみている。 《箱山にとっての連合赤軍事件は籠城2日前の昭和47年2月17日から始まる。この日から連合赤軍の逃走メンバーを確保するため、警戒に当たっていた。検問中にメンバーの一部と「ニアミス」していたことを後に知る》 16日に群馬県で連合赤軍メンバーの男女2人が逮捕された。他の逃走メンバーが長野県へ来るかもしれないと、17日に機動隊へ出動命令が下った。検問したのが群馬・長野両県境の和美(わみ)峠。18日午前1時ごろ、警備車両で

    【あさま山荘50年の証言】(3)突入の朝 輝く山に重ねた妻と息子の顔 元長野県警機動隊員 箱山好猷さん(86)
  • 【あさま山荘50年の証言】(2)消えぬ記憶 「総括」兄の死、厳寒の籠城 実行メンバー 加藤倫教さん(69)

    自宅前に立つ、連合赤軍元メンバーの加藤倫教。「あさま山荘」に立てこもり逮捕された。当時19歳だった=2月2日、愛知県刈谷市(植村光貴撮影)「あさま山荘」に立てこもった5人のうちの1人だった加藤倫教(みちのり)(69)は当時19歳、「少年A」と報じられた。山岳アジトでの「総括」と称するリンチで当時22歳の兄を亡くした。「歴史に『もし』はないが、兄も私も関わらなければよかった」。半世紀経ても事件の記憶が消えることはない。 《昭和47年2月19日、過激派組織「連合赤軍」のメンバーら4人と、あさま山荘にいた。その日の朝、軽井沢駅で別のメンバー4人が逮捕されていた》 捕まった4人の疑われた理由が、「臭かった」と聞き、別の山荘で体を拭き銃をリュックに入れて出ようとしたところ銃撃が始まった。車を奪おうと提案したが、無視された。あさま山荘の中に入ってこいといわれた瞬間、「終わった」と思った。なぜ、包囲され

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  • 【あさま山荘50年の証言】(1)決死隊「私が行きます」 警視庁元機動隊員 仲田康喜さん(85)

    強行突入のため鉄球で壁を破壊する機動隊=昭和47年2月28日、長野県軽井沢町50年前の昭和47年2月19日、長野県軽井沢町の保養施設に過激派組織「連合赤軍」が立てこもったあさま山荘事件。氷点下の雪深い極寒の中で膠着(こうちゃく)状態は続いた。発生から10日目の28日、当時、警視庁第9機動隊員だった仲田康喜(85)は、人質救出と犯人確保のため、「決死隊」として銃弾の雨の中に突入した。 《午前11時半ごろ、長野県警、警視庁による突入作戦が始まる》 山荘の1階は9機、2階は長野県警、3階は警視庁第2機動隊が担当した。私は1階の室内に一番先に突入したが、すでに犯人グループは階上に逃げた後で、人質を含め全員が3階にいることを確認した。

    【あさま山荘50年の証言】(1)決死隊「私が行きます」 警視庁元機動隊員 仲田康喜さん(85)
  • 指切断し人質身代わり志願も 50年前のあさま山荘

    テレビ中継の視聴率が最高89・7%に達した昭和47年2月のあさま山荘事件。世間の関心を物語るように、長野県警には激励や籠城長期化へのいらだちなどの声が殺到した。 事態収拾に向けたアイデアを寄せる人も少なくなかった。「警察犬を4、5頭入れて、あとから警察官がとびこむ」「睡眠薬を入れたガスを風上から流し、犯人を眠らせてはどうか」「山荘の屋根に火をつける。外に出た犯人を狙い撃ちせよ」。当時の県警内部資料には、こんな事例が紹介された。 長期化する籠城に人質の身代わり志願も絶えず、「決意を強固にするため」と小指を切断し乗り込む人まで現れた。 銃撃され殉職した2人の警察官以外で、唯一民間人の犠牲者となった男性もこうした身代わり志願だったとされる。

    指切断し人質身代わり志願も 50年前のあさま山荘
  • 【あさま山荘事件50年】容疑者なお国外逃亡 事件いまだ終わらず

    昭和47年2月28日、連合赤軍のメンバーが籠城する「あさま山荘」に迫る警察官ら(上)。今月12日、山荘の屋根には雪が厚く積もっていた=長野県軽井沢町 昭和47年2月、長野県軽井沢町の保養施設で、過激派組織「連合赤軍」が管理人のを人質に10日間にわたり立てこもった「あさま山荘事件」は19日、発生から50年を迎えた。沖縄返還、日中国交正常化など歴史の転換点と同年に起きた事件は社会に大きな衝撃を与えた。一連の事件を契機に国内の過激派の活動は衰退していったが、国外に逃亡したままの容疑者もおり、事件は続いている。 インタビューに答える亀井静香氏=7日、東京都新宿区(飯田英男撮影)「立てこもったか」。当時、警察庁警備局で極左事件の捜査責任者だった元衆院議員の亀井静香さん(85)は、群馬県などの山岳アジトを摘発していた最中、一報を耳にした。長野県警、警視庁などの機動隊員ら延べ1万4千人を動員。膠着(こ

