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lifestoryに関するmugi-yamaのブックマーク (69)

  • 私のこと大好きって言ってくれるあの子

    私と遊んだ時は写真載せないどころか全然呟かないのに他の子と遊んだ時はめっちゃ喋るね。写真も載せるね。 私との写真を載せないの、私の写りが悪いからだと思ってたけど、なんで遊んだよってことも言ってくれないんだろう。 普通にSNSで会話もあって、二人で遊びに行くような仲なの隠されてる訳じゃないのに。 私と二人で行った場所、私との時は行ったことすら言わなかったけど、他の人との写真は載せてたね。 あの子の「大好き」は私だけのものじゃないんだ、って。 毎日のように会ってた頃は、大好きだよっていつも言ってくれて、頻繁に会わなくなってからも大好きだよって、自己肯定できなくてうじうじする私を些細なことで褒めてくれるの、嬉しくて。 でもあの子にとっては多分それが特別じゃなくて、だから他の子が落ち込んでたら同じように声をかけられるし、私はそれがすごく嫌。 でも、誰にでも言ってた訳じゃないと思ってるんだよ。 私「

    私のこと大好きって言ってくれるあの子
    mugi-yama
    mugi-yama 2018/12/24
    たしか志賀直哉だったかが、小学校のとき自分の親友についての作文を書かされて、苦し紛れに前の席の生徒のことを書いたって話を思い出したり(微妙に関係ないんだけど)
  • 貯金が尽きた!~ポンコツ夫婦のフリーランス奮闘記|吉玉サキ|note

    そのメールを見たとき、「ついにこの日が来たか」と思った。 意外と冷静だった。 午前10時。朝まで仕事をしていたイラストレーターの夫はまだ眠っている。私が布団のそばに行くと、目を覚ました。 「クレジットカードの引き落としができなかった。私の原稿料下ろしてそっちの口座に入れてくる」 おはようも言わずにそう告げると、私はコートを着て銀行に向かった。 ◇ 私たち夫婦が前職を辞めて、ちょうど1年。 1年前、「この貯金がなくなるまでは、お互い夢を叶えることに専念しよう」と誓い、私はライターを、夫はイラストレーターを目指した。 私は求人サイトの「ライター募集」に応募し、文字単価0.5円の無記名記事を書きはじめた。だけど、書くのが遅くて月に3万円くらいしか稼げない。内容も、SEOをバリバリに意識したアフィリエイト記事やキュレーション記事。 私がやりたかったのってこんなことなの……? あまりの稼げなさ、やり

    貯金が尽きた!~ポンコツ夫婦のフリーランス奮闘記|吉玉サキ|note
    mugi-yama
    mugi-yama 2018/11/30
    (…大変だなあ)
  • 学びながら世界を広げていった - tapestry

    大阪南部のニュータウンでサラリーマンの父と専業主婦の母のもとで育った私は、さしたる教育も家庭で受けることなく、公立小学校から公立中学まで順位的には上位4分の1ぐらいの成績で過ごした。高校は家から徒歩10分で交通費がかからず制服が可愛いという理由で、両親の強い賛成のもと、学力より1ランクレベルが下の高校を受験した。大学進学は、唯一好きだった英語の試験だけで通る外国語短大を選んだ。バブルの最中に姉が短大から一部上場企業に入って華やかな生活をしているのを目の当たりにし、自分も一刻も早くつまらない勉強から解放されて社会に出て楽しみたいという理由からだった。短大ではビジネス英語英会話を中心に学び、その後の社会生活では特に仕事で生かすことはほとんどなかった。今は日常英会話程度ならOKというレベルにとどまっている。こうして振り返れば、私の10代から20代前半の学びは、ごくごく普通の、何の特徴もないもの

    学びながら世界を広げていった - tapestry
    mugi-yama
    mugi-yama 2018/10/19
    “「学んだらいいことがあるよ」という明確なサインがあったわけではなく、「今の自分から抜け出すには学ぶしかない」という不思議な本能的な感覚に突き動かされて動いた結果” ものすごくいいこと言ってるなあ
  • 昔援助交際してた(追記しました)

