A、B、Cといる。Aは社会において圧倒的多数を占める。Bは余所者であるがAとの交流は長い。いろいろな面でAに較べて不利な扱いを受ける。Cは更にニューカマーで数も少なく歴史的因縁は無い。 AがCを出汁にBを叩きながら、一方でCもそのままにしておくというのは、勿論よくあることだ。 2009−1945=64 1868+64=1932
A、B、Cといる。Aは社会において圧倒的多数を占める。Bは余所者であるがAとの交流は長い。いろいろな面でAに較べて不利な扱いを受ける。Cは更にニューカマーで数も少なく歴史的因縁は無い。 AがCを出汁にBを叩きながら、一方でCもそのままにしておくというのは、勿論よくあることだ。 2009−1945=64 1868+64=1932
おそらく巡回先の何処かで見かけたことを元に書いたものだとは思うものの。 批判されるのに慣れていない人たち - phaのニート日記 あるAさんがブログに何かを書いたとして、どこかのBさんがAさんを批判するブログやコメントを書いて、そしてAさんがBさんの意見に対してさらに反論したり批判したりした場合に、「Aさんは反論されたり批判されることに慣れてないんですかねえ、ネット上に意見を書くということは誰から批判されるか分からないということですよ」とかいう間抜けな反論をするBさんがときどき出て来るのは何故なんだろう。 phaさんが想定しているそのケースでは、確かにBさんが間抜けに見えるのだけど。 観測範囲の違いといえばそれまでかもしれないが、実際にはphaさんが想定しているケースを見たことがない。 Aさんがブログに何かを書く→BさんがAさんの批判をする→AさんがBさんに再反論する→Bさんが「Aさんは反
崎山氏の東浩紀擁護 http://blog.sakichan.org/ja/2008/12/14/on_attacks_against_hiroki_azuma ・「絶対的真実」は存在しない ・言論の自由は大切 ・南京大虐殺否定論でも、存在する意味はある。 ・それらを認めないと、弾圧が起きうる。 どれも賛成ですし、否定したこともありません。 問題は、バランスなのです。 東氏は何と言ったか? 東氏が「明らかに間違った歴史修整主義であっても、完全に排除するのはよくない」と言ってるのであれば、誰も反論しないでしょう。 問題は、東氏が、「明らかに間違った歴史修整主義」とは言っていない点にあります。 当たり前ですけど、政治的判断は一般に伝聞情報によって下される。ある事件について、本当に何が起こったかを自分の力で確かめられる人間は常に少数です。それなのに、膨大な情報だけはネットで簡単に手に入る。そのな
The New York Timesの倫理的問題相談コラムThe Ethicistにて、Facebook(ソーシャルネットワークサイト)で繋がっている生徒の問題行動を知ってしまった教師の相談があった。相談の内容は、以下の通り。訳はいつもの通りいい加減なので、うるさい人は原文を読んでください。 わたしの友人は生徒に人気の中学教師です。彼女はFacebookにアカウントを持っていて、多くの生徒から「友だち」として登録されており、かれらの書き込みを読むことができます。その結果、彼女は生徒たちについていろいろなことを−−ありがちな未成年の飲酒や麻薬の使用、時にはテストでのカンニングや宿題のズルなど学校に関連した問題行動などを含めて−−知ることになりました。彼女は、これらのことを学校や警察、家族に知らせなければいけないでしょうか? 学校には、この現代的な問題に関する規則はありません。 これに対する、
に便乗する人が、なんだかなー、の件。 実務家とラディカリストがそれぞれの立場に基づいて互いを批判するってのは何かしらの運動をやってくうえで必要とされるものだし、それはどちらが正しくどちらが間違っているなどと安直に取捨択一できるような性質の問題ではなく、その論争の一方で両者が相互補完的な役割をはたしてるのもおそらくまた確かなことであって、それは運動にかかわるものにとってはさして珍しくもない往々にして見慣れた光景ではないの。よくしらんけど、たぶん。 解せないのは、実務家の威を借りてラディカリストを非難しはじめるうからやからがあとからあとから湧いて出てくること。「あいつらのせいで○○がかわいそうです」とか言っちゃったり。お前ついさっきまで○○に同情的なことちっとも言ってなかったし行動もしてなかったじゃんかよ、と言いたくなるような手合いが、さぞかし実務に理解あるような賢しらな口をきいてる。実務を補
■沈黙していることと「本気で思うことは出来ない」と公言すること 思う事と言う事が直結している、なんて馬鹿げた事は、たとえば幼児でなければ、そんな事はありえない。というか、思うことをそのまま言わない事によってしか、われわれは生きられない。 日常生活をちょっと想起すれば分かることで、お前さんは、思ったことを全て口にして生活しているのか、と問えばいい。そして、言うまでもなく、日常生活もまた政治である。 ほんとうに感謝していなければ「ありがとう」と言えないというのは、幼児が良く陥る陥穽で、親戚のおばさんなんかに欲しくもないおもちゃを買ってこられて、ありがたく無いからありがとうが言えずその事で叱られ号泣したりする。 それも大人になれば、朝も早くから会いましたねという気持ちがなくても「おはよう」と、疲れていませんか大変ですねという気持ちがなくても「お疲れ様です」と言うことになる。ときに、当然言うべきと
