Steven J. Vaughan-Nichols (Special to ZDNET.com) 翻訳校正: 川村インターナショナル 2024-05-15 07:30 「Python」や「JavaScript」が学ばれるようになるずっと前、米国時間1964年5月1日の夜明け前の暗闇の中で、コンピューター史におけるささやかながら非常に重要な出来事がダートマス大学で幕を開けた。数学者のJohn G. Kemeny氏とThomas E. Kurtz氏がGeneral Electricの「GE-225」メインフレームを操作して、独自に考案した言語の最初のプログラムを実行した。その言語こそ、初心者向け汎用記号命令コード、すなわち「BASIC」だ。 BASICは最初に普及した言語ではない。その栄誉を得たのは、ビジネス分野では「COBOL」、エンジニアリング分野では「FORTRAN」だった。しかし、19
安倍晋三元総理が、何度も口にし続けた「悪夢の民主党政権」。当時の民主党幹部の多くが集う立憲民主党を批判する文脈で、現在でもしばしば使われている言葉だ。2009年からのわずか3年にすぎない政権運営が、10年以上経っても攻撃材料にされてしまうのはなぜなのか。本稿は、尾中香尚里『野党第1党――「保守2大政党」に抗した30年』(現代書館)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 小沢一郎が目指していたのは 「保守2大政党制」だった 小沢一郎代表のもとで、民主党は党再生の足掛かりをつかみました。 小沢氏が就任した翌年の2007年夏、民主党は小沢氏の代表就任後初めての大型国政選挙となる参院選を迎えました。自民党は、小泉純一郎首相が「党総裁としての任期満了」を理由に首相を辞任。その後継として安倍晋三氏が首相となっていましたが、閣僚の相次ぐ不祥事などで内閣支持率は低迷していました。
135ml、250ml、350ml、500mlとサイズ展開している「キリン一番搾り生ビール缶」。一番小さい135mlは全体に占める割合が1%とわずかですが、今後も販売を継続するといいます。どんな需要や狙いがあるのか、キリンビールの担当者を取材しました。 135ml缶の発売は1984年 キリンビールによると、ビール各社が135ml缶を発売したのは1984年。 当時、ビール業界では多種多様な容器を発売しており、すでに250ml缶はラインナップされていました。 そんな中で、ワンコイン商品のブームもあって「キリン缶生ビール」の135ml缶を100円で発売することに。 「ビールを少しだけ楽しみたい方、グラス1杯が適量という方のためにピッタリのサイズ」として売り出しました。 現在、キリンで135ml缶をラインナップしているのは、ビールの一番搾りと、発泡酒の「淡麗極上〈生〉」の2種類だそうです。 担当者
7月3日、日本銀行が発行する紙幣が切り替わる。新紙幣に描かれる肖像は1000円札が北里柴三郎、5000円札が津田梅子、1万円札が「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一だ。ジャーナリストの田中幾太郎さんは「慶應OBOGの中には『1万円札を替えるな』『1万円札は永遠に福澤先生で』と真剣に訴える層が少なくない」という――。 「1万円札を替えるな」の大合唱 「今年の夏は厳しいかも」と浮かない表情なのは慶應義塾大学の文系教授。昨年「夏の甲子園」で107年ぶりの優勝を果たした慶應義塾高校(通称「塾高」)だが、4月28日、春季神奈川県大会の準々決勝で横浜高校に4対9で敗れ、夏の県大会の第1シードを逃してしまった。 「昨年はスケジュールがとれず、テレビ観戦。わが母校の塾高が県大会を突破できれば、今年こそは甲子園に行くつもりですが、勢いはそれほど感じられない。県大会の第2シードの権利は得ているので、まだ希望
