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産経新聞と仏教に関するkanoetatsuのブックマーク (17)

  • 元刑事の僧侶が見た地獄「倅よ、俺はまだ行かんぞ」 夜討ち朝駆け 井口文彦

    大島龍穏(りゅうおん)(77)は横須賀の追浜界隈(おっぱまかいわい)では有名な僧侶である。元刑事という異色の経歴だからだ。 殺人など凶悪犯罪の刑事。銃を持つ銀行立てこもり犯に丸腰で突っ込んだこともある猛者だ。「そんなでホシがとれるか、バカ野郎」。毎日怒鳴り、留置場では容疑者と間違えられて身体検査されてしまう「がらっぱち」だった。 それが働き盛りの53歳で辞めた。平成12年だ。「坊さんに? 冗談だろ」。同僚は仰天した。

    元刑事の僧侶が見た地獄「倅よ、俺はまだ行かんぞ」 夜討ち朝駆け 井口文彦
  • 平家の南都焼き打ち 運慶ら慶派発展の転機に 仏像再興で活躍 大仏師 運慶

    金剛力士像が安置された東大寺南大門=奈良市南都(奈良)を代表する巨大寺院の東大寺と興福寺。多くの僧兵をかかえ、政治的にも大きな存在感を示していた両寺が戦火にあい、伽藍(がらん)をことごとく焼失したのは平安時代末期の治承4(1180)年のことだった。「平氏による南都焼き打ち」である。戦火で堂舎だけでなく、大仏(盧舎那仏)などの仏像も灰燼(かいじん)に帰した。まもなく両寺とも復興が計画され、失われた仏像も再興されることになったが、そのことが運慶ら慶派仏師に活躍の場を与えることになった。リアリティーを追求した新しい造形様式が運慶によって広がり、仏像彫刻の世界を変えていくことになる。 平氏との対立武将の平清盛(1118~1181年)は仁安2(1167)年、武家として初めて太政大臣になり政権を掌握するが、源氏と衝突し各地で争乱が勃発する。東大寺、興福寺など南都の寺院も平氏と対立。清盛は五男の重衡(し

    平家の南都焼き打ち 運慶ら慶派発展の転機に 仏像再興で活躍 大仏師 運慶
  • 仏教への理解、運慶の仏像彫刻の原点に リアリティーを徹底追求 大仏師 運慶

    運慶作の大日如来坐像(国宝)=円成寺相應殿平安時代末期から鎌倉時代初期、貴族社会から武家社会に移行する大変革の時代に卓越した造形力で斬新な仏像を生み出してきた大仏師がいる。「運慶(うんけい)」(?-1223年)。東大寺南大門の「金剛力士像(仁王像)」に代表される、リアリティーを追い求める造仏の新様式を打ちたてたといわれる。平氏による南都焼き打ち(1180年)で焼失した東大寺と興福寺の復興造像に貢献し、また鎌倉幕府の有力御家人からの発注を受け、次々と名品を造像した運慶。興福寺の僧侶でもあった運慶の仏教への深い理解が、仏像彫刻で頂点を極めた背景にあったとみられている。 熱心な信仰者運慶は、鎌倉時代の彫刻界をリードした奈良仏師の康慶の子に生まれた。生年の記録はないが、運慶の長男、湛慶が承安3(1173)年の誕生であることから、運慶の生まれは12世紀中ごろ、1150年前後とみられている。 当時の仏

