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産経新聞と戦艦大和に関するkanoetatsuのブックマーク (17)

  • 【最後の伝言~戦後78年】「生きて帰るつもりなかった」 レイテ沖海戦に臨場 戦艦大和の元乗組員、石上清文さん(98)

    戦争体験者は100歳前後が主流となり、相次いで鬼籍に入っていく。終戦から78回目の夏を迎え、「最後」ともいえる体験者たちの証言を伝えたい。 最初で最後の主砲「ドーン!」。先の大戦末期の昭和19年10月25日早朝。当時世界最大の不沈艦と呼ばれた戦艦「大和」の主砲である46センチ砲が、初めて火を噴いた。手旗信号などで味方艦船と連絡を取り合う信号員として大和に乗艦、レイテ沖海戦に臨んでいた石上(いしがみ)清文さん(98)=兵庫県淡路市=は、その歴史的瞬間に立ち会っていた。 「爆風はもちろん、音だけで体ごと吹き飛ばされそうな、すごいとしかいいようがなかった」と振り返る。だが、世界最大の主砲が敵艦に向けて発射されたのは、これが最初で最後となった。 「初めて見たときはあまりに大きく、島だと思いましたね」 高知県の宿毛湾沖を航行する戦艦大和。当時は世界最大で不沈艦と呼ばれた=昭和16年10月17年3月、

    【最後の伝言~戦後78年】「生きて帰るつもりなかった」 レイテ沖海戦に臨場 戦艦大和の元乗組員、石上清文さん(98)
  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(16完)悲しき帰郷

    建造中の戦艦「大和」の主砲塔旋回盤(昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) どんなにしてもガタガタとふるえがとまらないため、私は思い切って部屋をとび出し、まだ救助作業がつづいている甲板へと走り出た。 外はもうまっ暗であったが、いぜんとして小さな懐中電燈で海面を照らしながら、浮いている人を見つけて引き揚げている。

    戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(16完)悲しき帰郷
  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(15)神さま仏さま

    全力予行運転中の戦艦「大和」。昭和16年10月20日、宿毛湾沖標柱間を27.46ノットで驀進する。悪天候による波浪をものともせず、すさまじい水煙をたてながら突き進んだ(昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) 突然、どこにいたのか、どこへ逃避していたのか、駆逐艦が一隻あらわれて、ちかづいてきた。そして、私たちが漂流している周囲を相当な速さでひとまわりしたあと、私が浮いているところから五~六百メートルのところで停止し、どうやら救助をはじめようとしているのを知った。 うれしいという言葉は、こういったときに使うものだと、しみじみと思うほどうれしかった。この世に神様の存在を知ったような気がしたものである。

    戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(15)神さま仏さま
  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(14)重油の海

    フィリピン沖で米艦載機の攻撃を受ける戦艦「大和」(手前)と重巡「利根」=昭和19年10月(昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) 私が最初に浮上したとき、空から火の粉がいっぱい落下してくるのを感じつつ、すぐふたたび渦に吸い込まれてしまったが、しかしこのときは、大きく息を吸い込んだあとであるし、そのうえ爆発したあとの渦は小さく、弱く、私は体力を利して自力で浮かびあがることに成功していた。 水面に顔を出したときは、流れ出た重油のなかにつかっていたため、顔も手も、耳も鼻もまっ黒で、だれがだれやら、さっぱりわからない。しかも沈没、ついで起こった爆発直後であるから、六~七メートルの大波が洋上をうねっていた。

    戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(14)重油の海
  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(13)大爆発の果て

    昭和20年4月7日、海上特攻作戦で沖縄に向かう途中、米軍機の猛攻を受ける「大和」。急降下爆撃機の100ポンド爆弾が周囲に落下し、巨大な水柱をあげる中、大和は右に急回頭し、背後の魚雷をうまく避けた。だが米軍機の波状攻撃は執拗かつ熾烈で、このあと少なくとも魚雷10以上、爆弾5~7発が命中、大和は大爆発とともに沈没した=鹿児島県の坊のノ岬沖(昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) その一つというのは、「総員退避、上甲板!」で右舷の手すりにすずなりになって、しがみついていた何百人の人たちのことである。この人たちは爆発とどうじに、一瞬のうちに木っ葉みじんになって吹きとばされるという結果になったことと思われる。 上甲板に退避し、これで助かったと安心していた将兵が多かったにちがいないが、激しい戦いを生きながらえてきたこの人たちも、つぎの段階で吹きとばされる悲しい運命の人たちであった

    戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(13)大爆発の果て
  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(12)水中の奇跡

    後ろから見た大和型の艦橋。主砲の到達距離は42キロメートルにおよび、水平線上にわずかに姿を現した敵艦を砲撃するため、海面上約40メートルの高所に15メートルの測距儀を置いた。(昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) 「大和」の甲板上に設置された無数の機銃は、さきほどまでのあのけたたましく威力をしめしたのも忘れたかのように、その大半が赤く茶色に焼きついて、しかもぐんにゃりと曲がってしまっていた。 撃ちつづけたために熱で曲がってしまったのか、爆弾で曲がってしまったのか。いずれにしても、そこには射手はおらず、まだ硝煙が立ちのぼっているさまは、あまりにもわびしくあわれであった。

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  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(11)艦底からの声

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  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(10)巨鯨と化す

    後檣付近に命中弾をうけ、火災を発生した戦艦「大和」(昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) 絶えることなく襲いかかり、無数の爆弾、魚雷をうち込み、たくみに逃避する米軍機--。そのたびに、「大和」にも魚雷数、爆弾数十発が命中し、さしもの「大和」もじょじょに傾いていった。しかも敵が命中弾をおくりこんでくるのは、ほとんど左舷ばかりであった。たえきれなくなった「大和」は左へ、左舷へと傾斜をましていった。 「注水急げ! 傾斜復旧を急げ!」