倉本圭造@新刊発売中です! @keizokuramoto 経済思想家・経営コンサルタント。大卒でマッキンゼー入社。その後日本らしさを活かす一貫した新しい戦略の探求を始め、社会の真のリアルを見るため時にはブラック企業や肉体労働現場等にまで潜入した後独立。コンサル業のかたわら「個人の奥底からの変革」を支援する”文通サービス”も。その他詳細や著作情報はホームページ↓へ keizokuramoto.com 倉本圭造@新刊発売中です! @keizokuramoto 史実では「坂本龍馬は大したことしてない」「実は織田信長は常識人」という話をSNSで時々見かけますが、最新の歴史学では実際はどういう説になっているのか気になって調べてみたので聞いてください。結論から言うといわゆる「司馬遼太郎史観」が「課長・島耕作」的世界観に立脚していたからこその歪みがこのギャップに繋がっているのだと私は感じました。 ・ 1
タンパ号事件(Tampa affair)は、オーストラリア、ジョン・ハワード政権が2001年8月に、438名のアフガニスタン難民を載せたノルウェー船タンパ号(MV Tampa)のオーストラリア海域への立ち入りを拒否し、ナウル共和国が受け入れた事件[1]。 タンパ号が国内海域に入ると、オーストラリア首相は特殊部隊 (Australian Special Air Service Regiment (SASR))に乗り込むことを指示し、ノルウェー政府は国際連合規定に反すると発言した[2]。オーストラリア政府は国境保護法(Border Protection Bill)[3]、パシフィック・ソリューション("Pacific Solution")を導入した。 経過[編集] 2001年:多数の難民希望者がクリスマス島を含むオーストラリア領へ船で到達。 2001年8月24日:438名(男性:369名、女性
イスラエルはなぜイランを極度に敵視し、恐れるのか。イラン研究の専門家として知られるイスラエルのシンクタンク「国家安全保障研究所」のラッズ・ツィムツ研究員は2021年4月の毎日新聞のインタビューで「イランが核を保有すれば、新たなホロコーストが起きる恐れがある」と、ユダヤ人が抱く心理を説明していた。【聞き手・三木幸治】 【写真まとめ】爆音、閃光…イスラエル迎撃の様子 ――イラン核施設への攻撃のほか、イスラエルは2020年もイランの核科学者を暗殺したとされます。なぜ極度に敵視するのでしょうか。 ◆その答えは、イランがイスラエルを「滅ぼそうとしているから」です。イランは1979年のイラン・イスラム革命で、イスラム教シーア派の法学者が支配する体制となり、シーア派の教えを近隣国にも広めようとしています。彼らはユダヤ人が多数を占めるイスラエルが「国家として存在する権利」を認めていません。イランにもユダヤ
【エルサレム=福島利之】中東の地域大国であるイスラエルとイランは、約45年にわたり対立してきたが、直接攻撃し合ったことはなく、双方の関係は「冷戦」と表現されてきた。イスラエルが19日のイラン攻撃を認めれば、本土攻撃の応酬は史上初めてとなる。 【年表】イスラエルとイランを巡る主な出来事 「イスラエル建国からイランで革命が起きるまで、イランは中東地域で最も信頼できる国の一つだった」――。イスラエルの対外情報機関モサドの元長官エフライム・ハレビ氏はそう指摘する。
①では、「ポルトガルから日本へやってきた」の項目では、「日本では16世紀の南蛮貿易のころにトランプの元となるものがポルトガルから輸入されたようです。ポルトガル語ではカードのことを「カルタ」というので、当時の日本でも「カルタ」とよばれていました。その後、19世紀の明治時代になると、今度は欧米流のトランプが日本でもはやりました。欧米の人がゲームをしているときに「トランプ(切り札)」といっているのを聞いた日本人が、カードそのものを「トランプ」とよぶようになったのではないかと考えられています。」と記載されている。 ②では、「室町時代に日本伝来!」の項目では、「トランプが日本につたわったのは、16世紀ごろのこと。ポルトガルの宣教師によって持ち込まれ、当時は、「南蛮かるた」と呼ばれていました。というのも、トランプは、ポルトガル語で「かるた(carta)」を意味するからです。」とあり、さらに、「ちなみに
