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批判に関するyanozのブックマーク (26)

  • 「日本共産党からの批判に反論する」中央大学法学部教授/中北 浩爾 | 特集

    はじめに 私は2015年の安保法制反対運動とその後の野党共闘の進展を受けて日共産党への関心を高め、結党100周年にあたる2022年に『日共産党―「革命」を夢見た100年』(中公新書)を出版した(注1)。それ以来、新聞やテレビなど各種のメディアから、共産党についての論評を求められるようになり、①党員数や機関紙購読者数の減少にみられる党勢の後退、②国会や地方議会での議席の減少、③「市民と野党の共闘」の行き詰まり、という三つの困難に共産党が直面しており、抜的な自己改革が不可欠であると主張してきた(注2)。 そうしたなか、2024年2月21日付の『しんぶん赤旗』は、谷諭氏(日共産党理論委員会事務局長)の執筆による「日共産党を論ずるなら事実にもとづく議論を―中北浩爾氏の批判にこたえる」(以下、谷論文)を掲載した(注3)。その後、3月3日付の『しんぶん赤旗 日曜版』にも転載された。まず執

  • 批判的に読む | Encourage YOUR Research Journey! - 研究支援ポータル

    はじめに よく知らない分野についての文献を読むときには、「そこに書かれていることは事実であり、信じてよいだろう」と考えがちです。しかし、多くの文献は、文献の内容を理解するでも述べたように、あくまで著者自身の主張やアプローチが展開されているものです。 つまり、文献に書かれている事柄は、今後さらに研究者による検証を必要とする事柄であるとも言えます。したがって、文献を読む際には、書かれていることをよく吟味し、その確からしさを検討しながら読むことが必要です。 特に、自分自身のレポートや論文を書く際、もしくは自身の研究を進める際には、既存の研究について、その確からしさや有効性を検討したり、自分の考えと対比しながら自分自身の立場や研究の意義を明確にしたりすることが求められます。そのためには、「批判的な視点」(批判的思考:クリティカルシンキング)をもちながら文献を読むことが必要になります。 ここでは、文

  • 永井均の発言について - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

    永井均が、あるトランス差別に擁護ともとれる発言をして、ネットで話題になっている。発端は、永井の元教え子の谷口一平が、自分の投稿論文につけられた査読コメントをSNSで公開したことだ。谷口の論文はトランスジェンダーをテーマにしているが、査読の結果、不採用となった。しかしながら、谷口は査読者が、哲学研究者ではなくジェンダー論者であったことを批判し、不当な査読であったと訴えている。 togetter.com 谷口の主張の内容には踏み込まないが、これらの発言を一般論として「査読への不満」として理解する。トランスジェンダーをテーマにした論文であれば、どんなジャーナルであれ、ジェンダー論者が査読を担当することは十分に予測できる。そのために、学際領域を扱う哲学研究者であれば、先行研究を十分に精査し、査読者を説得できるよう先回って論を組み立てる必要がある。私自身、学際領域にいるし、うまく書けずに査読者に全然

    永井均の発言について - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)
  • 誹謗中傷かどうかよりも、批判の量のほうが問題じゃないかなという話|けんすう

    悲しい事件がおきて、インターネット上での誹謗中傷が問題になっています。 「自分も誹謗中傷されて困っている」「誹謗中傷をやめて」などと、有名な人たちが発言したり、テレビで「SNSが問題だ」と特集組まれたりしています。 で、それに対する解決策がいろいろなところで書かれていますが・・・。 20年くらい、インターネットコミュニティ界隈にいて、自分でも運営をたくさんしてた経験からすると、割と的外れなものも多いんじゃないかと思ったので、筆をとります。 当はこういう話題を取り上げるのも好きじゃなく、書いても自分にはメリットがまったくない上に、批判を浴びそうなので気がのらないんですが、、、なんとなく書いたほうが社会が前に進む可能性があるなと思ったので書いてみます。 誹謗中傷と批判を分ける意味があまりない結論からいうと、「誹謗中傷と批判をわけてちゃんと考えよう。」みたいな言論を最近良く見ますが、これはあま

