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美学に関するyanozのブックマーク (39)

  • 室井尚 - Wikipedia

    室井 尚(むろい ひさし、1955年3月24日 - 2023年3月21日[1])は、日の美学者、記号学者。横浜国立大学名誉教授。唐十郎を横浜国立大学の教授として招いた。 略歴[編集] 伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2023年5月) 1955年:山形県山形市に生まれる 1973年:茨城県立水戸第一高等学校卒業[2] 1977年:京都大学文学部美学美術史専攻卒業 1982年:京都大学大学院博士課程単位取得満期退学 1989年:帝塚山学院大学専任講師 1992年:横浜国立大学教育学部助教授 1997年:横浜国立大学教育人間科学部助教授 2003年:横浜国立大学教育人間科学部教授 2011年:横浜国立大学都市イノベーション研究院建築都市文化専攻教授 2017年:横浜国立大学教育学部教授

  • 美的なものと芸術的なもの - obakeweb

    1 美学は芸術の哲学なのか? 2 芸術抜きの美学? 3 美学抜きの芸術? 4 ビアズリー、ディッキー、シブリー 5 美的なものと芸術的なもの、その後 参考文献 1 美学は芸術の哲学なのか? 博士論文(80,000 words)をあらかた仕上げて予備審査に出したので、ゴキゲンのブログ更新。 博論でも取り上げている話だが、私の専門である美学/芸術哲学への入門的な話題としてよさそうだったので、一部ネタを抜粋して再構成してみた。なにかというと、美学と芸術哲学の関係性についての話だ。*1 美学[aesthetics]は、なんの専門家でもない人にとっては「男の美学」「仕事の美学」とか言われるときの流儀やこだわりを指す日常語であり、もうちょっと詳しい人にとっては、芸術哲学[philosophy of art]の同義語だ。英語でも事情は同じらしく、aestheticsが専門だと言えば、artについてなんか

    美的なものと芸術的なもの - obakeweb
  • 森元 庸介 (Yosuke Morimoto) - マイポータル - researchmap

    L'Université de Paris Ouest-Nanterre La Défense 2011年4月  査読有り

  • 湯リイカ

    例えば「公園」が私的な空間ではないとされるように、公共性を巡る議論において「公/パブリック」と「私/プライベート」は区別されてきました。もっとも硬直化・建前化した公的領域と同質的・閉鎖的な私的領域が分断された昨今の状況に対して、この区別を批判的に捉えなおす必要があるでしょう。そのためにも、来個別で主観的な「私」の領域がいかなる意味で「公」と関わるのか、改めて考えたいと思います。 こうした問いを伝統的に考えてきたのが、感性や情動における公共性を論じる近代美学です。今回は、現代的な問題意識から美学を捉えなおす宮﨑さんと、現代において共同体を考える際の論点、そしてそれを乗り越える「テレコミュニケーション」の可能性について、問いを深めていきます。 主観的で公共的―「美的なつながり」の理論 「エビデンスは?」と言われるこんな世の中で 昨今では、客観的なエビデンスの有無がかなり広い範囲で問われるよう

    湯リイカ
  • 美しいものは喜びに適合している?:美的価値についての適合態度分析 - obakeweb

    美的価値とはなんぞやをめぐる、最新の研究です。*1 「美しい」「崇高である」「パワフルである」といった美的価値については、しばしばそれによって引き起こされる反応の観点から説明されてきた。すなわち、美しかったり優美だったりして美的に良いものとは、私たちに特別な快楽やら満足やら喜びを与えるものにほかならない。ここでは、ある特別な情動的反応をもたらす能力の観点から、美的価値を持つことが分析されている。 いわゆる美的快楽主義はこの筆頭なわけだが、能力による価値の分析にはいろいろとしんどい点がある。とりわけ、どうやって価値の客観性を担保するのかが問題となる。ワーグナーの美しい楽曲は快楽を与えるとは言うが、クラシックに親しんでいない私にはあんなのちんぷんかんぷんなだけで、特別な快楽は感じられない。私だけでなく多くの人がそうなのだとしたら、なぜワーグナーの楽曲には美的価値があるなどと言えるのか。 快楽主

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  • 銭 清弘 (Kiyohiro Sen) - 制度は意図に取って代われるのか - 講演・口頭発表等 - researchmap

    作者の意図が作品の意味や内容を決定するという見解は、分析美学において根強く支持されてきた。発表では、キャサリン・エイベル『フィクション:哲学的分析』によって提示された代替案を検討する。エイベルによれば、フィクションとは作者と鑑賞者で想像を共有するゲームであり、その根幹をなす「想像の伝達」という課題を解決するのは、作者の内的な意図ではなく、作者と鑑賞者の共有するフィクションの制度、そこに含まれる内容決定ルールである。エイベルの制度的アプローチには妥当でない前提および帰結が伴うことを指摘し、鑑賞者同士の協調に依拠した別の制度的アプローチを提案する。

