大阪城天守閣(昭和初期の復興)。幕末維新期にはこの地で「最後の将軍」の徳川慶喜や旧幕府勢が新政府と対峙していた=大阪市中央区(関厚夫撮影)雪降─。後に「明治」へと改元される慶応4(1868)年元日(旧暦)、薩摩藩の「頭脳」であり、新政府の重職・参与でもあった大久保利通は日記の冒頭にそうつづった。また新政府議定(ぎじょう)の正親町(おおぎまち)三条実愛(さねなる)の日記によると、この日、明治帝は「少々お風邪につき」、対面はかなわなかったという。 波乱含みの新春だった。 年明け夜の密議
フランス式軍服をまとった徳川慶喜(慶応2~3年ごろ)=松戸市戸定歴史館蔵「大政奉還」。源頼朝が開いた鎌倉幕府以来、約700年にわたる武家政権の終焉(しゅうえん)を告げるこの政治決断は慶応3(1867)年10月14日(旧暦)、「最後の将軍」の徳川慶喜によって朝廷に上表され、翌日、聴許された。これに大打撃を受けたのが、「慶喜と徳川幕府は天意を無視して政権に居座っている」として武力での打倒を目指していた討幕派─大久保利通と西郷隆盛をはじめとする薩摩藩「激派」(親幕府派は彼らをそう呼んだ)、そして薩摩藩と同盟を結び、当時の中央政界である朝廷への復帰を目指す長州藩だった。 薩摩藩には大政奉還の前日の13日付、長州藩には14日付で「討幕の密勅」がもたらされていた。形式や当時の状況を検討し、「偽勅ではないか」と指摘する研究者も少なくない。しかし、明治維新史の第一人者だった原口清が「偽勅と断定することには
西郷隆盛像。脇差とみられる刀をさしている=東京・上野恩賜公園(関厚夫撮影)新政府の成立宣言である「王政復古の大号令」が発せられた慶応3(1867)年12月9日(旧暦)夜、京都御所の一角で開催された「小御所会議」。この時点ではいまだ賽(さい)は転がり続けており、どのような「目」が出るのか、予断を許さない状況だったのだが、近代日本の到来を告げる画期となるひと幕があった。親王や公家、有力藩主たちにまじり、薩摩藩士の大久保利通や土佐藩士の後藤象二郎らの発言が許されたのだ。 会議に列席したのは新政府総裁の有栖川宮熾仁(たるひと)親王をはじめ、「議定(ぎじょう)」や「参与」の面々。議定には、親王や会議の進行役であり、明治天皇の外祖父である中山忠能(ただやす)、「四賢侯」とうたわれた2人の老侯(前藩主)、山内容堂(土佐藩)と松平春嶽(しゅんがく=越前福井藩)、薩摩藩主の島津忠義(当時の名前は茂久)や元尾
幕末維新の流れを左右する会議の舞台となった京都御所内の小御所(中段の間から上段の間をのぞむ内景)=宮内庁京都事務所提供旧暦ながら154年前の今月─師走の初旬、新政府の成立宣言「王政復古の大号令」が発せられた。政局の中心だった京都御所を兵で固める一方、大政奉還を断行した15代将軍、徳川慶喜を筆頭とする旧幕府勢力を排除したこの一挙以降、約1カ月にわたり、薩摩・長州両藩が中心となるのか、それとも旧幕府側が主導権を取り戻すのか、「新政府のかたち」は予断を許さない状況が続く。史上の政治劇と心理劇が繰り広げられたこの「最も長い年末年始」を追うにあたり、慶喜以外の立役者がそろい踏みし、舞台となった御殿の名にちなんで「小御所会議」と呼ばれた大号令初日の一幕から説き起こしてゆきたい。(編集委員 関厚夫) 「徳川氏の弊(悪)政、ほとんど違勅ともいうべき条々少なからず。いま内府(内大臣=徳川慶喜)は政権を返し奉
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