    当たり前だけどリアルでは誰にも言えないので吐き出し。ただの自分語り。 当時中学生田舎暮らしで塾まで晴れてる日は自転車、雨の日は徒歩で通ってた。 自転車15分、歩いて50分くらいのところ。 両親共私になにもしようとはしてくれなかったけど祖父が私は勉強は出来るからもっと勉強しなさいってお金を出してくれてたので。自力で通ってたのは誰も送迎してくれなくて、授業が全部終わるとバスがなかったからだった。 田舎だから街灯も少なくて暗いんだけど、まあそもそも人通りも少ないし毎回特に気にせず帰ってた。それで、自転車がパンクして押して帰ってる日に性被害にあった。 (部活後に着替えずに行ったからジャージだったのによく性犯罪者は欲情できるなと今だったら思う) (強制性交ではなく強制わいせつ程度だった) 当時はパニック状態で、警察に連絡とか思いつかなかった。祖父に携帯を与えられていたから、電話するか悩んだけど祖父は

    昔援助交際してた(追記しました)
    mugi-yama
    mugi-yama 2018/09/01
    勝手な希望なのだけど、小説か何かの形式でもっと長く書いてほしいと思った。
  • はてなで世間は馬鹿ばかりと知る

    中高は一貫の著名な進学校で過ごし、その後、東大に進学した俺には 知識として信じられんほど馬鹿な人が沢山いるのは知っていても、生の実感として「どれほどの頭の悪さか」を感じる経験がなかった Twitterとか他のSNSでは、なんだかんだ気に入った人としか関わらないので、彼らに呆れる事は少ない はてなに来て、主に政治系で、呆れるほどの馬鹿(scopedogなどの妄想系)を大量に見た事で、世間を構成する要素の一端を知った気がする 多分、生きている間に職場で密に関係をもつ事のない、ゾンビの様な人種だけど あんなのが生きていられるんだから、世界は優しいよな anond:20180827123835 (追記) 中高でも大学でも自分よりも優秀な人なんて腐るほど目にしてるわけで、一方で馬鹿だなと思う人間も多少は目にする事もある 良い環境に居ればいる程、幼少から身の程を知るものですよ。数学オリンピックで金メダ

    はてなで世間は馬鹿ばかりと知る
    mugi-yama
    mugi-yama 2018/08/27
    “著名な進学校”の名前を出してないのはなんでだろう(と、書いてないことを妄想し始める)
  • 今夜も、妖怪たらればが来た。

    こっそり近づいてきて、耳元で、たらればたられば囁いてくる。 例えば、君の父親が働く人だったら。 君はもっと違った価値観を持って育っただろうか。 例えば、君の弟が元ひきこもりじゃなかったら。 あんな苦労ばかりだった時間の代わりに、どんな時間を過ごすことができたんだろうね。 例えば、君のおじいさんが借金の連帯保証人�になった親友に逃げられていなければ。 親戚達はずっと集まって、みんなで今も年に何度も宴会していたかもしれないね。 おじいさんもおばあさんも、あの借金に殺されたようなもんじゃないか。 すべてを清算して、生活保護の生活をはじめた途端、ふたりとも続けざまに死んでいった。 まだ60代だったのにね。 例えば、君が弟に包丁で刺されてなければ。 君はかすり傷だったから平気だと許してるけど、今も夢に出るんだろう。 例えば、働き者のお父さんと、優しいお母さん、殴ってこない弟だったら。 どんな人生だっ

    今夜も、妖怪たらればが来た。
    mugi-yama
    mugi-yama 2018/01/27
    あのう、そんな壮絶な人生を歩んできて(鬱病はともかく)肌荒れと過呼吸ですんでるのは、ものすごい生命力だという気がするのですけど
  • 父親譲りの破天荒

    先日、某古チェーン店に漫画を買いに行ったときの事。 棚を挟んだ反対側から10代後半〜20代前半と思わしき男二人組の会話が。 『ほら。俺、父親譲りの破天荒じゃん!?』 …欲しい漫画はなかったがなんか良い日だった。

    父親譲りの破天荒
    mugi-yama
    mugi-yama 2018/01/18
    ツレ(ほら、とか言われてもなあ…)
  • じいさんの経験した戦争

    じいさんは大戦中呉にいた。呉には予科練?という少年兵の学校があって、じいさんはそこにいたらしい。呉は軍港があって、大和と武蔵が出港していくのを観たそうだ。 じいさんはパイロットではなく、整備工として予科練にいた。戦後は水道工として働いていたから、そこで学んだことがじいさんの稼ぎに繋がってたのかもしれない。 整備工だったから、飛行機の作りには詳しかったらしい。アメリカの飛行機が不時着したのを皆で見に行った時(グラマンと言っていた)、じいさんは「あぁこの戦争は負ける。こんなもの作りをしている国に勝てるわけがない。」と悟ったらしい。 わしらは零戦をネジで手作業で作る。グラマンはリベットうちじゃ。作れる数が違う。 勝てるわけがない。じいさんが誰ともなしに呟いた事はよく覚えている。 戦争が終わった時じいさんは17歳だった。じいさんは予科練を卒業していたが、予科練は学校としては認められず、最終学歴は小