だから、何で「表現の自由を訴えていることを理由として」なの? なぜ? ってわかんない理由がわかんないや。ある種の表現を法で規制すべき、と主張する人間はその種の表現が引き起こす(ないし引き起こすであろう)被害の問題については「法規制すべき」と主張するというかたちですでにコミットしているのだから、それとは別のかたちでのコミットメントをことさら要求すべき理由がない*1。彼らに求めるべきはむしろ「法規制するとして、それから?」という問いに取り組むことであろう。 ある種の表現についての(現状よりも踏み込んだ)法規制を拒むことによって放置される問題については、法規制に反対する人間が率先してコミットするべきであるのは当たり前のこと。だって、自分の主張が受けいれられた場合の帰結にどう対処するか、って問題なんだから。自分の主張が持つ含意に責任持てない人間は、それこそ黙っててもらうしかないだろ。 *1:もちろ
南京事件を否定してしまうのは入門知識すら身につけてない証 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか 史実派と否定派をどっちもどっちと言うのは只の知的怠惰の表明 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか 干上がった釣り堀 - シートン俗物記 このあたりの話題について少し。こうやって否定論(およびそれにシンパシーを感じていそうな人々)を批判すると、決まって出てくる反論がある。 「30万という数字に疑念を呈しただけで歴史修正主義者のレッテルを貼るのはおかしい(否定派と扱うのはおかしい)」 という奴だ。 歴史修正主義者とまで言われたかどうかはともかく、30万という数字に否定的なことを述べた「だけ」で非難されたなら、確かにそれはおかしいだろう。 そもそも「大虐殺派」などと揶揄される歴史学者の中にさえ推定犠牲者数を30万としている人はいない。だからといって、その方々が歴史修正主義者と呼ばれることはもちろんない*1。ま
春の伊予国漫遊記。松山・今治と愛媛の魅力を満喫してきました。 法事を兼ねて愛媛観光へ 2024年のGWは、毎年恒例の名古屋帰省ではなく自宅でゆっくり過ごしておりました。というのも、4月に法事のため愛媛・松山に親族大集合というイベントがありまして、そちらをGWの旅行代わりにしたという理由です。法事は日曜日の予定ということ…
援護射撃、ですか - 解決不能 コメント欄より。 いわゆる酷使様の醜悪な態度を改めさせるなら(それは必要であり望ましいことです)彼らを「人類と思」わずに切り捨てることではなく、人間として語りかけ彼らの良心と理性に訴えるのが正しいやり方だと信じます。 はてなブックマーク - 自由帳で数学とか物理とか | これじゃネトウヨとサヨクの「どっちもどっちショー」でしかない kurokuragawa 政治, ブログ, 共感できる 党派性が判断の先に立つ人たちには近付かないほうがいいです(上下左右問わず) 2009/04/01 はてなブックマーク - 自由帳で数学とか物理とか | kojitaken氏、有村悠氏はネットウヨクのことを笑えない kurokuragawa 政治, 揉め事, 左翼 鏡写しの「右」と「左」/党派性>合理性・一貫性の人に何を言っても無駄 2009/03/22 切り捨てちゃらめえええ
匿名の卑怯者さんたちの執拗な攻撃を受けている側に「スルー力」を求める人々って、結局残酷ですね。被害者からの相談を実際に受ける立場の人間からすると、とても血の通った人間の言葉とも思えなかったりします。 といいますか、そんなことが罷り通っているのは、さすがに我が国ではネット関連でしかありません。もちろん、特に保守を通り越して反動になってしまっている方々の中には、学校でのいじめ問題に関していじめられっ子に耐えることを求める向きも無いわけではないのですが、そういう方々というのは、いじめ問題を議論している最中にひたすら「日教組が悪い」と言い続ける方々の次くらいに怪訝そうな目で見られてしまうのが関の山ですし、学校の運営者が「被害者がスルーすればいい話だから、学校としてはいじめの事実を知っても何らの対処をする気もない」なんてことを言ってしまえば大問題になるし、「いじめにあった生徒に向けられた大量の攻撃的
高校3年の文化祭で、出し物の都合でピアノ奏者が必要に。重要な役割なのでプレッシャーが高く、また練習のために放課後長時間拘束されるのを嫌がって誰もやりたがらなかったが、内向的だったピアノ未経験の女子生徒が立候補。彼女をバックアップするためにクラス一丸となって準備に奔走する。結局彼女は最後まで習得できなかったが、演奏可能なパートだけで曲を再編成するという力技でなんとか成功させる。という、まさに「青春の一ページ」的な話に花を咲かせていたわけだが、しかし事態は一変する。 それは、クラスではさほど社交的ではなかったとある男子生徒(同窓会には欠席)が、幼稚園時代からピアノの英才教育を受けて現在はプロとして海外で活躍中だということが、海外赴任から一時帰国したクラスメートによって報告されたことに端を発する。高校卒業直後にどこかのコンクールに参加し、そのままやたらと長い名前の欧州の楽団にスカウトされたとか何