  • 作者の意図とその証拠|obakeweb

    作品解釈における意図の話は、定期的に浮上するので、みんな好きなんだなぁと実感する。最近もろもろを読んで整理できたことをいくつかまとめておこう。なかなか進展の見えない話題だが、なんらかの役には立つだろう。 村山さんの紹介しているMatraversの議論はかなり腑に落ちるものなのだが、補助線として以下の話をしておくとなおよしかもしれない。すなわち、意図論争においては、大きくふたつの(結びついてはいるが)異質な問いが与えられている。 存在論的問い:作品の正しい意味は、作者の意図によって決まるのか。認識論的問い:正しい解釈が参照すべき証拠はなにか。しばしば想定され、ボコボコにされる類の意図主義とは、前者の問いに対し「作者の意図だけで決まる」と答え、後者の問いに対し「作者の発言、日記、インタビューなどを片っ端から調査すべし」と答える。それじゃあ、もう批評じゃなくて伝記じゃん、というので反意図主義者た

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  • judgement.pdf

  • たかやん考:ネットラッパーの揺曳する身体と「病み」の美学、そして「エンパワメント」 - ハイパー春菊サラダボウル

    海外で人気な日の◯◯」というワードが、今日もネットやテレビで飛び交う。俗に"国民性"と信じられた固有性が国境を越え、新たな価値を発揮する……そんな文化の越境性は、純粋に好奇心を刺激するトピックの一つである。 では、海外で人気な日のアーティスト「たかやん」についてご存知だろうか? たかやんはSpotify Japanが発表した「2021年 海外で最も再生された日のアーティスト」ベスト10にランクインし、YouTubeでは170万人の登録者を抱える人気アーティストだ。 TOKION:『2021年のSpotifyのデータから読み解く「日音楽シーン」と「海外で聴かれる日音楽」』より https://tokion.jp/2022/04/04/japanese-music-scene-to-be-read-from-2021-spotify-data/ たかやんを知らない人のためにも一

    たかやん考:ネットラッパーの揺曳する身体と「病み」の美学、そして「エンパワメント」 - ハイパー春菊サラダボウル
  • 「思い通りにならない体」の不思議さに耳を傾ける 美学者・東京工業大学教授・伊藤亜紗 | AERA dot. (アエラドット)

    夫も美学者。美学者同士だからこそ、仕事の展開を評価されるとうれしい(撮影/今村拓馬) 美学者・東京工業大学教授、伊藤亜紗。目が見えない、耳が聞こえない、しゃべるときにどもる、幻肢が痛む……。自分の体なのに、ときに体がままならない。伊藤亜紗は、それぞれの体が持つ「固有性」や詳細を聞き取り、それを抱える人々の悲喜こもごもや、生きるための工夫を記してきた。体は理由がないことをする。説明できないこともたくさんある。そこを理解し、言語化していきたいと伊藤は考える。 *  *  * 全盲の男性がハンバーグとポテトサラダを調理している。刻み方やこね方に無駄がない。付け合わせの野菜は自動水切り器で水を切る。慣れた手つきで洗い物も並行しておこない、所定の位置に調理器具を収納する。午後の早い時間だったが、部屋の照明はつけていなかった。男性は「あ、(照明を)つけましょうね。いつもこのままだから」と微笑(ほほえ)

    「思い通りにならない体」の不思議さに耳を傾ける 美学者・東京工業大学教授・伊藤亜紗 | AERA dot. (アエラドット)
  • 「おかんアート」が不可視化しているものとは何か。「Museum of Mom's Art ニッポン国おかんアート村」レビュー(評:山崎明子)

    ▶︎ 都築響一+「下町レトロに首っ丈の会」キュレーションによる「Museum of Mom's Art ニッポン国おかんアート村」が、東京都渋谷公園通りギャラリーにて1月22日~4月10日に開催されている。「おかんがつくるアート」のことと展が定義する「おかんアート」とはなんなのか、その歴史的文脈をふまえて解説。視覚文化論、美術制度史、ジェンダー論を専門とし、手芸とアートの関係をジェンダーの視点から研究してきた山崎明子(奈良女子大学教授)が論じる。【Tokyo Art Beat】 「おかんアート」の前で思考する「おかんアート」というものが以前から気になっていた。一目見て自分の身近にあったもので、懐かしいと感じる作品が多い。私自身、子供時代にこれらを母と作った記憶がある。小学生でも作れるもので、こうしたモノを作りながら縫う・編む・結ぶなど手芸の基技術を知らずに学んだのだと思う。東京都渋谷