    誹謗中傷かどうかよりも、批判の量のほうが問題じゃないかなという話|けんすう
  • タリン・パディの反ユダヤ主義疑惑を払拭する

    チェン・ウェイモン|インター・アジア木版画グループのメンバー 杉田敦訳 これは、“Inter-Asia Aoodcut Mapping series IV”の『異識的藝術』と題された冊子に掲載された論考(英文)の日語訳である。 * インドネシアの芸術家集団タリン・パディによる作品『人民の正義』は、documenta 15において、「反ユダヤ主義」であると告発された。作品は当初、黒い布で覆われていたが、後にカッセル当局の発表を受けて展示から撤去された。同市のクリスチャン・ゲゼル市長は、『人民の正義』が市と展示に「重大な損害」を与えていると批判した。ドイツ文化メディア大臣クラウディア・ロートは、この作品を選定した意志決定プロセスの調査を約束した。documenta 15に対する反ユダヤ主義という批判は、最終的に、2022年7月16日の、ディレクターのザビーネ・ショーマンの辞任に至った。 『

    タリン・パディの反ユダヤ主義疑惑を払拭する
  • ウォーク批判は、ソーシャルグッドの終わりであり、始まりでもある。|コピーライター・橋口幸生コラム - あしたメディア by BIGLOBE

    女性差別をなくそう。気候変動を止めよう。多様性を受け入れよう。そんなテーマをかかげた広告をこの連載では紹介してきた。欧米の広告業界では、商品を売るだけではない、社会を前進させる広告が評価されるようになっている。「ソーシャルグッド」と呼ばれるこの動きを日の広告業界にも広めるべく、連載を続けてきた。 しかし、ここに来てソーシャルグッドは曲がり角に来ている。ウォーク(Woke)という言葉で、ソーシャルグッドが批判されるようになってきたのだ。 ウォークはwake(目覚める)の過去分詞形で、「目覚めた」を意味する。社会問題に「目覚めた」リベラル層を揶揄するために使うスラングだ。日語だと「意識高い系」に近い。 ウォークは英語圏のネトウヨ的な人たちが使う類の言葉で、大人が真面目に向き合うものではない…と、個人的には思っていた。しかし最近、少し状況が変わってきた。ソーシャルグッドを志すブランドが、ウ

    ウォーク批判は、ソーシャルグッドの終わりであり、始まりでもある。|コピーライター・橋口幸生コラム - あしたメディア by BIGLOBE
  • 覚え書き:イアン・ハッキングの精神障害の哲学について - memoranda

    イアン・ハッキングが亡くなってしまいました。トロント大学の記事によると以前から健康を害していたそうで、たしかにこの10年ほど、まともなアウトプットがなかったことからうすうす予期してはいたのですが、この5月10日に亡くなってしまったとのことです。残念です。また、今回あらためて、ハッキングから学んできたことの多さを感じてもいます。 ご存じのとおり広大な領域において、しかもユニークな手法で仕事をしてきた人です。なので私はそのほんのごく一部、精神障害の哲学の領域を中心に彼から学んできたにすぎません。にもかかわらず、学んだことはとても多く、そこからまた多くの課題を得てきたと感じています。 彼の精神障害の哲学を考えるさい、二つの大きな仕事があるように感じています。ひとつは神経症周辺の仕事で、もうひとつは自閉症に関係する仕事かな、と思います。そしてこうした二つの領域のいずれにおいても、精神医学などの人間

    覚え書き:イアン・ハッキングの精神障害の哲学について - memoranda
  • 「コグトレ」記事への批判的考察

    こんにちは。 今まであまり批判的な記事を書くことはなかったのですが、先日公開されたコグトレ(認知機能トレーニングについての愛称みたいなものです)記事の内容が「いくらなんでも…」という内容だったので、批判的な論考記事を書きたいと思います。 論考対象記事について 今回、考えたいのはPRESIDENT Onlineに掲載されたこちらの記事です。 「勉強が苦手な子」でも遊び感覚で続けられる…教育界で話題沸騰の教材「コグトレ」とは何か もともとは非行少年向けに作られた「コグトレ」というプログラムが教育関係者に注目されている。もともとは、少年院の非行少年たちの認知機能向上のために作られたものだ。なぜ少年院以外の教育現場でも話題なのか。考案者で立命館大学産業社会学部の宮口幸治教授が解説する——。president.jp 記事の趣旨は『「コグトレ」というプログラムが教育関係者に注目されている。もともとは