    じいさんの経験した戦争
    mugi-yama
    mugi-yama 2018/01/01
    こういう人が、ほんとに沢山いたんだろうなあ
  • 両親を軽く恨んでる

    僕は貧乏な家に育った。 両親も一人の兄も中卒で、自分の将来に相談にのってもらえるようなタイプではなかった。 僕は中学生までは何もしないでも勉強ができた。なぜ周りがこんな簡単なことができないか不思議だった。 高校に入って落ちこぼれた。こんなはずではないと思いながらも、両親も兄も勉強したことが無い人であり、どうしたら抜け出せるか相談ができる人ではなかった。 浪人した。父親は自営業でアル中で、家にいることが多い浪人の俺をゲスで少ないボキャブラリでなじった。酒臭い毎度のそんな小言に耐え、昼間はアルバイトし、夜は勉強の仕方もわからないので、写経のように中指が折れ曲がるほど参考書を書き写して(今も曲がってる)。そして誰でも知ってる名のある大学に受かった。 大学に入って、バイトして稼ぎつつ軽音楽のサークルに入った。少し才能が開花した。結果も残し大手事務所から誘いがあった。野球で言えば在京球団のドラフト2

    両親を軽く恨んでる
    mugi-yama
    mugi-yama 2017/12/11
    あのー、それでいったい何に後悔されてるんでしょう?
  • Diary in English♡On the 9th of Nov. 中国語も勉強してみたい。 - 29歳。イギリスに行く。

    Diary in English♡On the 9th of Nov. Today I went to a cafe with my classmates after school. The cafe has a swimming pool and some people were swimming in it. I wondered if they didn't feel cold! We talked about some languages and I was interested in Chinese. One of my classmates taught us some Chinese because she had studied Chinese for 2 years. I thought it was much easier for me to pronounce Chi

    Diary in English♡On the 9th of Nov. 中国語も勉強してみたい。 - 29歳。イギリスに行く。
    mugi-yama
    mugi-yama 2017/11/13
    スパが併設されていてプールのあるレストラン…すごいなー/あやっお返事が
  • 結婚したいアラサーの病|結婚さえできればいいと思っていたけど|水谷さるころ

    「30歳までには結婚したい!!」なんて思っていたけれど、幸せになるためには「結婚」は必ずしも必要じゃないのかも・・・・・・。結婚離婚→事実婚をした著者・水谷さるころが実体験を踏まえて考え続けた「結婚とは何か」コミックエッセイ。 バックナンバー 選択してください 結婚したいアラサーの病 水谷さるころ イラストレーター/マンガ家/グラフィックデザイナー 1976年千葉県生まれ。女子美術短期大学卒業後、1999年マンガ家デビュー。2008年旅チャンネルの番組「行くぞ! 30日間世界一周」に出演、その道中の顛末を漫画化し全3巻の人気シリーズに。2009年に引き続き「行くぞ! 30日間世界一周 2周目!」に出演。その旅は『35日間世界一周!!』として全5巻で刊行されている。30歳で初婚、33歳で離婚、36歳で再婚(事実婚)し38歳で出産。1児の母。自身の結婚にまつわる体験をまとめたコミックエッセイ

    結婚したいアラサーの病|結婚さえできればいいと思っていたけど|水谷さるころ
    mugi-yama
    mugi-yama 2017/10/21
    まあ他人事ではあるけど、バカみたい。
  • 節電

    我が社は節電のため、トイレの明かりも未使用のときは落とすよう言われている で、まあ何だ、事中の人には申し訳ないが、自分、個室の方で気張ってたわけよ そこに人が入ってきた気配と、(小)の用足しの音 で、そのまま出ていったと思ったらプチッと電気が消されてトイレの中は真っ暗け 「うぉい!」と思わず叫んだら慌てて再点灯された 「まったく誰だよもう人が入ってんのに」とかブツブツ言いながらトイレから出たら目の前に社長が居た 結論:節電しない方がいい場所もある