    【あさま山荘事件50年】容疑者なお国外逃亡 事件いまだ終わらず
  • 【あさま山荘事件50年】思わぬ副産物 「カップヌードル」が人気に

    あさま山荘事件は思わぬ副産物も生んだ。長期化した籠城の中で、日清品のカップ麺「カップヌードル」が一躍知名度を高めたのだ。 同社ホームページによると、カップヌードルは昭和46年9月に販売が開始。世界初のカップ麺という画期的な商品だったが、一般的な袋麺が125円程度だったのに対して100円と高価で、当初の売れ行きは鈍かった。そんな中、雪の山中でカップヌードルをべる機動隊員の姿が繰り返しテレビ中継で放送されると人気を呼んだ。 機動隊員がカップヌードルをべていたのは、用意された弁当が氷点下の気温ですぐに凍ってしまうためだった。 当時、長野県警機動隊員だった箱山好猷(よしのり)さんは「用意されたおにぎりとたくわんは寒さでカチカチになる。カップ麺を初めてべたのはあさま山荘の現場だった」と振り返る。 事件から50年。「カップヌードル」ブランドの商品は累計販売数500億を超えるロングセラーに育

    【あさま山荘事件50年】思わぬ副産物 「カップヌードル」が人気に
  • 【あさま山荘事件50年】「あさま山荘」のいま 香港の慈善団体が所有

    長野県の軽井沢駅から南へ約6キロ、厳しい崖の斜面沿いに今もたたずむ「あさま山荘」。事件当時は企業の保養所だったが、約15年前に香港の慈善団体「正生會」の日支部が購入した。団体によると「青少年の活動の場」に活用している。 玄関を入って最初に目に留まるのは、ストーブが置かれた広い談話室とバルコニー。隣に、連合赤軍メンバーが人質を取り籠城した「いちょうの間」と呼ばれた計16畳ほどの二つの和室がある。鉄球で壊された外壁部分は修復されている。

    【あさま山荘事件50年】「あさま山荘」のいま 香港の慈善団体が所有
  • 【あさま山荘事件50年】全国民がテレビに釘付け 最高視聴率90%

    昭和47年2月19日、長野県軽井沢町の保養施設「あさま山荘」に過激派組織「連合赤軍」のメンバー5人が管理人のを人質に立てこもった。厳寒の中、28日まで10日間にわたり籠城。テレビ中継は最高視聴率89・7%を記録した。 長野県警、警視庁の機動隊員などが28日に突入。人質を救出し、5人を逮捕した。銃撃を受け、警視庁第2機動隊長の内田尚孝警視長=当時(47)、2階級特進=と特科車両隊の高見繁光警視正=同(42)、同=が死亡、27人が重軽傷を負った。

    【あさま山荘事件50年】全国民がテレビに釘付け 最高視聴率90%
  • 【あさま山荘事件50年】弱体化立て直し 「連合赤軍」先鋭化の果てに

    あさま山荘事件が起きた昭和40年代は、日米安保条約延長に反対する70年安保闘争を背景に、ベトナム反戦や沖縄返還など反体制運動が高まっていた。特定党派に属さない一般学生が多く参加した学生組織「全学共闘会議(全共闘)」の運動は全国の大学に拡大。デモにとどまらず、「ヘルメットとゲバ棒」スタイルで武装し、投石や火炎瓶による闘争が繰り広げられた。 44年1月、全共闘などが東京大学の安田講堂などを占拠した「東大安田講堂事件」を契機に学生運動への世論の支持は急速に低下。一部の学生は政治に不満を持つ労働者らと結びつき、組織の分裂を繰り返しながら、より過激なテロやゲリラに移行した。 中でも先鋭的な武装闘争を展開したのが60年安保の中核だった「共産主義者同盟(ブント)」の一部が44年に結成した「共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)」だ。45年3月に一部のメンバーが「国外に革命戦争の根拠地をつくる」として日航機「よど

    【あさま山荘事件50年】弱体化立て直し 「連合赤軍」先鋭化の果てに
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