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  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(9)砲術長の独断

    戦艦(手前)の上空を飛ぶ九七式艦上攻撃機(昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) 最初の編隊が「大和」に襲いかかり、それぞれ爆弾、魚雷を投下して飛び去ると、すぐつぎの一団が襲いかかってくる。息つくひまもないとはこういうことをいうのであろう。 しかも、一団の編成はいずれも百機内外の数であるが、それは私たちには無数に感じられた。それにしても、彼らはじつに勇敢に突入してくる。すて身の急降下爆撃は日のお家芸と思っていたら大まちがいで、私たちの考えていた米国人にあらず、思い切りわれをめざしてとび込んでくるのだ。

    戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(9)砲術長の独断
  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(8)敵は百機以上

    昭和20年4月7日、海上特攻作戦で沖縄に向かう途中、米軍機の猛攻を受ける「大和」。急降下爆撃機の100ポンド爆弾が周囲に落下し、巨大な水柱をあげる中、大和は右に急回頭し、背後の魚雷をうまく避けた。だが米軍機の波状攻撃は執拗かつ熾烈で、このあと少なくとも魚雷10以上、爆弾5~7発が命中、大和は大爆発とともに沈没した=鹿児島県の坊のノ岬沖(昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) 昼を終わって一服するひまもなく、対空用電探が敵の大編隊らしい目標をキャッチした。ときに昭和二十四年四月七日午後零時二十分。兵隊が罐を返却にいって、まだ帰着していないころだった。 「目標、大編隊! 接近してくる!」

    戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(8)敵は百機以上
  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(7)遠すぎた敵

    予行運転を目前にして呉工廠の艤装用ポンツーンで急ピッチで工事が進む「大和」=昭和16年9月20日(月刊「丸」・昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) 私にとって、いや「大和」全乗組員、さらにはこのたびの特攻艦隊全員にとって、忘れようとしても忘れられない四月七日があけはじめ、まだうす暗い大隅海峡をぶじ通過したころから、あたりはじょじょに明るさを増してきた。 こうした狭いところを航行するときは、きわめて危険である。いつ、どんな障害や危険物が設置してあるかわからないし、そのうえ超大型の「大和」が通行するとあっては、いっそう警戒を厳にしなくてはならないのだ。

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  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(6)南下あるのみ

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  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(5)海ゆかば

    全力予行運転を実施中の「大和」=昭和16年10月20日、高知県の宿毛湾沖(月刊「丸」・昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) 三田尻沖に錨をおろしていた「大和」へ、巡洋艦、駆逐艦がつぎつぎに横づけしてきたのは、四月五日の昼すぎだったであろうか。私にはなんのための横づけか、はっきりわからなかったが、あとで聞いたところでは「大和」が持っている重油を他の海上特攻艦へわけあたえるためのものであった。 それは「大和」以下十隻の艦は、いまや沖縄までの片道の燃料があればよいのだ、往復することはないのだ。

    戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(5)海ゆかば
  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(4)九分隊第一班

    航走する「大和」=昭和16年10月30日、高知県の宿毛湾沖(昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) 話は前後するが、「大和」にはじめて乗り組んだ者を対象に四~五日の教育期間が設けられていたが、この最終日に〈艦内旅行〉と称せられる一種のテストが行なわれた。 朝八時に一番主砲の砲塔前に集合し、ここでそれぞれに二十問の部署を印刷した用紙が配布される。その人、その人によって出題は異なっていたので、となりの者と相談することはまったく不可能である。

    戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(4)九分隊第一班
  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(3)巨砲のかなめ

    建造中の戦艦「大和」の主砲塔旋回盤(月刊「丸」・昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) ここで世界最大といわれた「大和」とはいったいどんな大きさで、どんな構造であったのか、一水兵の私の目から見たままをあらためて記してみよう。 まず、上甲板から前部射撃指揮所(トップ)までおよそ五十メートルもあり、トップからは上甲板に立っている人の顔もはっきり見えず、それがだれであるか区別できないときもあるしまつで、艦橋にはエレベーターがあり、上級士官はこれで昇降する。

    戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(3)巨砲のかなめ
  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(2)戦備なりて

    航走する「大和」。出力15万馬力、最大速力27ノット(時速約50キロ)、速力16ノットでの航続距離は1万3334キロに達した=昭和16年10月30日、高知県の宿毛湾沖(月刊「丸」・昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) 昭和二十年四月一日。この日は、米軍が南方の島々をつぎつぎと占領し、日軍を各地で壊滅させ、その勢いにのって沖縄島へ上陸した日である。沖縄に米軍の大部隊が集結し、やがてはここを根拠地となして日各地に自由自在に空襲するようになるのは、火をみるよりも明らかなことである。 結果によっては、日は絶体絶命におちいってしまうことになる。

    戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(2)戦備なりて
  • 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(1)初陣のレイテ沖

    予行運転を目前にして呉工廠の艤装用ポンツーンで急ピッチで工事が進む「大和」=昭和16年9月20日(月刊「丸」・昭和53年8月号収載。筆者は戦艦「大和」前部射撃指揮所員) 私が「大和」に乗艦したのは昭和十九年九月であった。師範徴兵として海軍入りし、佐世保軍港から戦艦「榛名」に便乗して一路南下し、台湾、香港をへてシンガポール沖に投錨していた「大和」へ着任したのである。 その「大和」をはじめてみたとき、あまりの大きさにどぎもをぬかれてしまった。フネというより、私にはまるで小山をみるような感じであった。とくに巨大さを感じたのは、菊のご紋章がついている艦首下から、横腹をみながら全体をながめたときであった。

    戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た(1)初陣のレイテ沖
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