    仏教への理解、運慶の仏像彫刻の原点に リアリティーを徹底追求 大仏師 運慶
  • 「池田先生に申し訳ないので死ぬしかない」創価学会の熱はいずこへ

    創価学会第33回部総会であいさつする池田大作会長(当時)=昭和45年5月、東京・両国の日大講堂11月15日、創価学会の池田大作名誉会長が死去した。15年以上前に駆け出し政治記者として創価学会を支持母体とする公明党を担当した私にとっても、過去の記憶を呼び起こす訃報だった。 池田氏を取材したこともなければ、姿を直接見たこともない。それでも、公明党を担当するということは、折に触れて池田氏の存在を意識することに他ならなかった。 永田町を駆け巡る「池田氏死去」の噂を確認したことは一度や二度ではない。自室内に池田氏の写真を掲げていた公明党幹部について、党関係者から「あの人は信心を疑われているからアピールをしているのだ」という解説を受けて妙に納得した。公明党議員とカラオケに行けば、池田氏のペンネーム「山伸一」作詞の歌を聴くことになった。 最も印象に残るのは、懇意にさせてもらっていた学会職員から酒席で

    「池田先生に申し訳ないので死ぬしかない」創価学会の熱はいずこへ
  • 【主張】池田大作氏死去 政治と宗教考える機会に

    創価学会の池田大作名誉会長が死去した。95歳だった。 池田氏は、昭和35年に創価学会第3代会長に就任して以降、拡大路線を推し進め、学会を公称827万世帯まで信者を増やし、日有数の巨大宗教団体に育て上げた。 それだけでなく、公明党を結成して政界に大きな影響を与え、日中友好に尽力するなど昭和・平成を代表する人物の一人だったのは間違いない。 一方、教団の拡大期には、「折伏(しゃくぶく)」と呼ばれた行き過ぎた信者獲得や、批判的な政治力を使って差し止めようとした「言論出版妨害事件」が社会問題となった。公明を通じて学会が「国立戒壇」を設立しようとしているのは、憲法が定める「政教分離」に反している、との強い批判も出た。 このため池田氏は、昭和45年に学会と公明を組織として切り離す「政教分離」を宣言し「国立戒壇」の創設も否定した。 野党から出発した公明は、平成5年に発足した細川護熙政権で、初めて政権

    【主張】池田大作氏死去 政治と宗教考える機会に
  • 創価学会の池田大作名誉会長が死去 95歳

    創価学会を国内有数の宗教団体に拡大させ、公明党を設立して政界にも影響を与えた創価学会の池田大作(いけだ・だいさく)名誉会長が15日、老衰のため東京都新宿区で死去した。95歳。東京都出身。 少年時代に第2次世界大戦を経験した。昭和22年、日蓮正宗の信徒団体だった創価学会に19歳で入会。戸田城聖第2代会長の下で激しい勧誘活動を展開した。 戸田氏の死後、35年に第3代会長に就任。海外布教も展開し50年に創価学会インタナショナル(SGI)を結成した。54年に学会の会長を退任し名誉会長となった。その後も影響力を保持し続けたが、近年は公の場に姿を見せることはほとんどなかった。 39年に公明党を結成した。しかし、政教分離の問題が取りざたされ、一線を画すようになったが、現在も創価学会は公明党の支持母体。学会の会員は日で827万世帯、海外で280万人とされる。

    創価学会の池田大作名誉会長が死去 95歳
  • 「終戦の日」は反省の日なのか 佐伯啓思

    平成29年8月15日、72回目の「終戦の日」を迎えた靖国神社。この日、首相も閣僚も誰一人として参拝に訪れなかった=東京都千代田区 (納冨康撮影)8月15日は日人にとって特別な日である。それは、この日が「終戦の日」であるというだけではなく、ちょうどお盆にあたるからだ。お盆、つまり仏教でいう盂蘭盆会(うらぼんえ)は、祖霊信仰という日の古い信仰と仏教の融合によるいかにも日的な習俗である。お盆には死者の霊がそれぞれの家に戻ってくる。生者とのほんのわずかな魂の交流を終えて、8月16日までには死者は「あの世」に戻ってゆく。このわずかな期間、死者は生者とともに過ごし、生者は死者を偲ぶ。 京都大名誉教授の佐伯啓思氏「終戦の日」がお盆と重なることによって、われわれは、あの戦争で命を落とした幾百万にのぼる死者たちを偲び、改めて哀悼の意を表する。そして、死者の無念の魂に仮託して、あの戦争の意味を自らに問い