    節電
    mugi-yama
    mugi-yama 2017/09/27
    その社長さんチョビ髭はやしてそう(イメージ)
  • イケメンの姉

    姉はイケメンだ。かなりぶっとんでるし、ちょっとどうかと思うような行動に走ったりもするけど、総じてイケメン。性格は姉妹で正反対。私は人見知りで、基的にいつもおどおどしている。今までいろんな局面で何度も姉に助けられてきた。そんな姉への感謝の気持ちを綴りたい。 まずは小学校の入学式のこと。 うちは母が早く亡くなってる。私が5才になる年に喉頭癌でこの世を去った。姉は私より11才上で、私が小学校に入った年にはすでに高校生だった。 そんな姉が、私の入学式に母の代わりとして参加してくれたのだ。その時のスーツ姿がとても素敵だった。人指し指に緑色の翡翠の指輪をはめていて、それは母の形見だと教えてくれた。入学式の時の写真を見返すと、やはり姉は保護者の中で一人だけ幼げに見える。 姉は高校ではかなり目立っていた。たまに雑誌にも出てた。エルティーンという十代向けのファッション誌で、モデルみたいなことをしてた。私は

    イケメンの姉
    mugi-yama
    mugi-yama 2017/09/20
    1.お姉さんの言ってることが口から出まかせ(コスタリカとか)2.全体が創作(姉なんかいない)3.全部ホント どれでもいいから続き書いて!
  • 魔夜の娘はお腐り申しあげて 第1話|コココミ

    魔夜の娘はお腐り申しあげて 第1話

    魔夜の娘はお腐り申しあげて 第1話|コココミ
    mugi-yama
    mugi-yama 2017/09/20
    興味深いなあ/じゃあ眞さんやるみ子さんには、アトムや火の鳥が生き別れの兄弟と感じられるのだろうか…
  • Iさんについて

    職場で知り合ったIさんという女性の話。 うちの職場は繁忙期にデータ入力の短期アルバイトを雇っている。期間は3ヶ月で、毎年5人位が採用される。短期雇用なので学生が多いのだが、Iさんはその中のひとりだった。 Iさんは母親が日人で、父親はスロバキア人。両親がすぐに離婚してしまったので、父親に関する記憶はまったく無いらしい。 Iさんは18才までスロバキアで過ごし、日の大学に通うために都内に移住してきた。東京に住み始めて、今年で4年目を迎えた。 最初にIさんがオフィスに現れた時、僕ら社員の間で軽いどよめきが起こった。Iさんがめちゃくちゃ美人だったからだ。その場から完全に浮きまくっていた。ギャグ漫画の中に、一人だけ画風の違う美少女が混ざっているようだった。しかもIさんはただの美人ではなかった。かなり個性的なキャラだったのだ。 Iさんはかなり独特な日語を話す。最初に聞いた時は、シュールな現代詩みた

    Iさんについて
    mugi-yama
    mugi-yama 2017/09/15
    絶妙なところでさらっと切り上げる感じがほんと良質の短篇小説みたい(太宰治の「満願」とか)。もっと読みたいという感じをずっと持っていたいので、個人的には続編は書いてくれなくてもいいです。
  • 1992年の個人的な記憶

    たしか、小学二年生だった僕は、ボロい一戸建ての社宅に住んでいた。 三つ年上の姉が家事をやっていたんだけど、細かい掃除まで手が届くわけもなく、家の中はいつも埃っぽかったのを覚えている。 カット済みの材が届く宅配サービスを利用していて、姉がそれを調理して夕を作り、夕方七時過ぎに帰ってくる父を待ってから三人で夕べるのが夕餉の風景であった。 朝は六時に起きて、聖教新聞提供のラジオ番組を聞きながら朝べていた。 家にはパソコンも携帯電話もなかったしそれは一般的だったと思う。 友達に用があれば固定電話にかけるか、直接家まで行って呼び掛けた。 僕はスーパーファミコンを買ってもらえず、ファミコンしか持っていなかったがそれでもテレビゲーム自体を買ってもらえない友達もいたので、それなりに満足していた。 年賀状は当然プリントゴッコで、ピカッと光るのがひどく未来的に思えた。 死んでしまった愛犬のダッ

    1992年の個人的な記憶
    mugi-yama
    mugi-yama 2017/08/31
    思い出せないままにしとけば平和だったのに、気になって調べ始めたらなんかすごく怖い事実が明らかになったりしそう
  • なんか結婚できた