言ってないことが言ったことにされたりする問題。 頭がよすぎるから、「あいつはこう言った。それはこういう肚があるからに違いない!」と先読みしてひとりで反発している。そんなこと誰も言っていないのに……? 一を聞いて十を知る利発さはこういう弊害を持っているので危険だとつねづね思っている。 よく手品にかかわる言葉で、いぬを誘導トリックにかけることはできない、という文句がある。次はこうなるだろう、裏はこうなっているだろう、と予測し、想像する能力がないからだ。人間はそれができる。だから、手品師はその予測や想像をうらぎることができる。人間の知能の高さが逆手に取られているのだ。手品師に裏をかかれないためには、予測や想像に頼ることをひかえて、ありのままの事実を見ることが大事だ。 一を聞いて一しか知ろうとしない覚悟。 諸問題に影響するか*1 このエントリに「メディア」タグを付けているのは、この問題が、社会のあ
と言っても、別に千葉県知事のことではなくてですね。 このエントリなんですけど、 【自由帳で数学とか物理とか】さすがに「ペトリオット配備反対」は常軌を逸しているとしか言えない ペトリオットPAC-3は純粋な防衛用の兵器です。(略)純粋な防衛兵器であるPAC-3に対して反対運動を… PAC-3がミサイル防衛を用途とする装備であることは何人も否定しないと思います。ただ、軍事においてこれは防御専用の装備であって攻撃には使用不可ですとはっきり言いきれるものではなく、攻撃こそ最大の防御という言葉もあるように、攻撃のための防御、防御のための攻撃と容易に反転しうるし、そもそもその両者の境界線は判然としないものです。 ミサイル防衛戦略はレーガン時代に考案されたSDI構想を継承しているかと思いますが、もともとソヴィエト*1や中国のミサイル群に対抗するために開発されてきたわけです。アメリカはすでに大陸間弾道ミサ
2009.03.28 ネット上の「怪人」たち (32) カテゴリ:ネット論 映画やミュージカルでもおなじみのフランスの作家ガストン・ルルーによると、パリのオペラ座の地下には 「怪人」 が棲んでいるそうだが、ネットという仮想空間にも、様々な 「怪人」 が棲んでいる。 だいたいにおいて、この種の 「怪人」 というのは、自分ではブログを持っていないか、あるいは持っていてもたいしたことを書くわけでもなく、他人のところに押しかけては、頼まれてもいないのに批評したり説教したり、また議論を吹っかけたりするのが好きな人たちである。 その特徴はといえば、一番はなんといっても自己評価が異常に高いことである。そのような自己評価の過大さと、そこから垣間見えるきわめて強い自信とがいったいなにに根ざしているのかは、本人ではないから分からない。 その中には、いわゆる 「一流大学」 を出たり、高い 「学歴」 を持っている
相対主義に関するよくある質問 黒木 玄 目次 相対主義は絶対主義の否定ではない 相対主義はどういう立場か 「相対主義」が嫌われる理由 『「知」の欺瞞』の相対主義批判 相対主義は絶対主義の否定ではない 質問: 科学に関する相対主義は「科学は絶対的に正しい」という考え方の否定であると言っている人がいるのですが、それは本当ですか? 回答: いいえ、それは誤りです。おそらく、そう言っていた人は相対主義に関する議論を何も知らないのでしょう。相対主義は絶対主義の単なる否定という穏健な立場を意味しません。そもそも「科学は絶対的に正しい」なんて言っている馬鹿はどこにいるの? これに限らず、相対主義は単純に絶対主義の否定を意味しません。 「我々が信じている考え方はもしかしたら正しくないかもしれない、我々は悪しき決め付けをしているかもしれない、……」と考える慎重な態度は当然の前提であり、狂信者でもない限り、誰
cinema | 12:52 | 全体とは色々な部分の相互関係の全局面のことであって、そして「相互関係の全局面」をひとつのものや制度や人物や集団や等々で置き換えることはできない。部分には部分の不可侵の存在根拠があり、相互性は何処までも相互性として、関係は何処までも、いくつかのものの間の関係として、単一化できないまま存在する。だからそれらの「全局面」は永久に探求過程そのものとして残り続ける。だから大事なのだ。「部分は部分だ」という、この簡単な常識を忘れるところに全体主義時代の骨がらみの病気が伏在しているであろう。藤田省三『全体主義の時代経験』*1「生涯一ヘタレ」を自認しヘタレを信条とする私であるが、人様の行為に、ときどき「なんだかなぁ」と口にしてしまいたくなるときがある。とあるところで、唐突(としか私には見えなかったが)に「内ゲバ」や「全体主義」という言葉をみてウンザリしてしまった。ほんとう
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