    「終戦の日」は反省の日なのか 佐伯啓思
  • 【歴史シアター】聖武天皇の「恭仁京」に謎の寺 灯明皿や楽器が出土

    仏堂や礼堂などの遺構が確認された神雄寺跡=平成21年1月、京都府木津川市の馬場南遺跡(柿平博文撮影)奈良時代中期、聖武天皇(701~56年)が平城京(奈良市)から都を遷した恭仁(くに)京(京都府木津川市)の南端あたりに、文献資料には現れていない山林寺院が営まれていた。出土した土器に記された名は「神雄寺(かみおでら)」。大量の灯明皿や楽器、万葉歌が記された木簡などが出土していることで、大規模な仏教法会や歌会が行われていたことがうかがえる。神雄寺の造営には朝廷が関わっていた可能性があり、「仏堂」と「礼堂(らいどう)」で構成されていたことが分かっている。神雄寺は「仏教儀礼を行うための寺」だった可能性が指摘されている。 500枚超の灯明皿神雄寺は恭仁京の右京南端あたりで天神山南斜面の谷筋で見つかった。これまでの発掘調査によって、建物5棟、井戸、流路などを検出。約200メートル四方の寺域を確認した。

    【歴史シアター】聖武天皇の「恭仁京」に謎の寺 灯明皿や楽器が出土
  • 【矢板明夫の中国点描】中台統一唱えた「政治和尚」の死

    台湾・台北市で掲げられた旗(ロイター)台湾の著名な仏教教団「仏光山」の創始者で、長年中国との交流を熱心に推進してきた僧侶、星雲大師が5日に死去した。95歳だった。葬儀は13日、南部高雄にある仏光山寺で営まれた。蔡英文総統をはじめ台湾各界の要人や仏光山の弟子ら約3万人が参列した。 この葬儀に中国当局から派遣される弔問団を受け入れる問題でトラブルが発生した。中国当局は当初、約40人の弔問団を台湾に送ることを計画していた。その中に台湾政策を担当する国務院台湾事務弁公室副主任の龍明彪氏や、元国家宗教局長の葉小文氏ら現役と元職の政府高官が含まれていた。 しかし近年、中国軍機が台湾海峡付近で挑発行為を繰り返し、中台の間で軍事的緊張が高まっている。この時期に、中国当局者の台湾訪問を受け入れることは「台湾中国の圧力に屈した」という印象を国際社会に与えかねない。

    【矢板明夫の中国点描】中台統一唱えた「政治和尚」の死
  • ワシに連れ去られた少年 「奈良の大仏」の父・良弁の正体

    国宝の良弁僧正坐像(東大寺提供)世界遺産・東大寺(奈良市)の創建に尽くし、初代別当(住職)となった良弁(ろうべん)僧正(689~773年)をしのぶ没後1250年の御遠忌(ごおんき)法要が、令和5年に同寺で営まれる。良弁は幼い頃にワシにさらわれて大和にやってきたという伝説が残り、文楽や歌舞伎、ミュージカルの題材にもなった。時代を超えて親しまれる高僧ながら、その実像は謎に包まれている。 「金鷲行者」ともがっしりとした体格に意志が強そうな顔。良弁僧正坐像(国宝、平安時代)は東大寺大仏殿東側の高台にある開山堂に安置されている。命日の12月16日に開扉され、僧侶や参拝者らが遺徳をしのぶ。近くの法華堂では、仏法を守護する執金剛神(しゅこんごうじん)立像(国宝、奈良時代)も開扉される。