    今年の2月に結婚したのだが、そこに至るまでの経緯がかなり変わっているので、ちょっと文章に残しておこうと思う。 彼女と最初に会ったのは13年前なのだが、最近までほとんどまともに会話したことがなかった。 最初に会ったのは留学先のトロントだった。バイトしていた和レストランで、数回だけ彼女とシフトが重なった。その店は日人の留学生を積極的に雇っていた。 彼女は僕より先に帰国した。連絡先を交換することもなく、軽く挨拶だけして別れた。特に仲良くなったわけでもなかった。 数年後、彼女はマッサージ嬢になっていた。いわゆるグレーな店ってやつだ。僕はサラリーマンになっていた。会社帰りに先輩と酒を飲んで、酔った勢いで入った店に彼女がいたのだ。体のラインがくっきり見える白いワンピースを着ていた。スカートはパンツが見えるぐらい短くて、とんでもなくエロかった。お互いに顔を見合わせて、アッという顔をしたが、それ以上は

    なんか結婚できた
    mugi-yama
    mugi-yama 2017/08/30
    なんて言うか、すごく清潔な文章だなあと思った。あとやっぱ「いつも顔色がいい」なんて言われたら、参っちゃうよなあ
  • 自分のテーマ曲はありますか。

    先週、上司におまえにはテーマ曲はあるかと訊かれた。答えることができなかった。思い浮かばなかったのではない。決めきれなかったのだ。 中学に入ってMDでORANGE RANGEを聴き始めてから今日に至るまで、ただ聴くだけでは済まない曲をいくつも築き上げてきた。曲に、思い出が宿る。 マキシマムザホルモンのFを聴いて今年振られた彼女を思い出して顔をしかめたりするのだ。 自分でも笑える。でもこれでいいのだ。 昨日の僕の誕生日。モトカノジョからメッセージは来なかった。 安心した。捨てた相手にメッセージ送っていつまでもなぶるような、そんな人ではなかったわけだ。僕の目は正しかった。君はやっぱりよくできた人だったよ。 八重洲のカラオケ屋で教えてくれた曲。「この曲がすごく好きでずっと聴いているんだ」 それは君が失恋してすぐだったからだ。そうに違いない。その曲が君の人生を通して特別なわけではなくて、今頃はどうで

    自分のテーマ曲はありますか。
    mugi-yama
    mugi-yama 2017/08/09
    増田が急に黙りこんで自分の世界に入ってしまったので、ホントは自分のテーマ曲について語りたかった上司涙目。
  • 加藤春江 1945年8月6日

    加藤春江 1945年 夏 私は挺身隊の一員として被服廠に通っていた。 それも女学校4年生の終り、突然、多賀谷先生がコヨリの先に青や赤や黄色を先にぬり、 色とりどりのコヨリを束ねて、手に持ち、両手で上手によじった。 そして生徒皆んなの席に順番に来ては1づつ引かせた。 皆んなは赤や青のコヨリを手に持った。 先生は真剣な面持でチョークを持ち黒板に書きつづっていった。 赤―被服廠 青―兵器廠 黄―糧秣廠(りょうまつしょう)……… 皆んなは、赤は赤、青は青、と、ひとかたまりになり、わあーわあーきゃあーきゃあーさわいだ。 (皆んな静かにしなさい。皆んな仲良し同吋で行きたいでしょうが、それでは困る人があるんで 公平にする為めに、くじにしたのです) と云った。 私はいやだった。 被服廠10人と云われた時、仲良しは1人もいなかった。 でも決まった事だから我まんした。べるものがない時だったので母は喜んだ。

    mugi-yama
    mugi-yama 2017/08/06
    わたし加藤賢崇さんとほぼタメなんだけど、お母さんてそんなお年だったのね…これはすごいわ
  • すずが見た広島、街は今 爆心地「ここに生活があった」:朝日新聞デジタル

    その瞬間まで、確かにそこにあった街、暮らし、命。当時の人々の営みを丹念に描いた映画「この世界の片隅に」がロングランを続けている。主役のすずが見つめた風景から、失われたものに思いをはせる。原爆投下から、きょうで72年――。

    すずが見た広島、街は今 爆心地「ここに生活があった」:朝日新聞デジタル
    mugi-yama
    mugi-yama 2017/08/06
    “映画は10回ほどみましたが、みるたんびに楽しいことを思い出します”