シオランやバタイユのような思想家にとって、涙は奇妙な現象であって、もっとも偉大な聖性やエロスの経験にも通じる、説明不可能な現象であった。シオランなどは、「涙ぐむことこそ福音である」と述べているほどである。シオランの『カイエ』を読むと、彼がバッハやハイドンの音楽を聴いて涙ぐむ姿が浮かび上がるのだが、涙がニヒリストの福音であるとすれば、古典派やバッハの音楽を聴いて涙を落とす瞬間は、「彼のためのものではない」希望や救済のコスモスに触れる経験であったかもしれない。こうした経験は一方ではひとを美学へと向わせるだが、バタイユとシオランは、涙という経験に含まれた至高性を強調した。 涙はなぜ、それが苦痛や悲しみによってもたらされたときにすらどこか心地よく、悲しみそのものを霧散させ、救いの印象すらあたえることがあるのか。バタイユとシオランを失望させると同時に喜ばせたのは、彼らにとって説得的な説明を生理学や機