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ゼロ年代に関するyanozのブックマーク (4)

  • ゼロ年代の川柳

    「ゼロ年代」(2000年~2009年)が終了して、「テン年代」とか「ポスト・ゼロ年代」とか言われるが、このような呼び方に反発や違和感をもつ向きもあるようだ。西暦10年ごとに区切るよりはもっと大きなスパンでとらえた方がよいのではないかということらしい。けれども、「昭和俳句」「平成俳句」などのような呼び方との違いは、「ゼロ年代」という区切り方をすると、ジャンルを横断しての共時的比較が可能になるという点である。特に川柳の場合は、年代的把握意識に乏しいから、「ゼロ年代川柳」というとらえ方で見えてくる光景があるのではないかと期待できる。 ゼロ年代の考察に入る前に、その前提となりそうな話題を振り返っておきたい。 短歌誌「井泉」37号(2011年1月1日発行)のリレー評論では〈短歌の「修辞レベルでの武装解除」を考える―95年以降の表現の変質について―〉というテーマで、荻原裕幸と彦坂美喜子の評論が掲載され

  • 『ゼロ年代の想像力』に向けたメモ - ピアノ・ファイア

    S-Fマガジン 2007年 07月号 [雑誌] 早川書房 2007-05-25 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools 今にわかに話題の、宇野常寛「ゼロ年代の想像力」を読了。こういう波風を立てる人が出てくること自体はいいことですね。 紙幅の関係で書ききれなかった部分かもしれないので、現時点では余計なツッコミにもなりえますが、あえて少しツッコミを入れてみます。 エヴァンゲリオンを「引きこもりモノ」と呼んで「生き残りモノ(=決断主義)」の反対に置くのは不完全な対置で、あの「アスカ復活」を無視していることになると思います。 シンジも最初は、目の前で倒れるレイを見て「逃げちゃダメだ」を連呼し、エヴァに乗り、「男の戰い」を演じ、でも最後はエヴァに乗らなくなる。 ここだけ見ると確かに「引きこもりモノ」ですが、一方アスカは「死ぬのはイヤ」を連呼し(シンジとの対比ですね)、

  • http://yaplog.jp/parsleymood/archive/823

    http://yaplog.jp/parsleymood/archive/823
  • ゼロ年代の想像力雑感――主体性とレイプファンタジーについて―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の提示した問題のフレームは確かに興味深いのだが、同時にさまざまな異論をあげたくなるような強引な部分が存在する。それについて、少しばかりメモしておきたい。 主体性の素朴な扱い 宇野常寛の議論にひとつだけ異を唱えろといわれたなら、迷わず彼の「主体」に対する執着をあげる。これは彼の議論の根幹である動員ゲーム論から、細部であるレイプファンタジー批判にまで応用できる。彼は主体が能動的決定者であるように単純化して取り扱うが、実際のところ、主体というのは「われあり」という根源的な部分と、それが世界と向き合うことで発生する「われかくあり」という倫理=表現的部分とに分かれる。そして人間は後者の主体性を生きている、といえる。 このような主体性は、世界と自己との関係性――すなわちコンテクストの中での暫定的なものでしかないにもかかわらず、再帰的に強化されていくという性質を持つ。これを宇

    ゼロ年代の想像力雑感――主体性とレイプファンタジーについて―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
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