    「コグトレ」記事への批判的考察
  • 湯リイカ

    例えば「公園」が私的な空間ではないとされるように、公共性を巡る議論において「公/パブリック」と「私/プライベート」は区別されてきました。もっとも硬直化・建前化した公的領域と同質的・閉鎖的な私的領域が分断された昨今の状況に対して、この区別を批判的に捉えなおす必要があるでしょう。そのためにも、来個別で主観的な「私」の領域がいかなる意味で「公」と関わるのか、改めて考えたいと思います。 こうした問いを伝統的に考えてきたのが、感性や情動における公共性を論じる近代美学です。今回は、現代的な問題意識から美学を捉えなおす宮﨑さんと、現代において共同体を考える際の論点、そしてそれを乗り越える「テレコミュニケーション」の可能性について、問いを深めていきます。 主観的で公共的―「美的なつながり」の理論 「エビデンスは?」と言われるこんな世の中で 昨今では、客観的なエビデンスの有無がかなり広い範囲で問われるよう

    湯リイカ
  • 「誹謗中傷」と「批判」の違いとは何か? 美術批評の視点から

    「誹謗中傷」と「批判」の違いとは何か? 美術批評の視点からSNSにおける誹謗中傷をめぐり、政府も悪質な投稿者の電話番号を開示できるようにする方向を示すなど、議論が高まりを見せている。そこでここでは、美術批評を軸に、「誹謗中傷」と「批判」の違いを武蔵野美術大学教授で憲法研究者の志田陽子が論じる。 文=志田陽子(武蔵野美術大学教授) 「あいちトリエンナーレ2019」において、「表現の不自由展・その後」展示中止に抗議して改変されたモニカ・メイヤー《沈黙のClothline》(2019) 放任できない悪質言論 SNS上の誹謗中傷が人の精神を追い詰める、という問題が、リアリティ番組出演者の自殺という出来事をきっかけに社会全体の関心事となっている。これに法がどう対処すべきかについて、様々な視点からの議論が出されているが、これに伴って、「法的に許容されない『誹謗中傷』と、正当な『批判』との線引きをどう考

    「誹謗中傷」と「批判」の違いとは何か? 美術批評の視点から
  • ぺぺ長谷川(塚原活)を悼む|花咲政之輔

    2/18、2/19国立谷保「かけこみ亭」及び「きしゃぽっぽ公園」でのぺぺ長谷川(塚原活)のお別れ会、そして2/20堀之内斎場での火葬に参列してきた。 神長クン、イカさん、原島さんはじめ 運営の皆さん、当にお疲れ様です。ありがとう。 おかげさまで、素晴らしく原則的な見送りができました。 2/18。ベース&スロヴァキア史研究の井出匠、トランぺッターの佐藤信吾・加藤直喜と現地へ。 「きしゃぽっぽ公園」でピアニストの小林創、板橋区の千種クン、藤井謙一郎・京子夫、子午線の春日社長、大森孝参弁護士、海女研究の小暮修三、白水出版センターの小野信也クンなど今も日常的に会い共闘している面々+懐かしい面々が車座になり献杯。 小林・井出・佐藤・加藤・春日・小野クン以外とはほぼ20年ぶりだ。塚原とは早大黒ヘルノンセクトグループとブルース軍団という音楽サークルの両方で一緒だった。 恥ずべき差別主義者・極右評論家

    ぺぺ長谷川(塚原活)を悼む|花咲政之輔
  • ジョセフ・ヒース「なぜカナダの大学教授は学生を恐れないのか:あるいは、アメリカの大学がポリティカル・コレクトネスに席巻された理由」(2015年6月8日) – 道草