    ワシに連れ去られた少年 「奈良の大仏」の父・良弁の正体
  • 【正論】政教分離の検証求められる日本 文化人類学者、静岡大学教授・楊海英

    静岡大学の楊海英教授=2017年12月、東京・大手町(寺河内美奈撮影)政治と宗教の関係は、人類の歴史が始まって以来、ずっと困難を極めてきた課題である。近代に入ってからも、根的な解決策を見いだせなかった国家もまた多い。 「宗教の中国化」一党独裁の社会主義中国は現在、習近平政権の下で「宗教の中国化」政策を怒濤(どとう)のような勢いで推進している。キリスト教と仏教、そしてイスラム教の世界の三大宗教はいずれも中国以外の地で発祥し、東伝してきた「外来の信仰」である。中国以外の哲学と思想に敵意を抱き、自国文化のみを崇高な存在とみなす中華思想に基づき、外来の宗教を徹底的に中国風に改造する同化政策である。

    【正論】政教分離の検証求められる日本 文化人類学者、静岡大学教授・楊海英
  • 【主張】法隆寺への支援 ネットの縁を未来へ繫げ

    奈良県斑鳩町の世界遺産、法隆寺が、インターネットで支援を呼びかけたクラウドファンディング(CF)で、目標の8倍近い1億5700万円を集めて終了した。 運営サイトによると神社仏閣部門では過去最高額で、広く浅く不特定多数から集める新しい寄付の形と期待される。一方で著名な観光寺院ゆえの成功ともいえ、今後の広がりが課題だ。 法隆寺は6月中旬に募集を始め、半日で当初目標の2千万円に達した。注目は仏像や建物など文化財の修復ではなく、植木の剪(せん)定(てい)や設備メンテナンス、警備などの維持管理費を募ったことだ。 長引くコロナ禍が背景にあり、年間約65万人だった参拝者は令和2年度に約20万人に激減した。経費見直しや節約にも努めたが、来年は姫路城とともに日初の世界遺産に登録されて30周年になる。節目の年を「美しい法隆寺」で迎えたいという願いを掲げたところ、多くの人が共感した。 支援者のコメント欄には「

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  • 【歴史シアター】絵筆で天下を夢みた男 見えてきた長谷川等伯の実像

    新発見の長谷川等伯作「仏涅槃図」を調べる宮島委員長(左手前)ら調査会のメンバー=令和元年8月、京都・知恩院(北國新聞社提供)水墨画の傑作「松林図屛風(しょうりんずびょうぶ)」(国宝)で知られる長谷川等伯(1539~1610年)は、近年になって新しい作品の発見が相次ぐ珍しい絵師だ。理由はこの10年、出身地である石川県七尾市など北陸地方を中心に、詳細な調査が実施されたことが大きい。その成果として、若き日の等伯が一級の仏絵師のもとで学んだことや、信仰した日蓮宗の人脈を生かして、武田信玄や織田信長ら権力者に近づき、大きな仕事を獲得したことも分かってきた。 早くから評判調査は平成22年、等伯の没後400年を記念して石川県の県紙・北國新聞社と地元信用金庫などがスタートさせた。『長谷川等伯』(ミネルヴァ書房)などの著書がある宮島新一・元九州国立博物館副館長を委員長に、一昨年11月、約10年に及ぶ調査を終

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  • 「対等外交」要求の通説は誤解 聖徳太子、隋に求めた「仏教」 河上麻由子・大阪大准教授

    「莫大な費用がかかるのに、対等性を主張するために使節を送る意味はなく、利益もない」と話す河上麻由子・大阪大准教授=大阪府豊中市の大阪大学(須谷友郁撮影)今年は聖徳太子の没後1400年とされ、業績についての議論も活発だ。遣隋使が隋皇帝に渡した「日出づる処の天子」と記した国書について、大阪大の河上麻由子准教授は、対等外交を求めたとする通説は近代の規範を当てはめた誤解だと主張して注目されている。聖徳太子の外交について、河上氏に聞いた。 (聞き手 坂英彰) --隋は聖徳太子が皇太子になる直前の589年に中国を統一した。後漢滅亡後、短い西晋時代を挟む300年以上にわたる分裂時代を終わらせました