天才だけでなく天災も多かった三国時代三国時代は戦乱や天災によって、多くの農民が苦しんでいた / credit:いらすとや戦乱の時代になると人口が減少することは古今東西を問わずよく見られる現象ですが、三国時代のそれは他のものと比べても常軌を逸していました。 後漢の188年の中国の推定人口が6000万人なのに対し、三国時代の221年には1400万人まで激減しているのです。 そんな昔の人口がなぜ分かるのか? と思う人もいるかも知れませんが、中国では地理や官制、軍の編制など多岐に渉る記録が残されており、この記録の中には、各郡県や州の戸数などを記録したものもあるため、これにもとづいて当時の人口を推定することができるのです。 しかしこれは33年間で人口が四分の一になったということであり、非常に驚くべき数値といえます。 その原因として挙げられるのは、相次ぐ戦乱です。 群雄たちが合戦に臨むためには領民たち
市場で働く人のために生まれた「長浜ラーメン」忙しい市場の人が食べるため、長浜ラーメンは提供スピードが重要。 長浜ラーメンとは福岡の博多漁港に面する長浜エリアで生まれたラーメンのこと。1952(昭和27年)に開業した屋台『元祖長浜屋』(福岡県福岡市中央区長浜2-5-25)がその発祥と言われている。創業当初は中洲などの町中に出店していたが売れず、当時大浜にあった魚市場前で営業するようになると、魚市場で働く人たちの支持を受けて盛況となった。 1955(昭和30)年に市場が長浜に移転したことにより、長浜に多くの屋台が軒を連ねるようになったが、その後条例の改正や場所の変更などによって長浜の屋台は減少の一途を辿り、最終的には2軒だけとなってしまったが、2023年6月に公募による新たな屋台が7軒オープンし、『長浜屋台街』が完全復活。地元客や観光客が再び長浜の地を訪れるようになり、活気をみせている。 20
<遊牧民「鮮卑」はエキゾチックな外見をしていたとも考えられていたが、復元された武帝の姿はこれとは大きく異なるものだった> 約1500年前の中国を生きた皇帝、北周の武帝の顔が中国復旦大学の研究チームによってDNAを基に復元された。これまで文献や絵画でしか窺い知ることのできなかった古代中国の統治者のリアルな姿は学術誌に発表され、研究者の1人は今回の発表によって「歴史上の人物に命が吹き込まれた」と語っている。 【画像】1500年前の中国・北周の皇帝「武帝」のリアルな顔を再現...従来の説を覆す「外見」の特徴が判明 これは、学術誌「カレントバイオロジー」に発表された研究の成果だ。研究チームは、皇帝の遺骨からDNAを取り出し、その顔を復元した。中国上海にある復旦大学科学技術考古学研究院の文少卿が率いたこの研究は、皇帝の死、そして、皇帝が属していた民族の起源と移動パターンに新たな光を当てるものとなった
卒業式、お花見、入学式。何かと「写真」を撮る機会の多い時期ですが、 「はい、チーズ!」 と言われたら、皆さん、どんなポーズをとりますか? ピースサイン、しちゃいませんか? でも、それって、なんでなん? (なんでなん取材班 大阪放送局 今村香織 藤島新也) ピースサイン、しちゃいますよね
広島出身の大学生が、被爆前に撮影された白黒写真をカラー化する取り組みを続けています。そして2025年の公開を目指し、映画の制作も手がける若者の思いです。 原爆投下前、「産業奨励館」を背景にした幼い兄弟の写真。 人工知能を使って色付けすると…当時の情景がカラーでよみがえります。 ■カラー化に取り組む庭田杏珠さん 「原爆が投下されるほんの少し前までは、今と変わらないような温かな日常があって、それが失われたことを想像できたときに初めて自分自身との距離が縮まった」 東京大学4年の庭田杏珠さん。高校のころから地元広島で「記憶の解凍」プロジェクトとして白黒写真のカラー化に取り組んでいます。 展示会を開くなど、原爆で失われた暮らしをより多くの人に知ってほしい、と活動してきました。 この春大学を卒業する庭田さんは、被爆者の体験や自らの経験などをまとめた長編映画を制作中です。被爆80年となる2025年夏の公
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