    ジョセフ・ヒース「なぜカナダの大学教授は学生を恐れないのか:あるいは、アメリカの大学がポリティカル・コレクトネスに席巻された理由」(2015年6月8日) Why Canadian professors aren’t afraid of their students カナダのジャーナリストが陥りがちな怠惰な習慣の一つに、カナダとアメリカが同じ国であるかのように語ってしまうことがある。これは、アメリカで何が悪いことが起こっていると、カナダでも同じことが起こっていると彼らは思い込んでしまうことからも明らかで、この思い込み故に彼らは実際の取材に赴かない。 大学が最近「ポリティカル・コレクトネス」に席巻されているのを懸念する件でもこれを観察することができる。アメリカでは、いかにして大学教授が学生を怖がるようになったかの説明と伴に、教授達がトラウマを負っている話が、最近多く報道されている。また、アドミ

  • MBTIに対する批判 - 齟齬

    MBTIは信頼性のないエセ科学か? INTJは特にMBTIテストに「ハマる」と書いてあるのを見たことがありますが、たしかにハマった私です。 でも、信頼性があるかというと疑問です。そもそも、ベースがユング理論という時点で、科学というよりもオカルト~って感じがします。 実際のところ、MBTIはどこまで信用できるのか? MBTIが現代心理学から受けている批判を紹介します。 INTJって、だいたいクールでかっこいいキャラになりますよね? カービィのキャラでは、「メタナイト」でした。 MBTIの問題点 なぜMBTIは人気なのか? まとめ MBTIの問題点 MBTIは、ユングの人格理論に基づく世界でもっとも人気のある心理テストである。毎年200万人以上がテストされている。MBTIはあなたを16タイプのうち一つに分類する。内向的か外向的か、論理的か感情的か(「思考型」、「感覚型」と呼ばれる)などで。 興

    MBTIに対する批判 - 齟齬
  • 「新自由主義」批判がグダグダになりがちな理由(ジョセフ・ヒース論文「批判理論が陰謀論になるとき」メモ) - 清く正しく小賢しく

    今回紹介するのは、ジョセフ・ヒースの論文「When does Critical Theory Become Conspiracy Theory?」である。この論文でヒースは、「新自由主義」概念をルーズに用いた議論などを念頭に置きながら、批判理論が陰謀論に堕してしまう条件、さらにまっとうな批判理論と陰謀論紛いの批判理論を分かつ特徴を検討している。 なお批判理論というのは、とりあえず「規範的目的を明示した社会科学的探究」ぐらいの意味で捉えればよいと思う。批判的社会科学や批判的〇〇研究を名乗っている研究はもちろん批判理論に含まれるし、左派的なポジションを明示した研究の多くも含めることができるだろう。 どれくらい知られていることなのかは分からないが、ヒースはハーバーマスの弟子であり、自らを批判理論の伝統に属する研究者と位置付けている*1。それゆえにこそ、堕落した批判理論に対して厳しい態度をとってい

    「新自由主義」批判がグダグダになりがちな理由(ジョセフ・ヒース論文「批判理論が陰謀論になるとき」メモ) - 清く正しく小賢しく
  • 連載を始めます。題して「人命の特別を言わず*言う」。|立岩真也

    連載について】                         人間だけでなく、あらゆる生命の「命を奪ってはならない/奪ってよい」をめぐって、これまで言われてきたことを、社会学者の立岩真也さんが多角的に検討し、自身の考えを展開していきます。『唯の生』第1章での議論をもとに、さらなる展開を図る連載、終了後には単行として刊行します。ご愛読を! (筑摩書房編集部) 第1章 人命の特別を言わず/言う1 脱人間中心主義と称する主張                    ■1 殺生について 人間は人間だけを特別に扱っている。実際には、夥しい数の人を殺してきて、殺している★01けれども、それでも、そのようにすべきであるということにはなっている。それを(ヒトの)「生命神聖性説」であるとし、それは「種差別主義(speciesism)」であるとして批判する。そして、ある人間を遺棄して(殺して)、ある動

    連載を始めます。題して「人命の特別を言わず*言う」。|立岩真也
  • Critical neuroscience—or critical science? A perspective on the perceived normative significance of neuroscience