    「対等外交」要求の通説は誤解 聖徳太子、隋に求めた「仏教」 河上麻由子・大阪大准教授
  • 【メディアインサイド】21人分の声〝演出〟 歌う僧侶「般若心経」動画7500万回再生

    般若心経を歌う薬師寺寛邦さんの動画(MUGEN提供)大乗仏教の神髄を説いた経典「般若心経(はんにゃしんぎょう)」にメロディーやコーラスを付けて歌う動画が、「癒やされる」としてユーチューブなどの動画サイトで反響を呼び、再生回数は7500万回を突破した。動画をアップしたのは臨済宗・海禅寺(愛媛県今治市)の副住職、薬師寺寛邦(やくしじ・かんぽう)さん(43)。ミュージシャンとして10年以上活動した後、実家の寺を継いだ異色の僧侶だ。 「令和時代になり、私には、般若心経が『Jポップ』として進化してきたと感じられる」という薬師寺さん。もともと歌うことが好きで、高校時代はバンドを組み、ミュージシャンを目指していたという。 大学進学後はますます音楽にのめり込み、ライブハウスでの活動が中心の生活に。歌唱力に磨きをかけるためボーカルスクールにも通った。そこで出会ったメンバーたちと3人で平成15年に「キッサコ」

    【メディアインサイド】21人分の声〝演出〟 歌う僧侶「般若心経」動画7500万回再生
  • 【聖徳太子伝】「最澄は太子の生まれ変わり」 天台宗を押し上げた伝承

    瓦屋禅寺の境内にある観音像を描いた石碑。太子は観音の仮の姿とされる=滋賀県東近江市琵琶湖の東、東近江一帯は聖徳太子伝承が多く残されていることで知られる。 滋賀県東近江市の箕作山(みつくりやま)山中にある瓦屋禅寺(かわらやぜんじ)。同山の土で聖徳太子が大阪・四天王寺の瓦をつくらせた際、創建されたと伝わる。 「近江の土に霊力があると太子が感じたといいます」と藤澤弘昭住職。箕作山には古代祭祀(さいし)場跡があり、古来信仰の場であった。また白鳳時代の瓦窯(かわらがま)跡も確認されている。 太子信仰、全国一は滋賀県瓦屋禅寺の縁起はこう記す。 「10万6千枚の瓦を四天王寺に運ばせた。作業が順調に進むよう小野妹子、蘇我馬子に僧坊を建てさせ、太子自ら斧(おの)を振るい、千手観音像を刻み、安置させた」 千手観音像とは同寺の「十一面千手千眼観世音菩薩立像」(国重要文化財)のこと。来年秋の御開帳を控え修復中だが

    【聖徳太子伝】「最澄は太子の生まれ変わり」 天台宗を押し上げた伝承
  • 【日本語メモ】閻魔様に初詣

    東京での仮住まいは3年を超え、コロナ禍での生活も丸2年たった。昨年末は地元の関西に戻って年を越そうと思っていたところ、不運にも?大みそかの夜勤にあたり、東京で三が日を過ごすことになった。電車・地下鉄に乗って初詣に行く元気もなく、夕刻に近所の寺を訪れた。 名前は「こんにゃくえんま」。文京区にある浄土宗の寺で正式には「源覚寺」という。都内では有名なのか、社から夜勤でタクシー帰りをする際も「こんにゃくえんまの方向に行ってください」といえば、確実に自宅近くに着く。校閲に身を置くものとしては、こんな変わった名称なら由来を知るべきだろうが、ものぐさな性分なので今回参るまで調べていなかった。 同寺のホームページによると、同寺に祀られている閻魔(えんま)大王像の右目部分は割れて黄色く濁っている。江戸中期の宝暦年代(1751〜64年)、眼病を患った年老いた女性が閻魔大王に21日間祈願した。すると夢の中に大

    【日本語メモ】閻魔様に初詣
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