  • 反・斎藤幸平論――マルクス三昧(1)|稲生鉄生

    〔一〕ハル君への手紙 Ⅰ 〔二〕マルクス・エンゲルス三読 上 〔二〕マルクス・エンゲルス三読 中 〔二〕マルクス・エンゲルス三読 下 〔三〕ハル君への手紙 Ⅱ Ver.1.1(09/03):文字化けの修正、表記の統一、誤変換、語の脱落、等の校正 カッコ内に、頁数のみを表記しているのは『大洪水の前に』からの引用頁。MEWのS.は邦訳版での原頁表記。 〔一〕ハル君への手紙 Ⅰ(1) まえおき いま、評判の斎藤幸平の『人新世の「資論」』をどう思うかという質問ですが、このは手元にはありますが、流読、拾い読みした程度で、十分には目を通せていません。ただ、彼の前著、或いは主著と言っていいと思いますが、『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』は、それなりに精読しました。 斎藤の名前は、白井聡の『武器としての「資論」』の書評(「「批判的破壊力」を持った「使える資論」再び」https://toyo

    反・斎藤幸平論――マルクス三昧(1)|稲生鉄生
  • 名著「大衆の反逆」、南相馬発の新訳版 スペイン思想研究家が十数年かけ完成、直後に死去|好書好日

    英語教師の美子さん(右)とは「お互い一目ぼれ」だったという佐々木孝さん=2016年、福島県南相馬市 「高みからの批判」覆し、人々の目覚め信じる 佐々木さんは上智大でスペイン語と哲学を学び、オルテガやウナムーノの研究をしながら、清泉女子大教授などとして30年余り教壇に立った。その後、故郷の福島県南相馬市に戻った。 11年の東日大震災では、福島第一原発から25キロの自宅から認知症のを連れて避難できないと判断。「モノディアロゴス(独対話)」と題したブログで発信を続け、国内外の取材者や芸術家を迎え入れた。 『大衆の反逆』の翻訳を格的に始めたのは06年、翌年にいったん訳し終えたが、震災による中断をはさんで手直しを続けた。18年12月、肺がん治療のため入院する直前、完成した翻訳の原稿を家族に託した。5日後、79歳で亡くなった。 遺稿は、佐々木さんの著書の愛読者を通じて、岩波書店に持ち込まれた。担

    名著「大衆の反逆」、南相馬発の新訳版 スペイン思想研究家が十数年かけ完成、直後に死去|好書好日
  • 「欠如モデル」と「欠如モデル批判」についての覚書 - r_shinehaの日記

    TwitterとかFacebookで書いたものについて、ブログでも公開することにした。 第一弾は、「欠如モデル」と「欠如モデル批判」について。 とある原稿で「欠如モデル」について書くので、その下書きというかメモ。 (4月にFacebookに書いたもののコピーです。あしからず。。。) 一気に書きなぐった文章なので、まだ文章が硬すぎる・すっきりしない・分かりにくい。。。orz またちょっと長いので、もうちょっとシンプルにかつ短くまとめないといけないけれど、そのあたりはご容赦ください。 あくまでメモということで。 - 欠如モデル 「欠如モデル(Deficit model)」とは、一般の人々が科学技術を受容しないことの原因は、科学的知識の欠如にあるとして、専門家が人々に知識を与え続けることで、一般の人々の科学受容や肯定度が上昇するという考え方を指す。このような考え方は、1980年代までの「科学の公

    「欠如モデル」と「欠如モデル批判」についての覚書 - r_shinehaの日記
  • ジョセフ・ヒース「『批判的』研究の問題」(2018年1月26日)

    [Joseph Heath, “The problem with “critical” studies,” In Due Course, January 26, 2018] 学部生だった頃,こんな風に思っていた――《「客観的」「価値自由」なやり方で社会現象を研究する実証主義が社会科学で蔓延しているのは世界の災厄だ.そんなものは幻想だ,というか有害な幻想だ.だって,客観性をよそおいつつ,その裏には隠れた目標があるんだから.つまり,支配しようという利害関心をもってるんだ.人々を主体ではなく研究の対象として扱うなんて政治的に中立じゃない,だってそうやってうみだされる知識ってのは,どういうわけかうまいぐあいに,まさに人々を操作し管理するために必要とされるたぐいの知識になってるもの.つまり,「客観的な」社会科学はちっとも価値自由なんかじゃない,むしろ抑圧の道具になってるじゃないか.》 これに替わる選

    ジョセフ・ヒース「『批判的』研究の問題」(2018年1月26日)