    「おかんアート」が不可視化しているものとは何か。「Museum of Mom's Art ニッポン国おかんアート村」レビュー(評:山崎明子)
  • レジュメ|Brian Laetz「ケンダル・ウォルトンの〈芸術のカテゴリー〉:批評的注釈」(2010) - obakeweb

    Laetz, Brian (2010). Kendall Walton's 'Categories of Art': A Critical Commentary. British Journal of Aesthetics 50 (3):287-306. 久々にケンダル・ウォルトン「芸術のカテゴリー」を読み直し、「あれ、こんな立場だっけ」と気になる点があったので、森さんも紹介されていたBrian Laetzのコメンタリー論文をあたった*1。結果、どんぴしゃの解説があり、前評判通りかなりよいコメンタリーだったので、まとめておく。森さんのエントリーは以下。 気になっていたのは、形式主義vs文脈主義から見たウォルトンの位置付け。最近ビアズリーを読んでいたので、彼との対比においてウォルトンはごりごりの文脈主義者かと思っていたが、読み直してみると意外とユニークな立場ではないかと思われた。Laetz論

    レジュメ|Brian Laetz「ケンダル・ウォルトンの〈芸術のカテゴリー〉:批評的注釈」(2010) - obakeweb
  • [PDF]われわれ凡人は批評文をどのように読むべきか

    人間生活文化研究 Int J Hum Cult Stud. No. 31 2021 [査読有り] われわれ凡人は批評文をどのように読むべきか 365 われわれ凡人は批評文をどのように読むべきか ―理想的観賞者と美的価値をめぐる近年の論争から考える― How should we ordinary people read art criticism? ―Some consequences of the recent controversies on ideal critics and aesthetic value― 森 功次 大女子大学国際センター Norihide Mori International Center, Otsuma Women’s University 12 Sanban-cho, Chiyoda-ku, Tokyo, 102-8357 Japan キーワード:美的価値,

  • ダンスのような、介護のような「とつとつダンス」オンライン トーク・セッション

    ダンスのような、介護のような「とつとつダンス」オンライン トーク・セッション認知症高齢者とのダンス・音楽によるコミュニケーションの可能性 著書『老人ホームで生まれた<とつとつダンス>』(晶文社)で知られるダンサー・砂連尾理(じゃれお・おさむ)と、マレーシアのサウンドアーティスト、カマル・サブランが、”認知症高齢者とのダンス・音楽を通じたコミュニケーションの可能性を探る”オンラインのトーク・セッションを、2020年11月1日(日)に開催します!ゲストには、美学者の伊藤亜紗や知能情報学者の藤波努らが登場します。参加無料。 パネリスト写真 「とつとつダンス」トーク・セッション -認知症高齢者とのダンス・音楽によるコミュニケーションの可能性- 日時:2020年11月1日(日)午後2時~午後4時45分(途中休憩あり) 会場:オンライン(お申込みいただいた方にYoutubeライブのリンクをお知らせしま

    ダンスのような、介護のような「とつとつダンス」オンライン トーク・セッション
  • 【西山瞳の鋼鉄のジャズ女】第27回 ヘヴィメタルの歴史的に絶対聴いておかないといけない3枚 | Mikiki by TOWER RECORDS

    ジャズ・ピアニストでありながらメタル・ファンとしても知られる西山瞳さんによる連載〈西山瞳の鋼鉄のジャズ女〉。実は前々回より担当編集が変更になりました。27回目となる今回のテーマは、そんな編集(私)の要望を聞いていただき、〈ヘヴィメタルの歴史的に絶対聴いておかないといけない3枚〉です。西山さん、今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします……。 *Mikiki編集部 ★西山瞳の“鋼鉄のジャズ女”記事一覧 Mikikiで2年間この連載をやっていますが、そもそもMikikiはヘヴィメタル成分があまりないメディアでして、私の職はジャズ・ピアニストですから、わりと変な連載を続けているわけなんですね。私の連載のバナーだけ黒くておしゃれじゃないし。 私とMikikiとの元々のご縁は、アニメのキャラソンをレビューする連載でなぜか声をかけて頂いたのが始まりで、NHORHMのCDリリースでインタビュー

    【西山瞳の鋼鉄のジャズ女】第27回 ヘヴィメタルの歴史的に絶対聴いておかないといけない3枚 | Mikiki by TOWER RECORDS
  • Kalle Puolakka「日常の中の小説」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

    Puolakka, Kalle (2019). Novels in the Everyday: An Aesthetic Investigation. Estetika 56 (2):206-222. 日常美学(エヴリデイエステティクス)の観点から、小説を読むことの経験を扱った美学論文。当然ながら、コンスタントに小説を読む読者にとって、読むことは日常のルーチンの一部だが、この論文では、ピーター・キヴィの文学の哲学を援用することで、日常(エヴリデイ)の一部としての「読むこと」を扱っている。 元のキヴィの著作は、実際にはこの論文とはまったく別の文脈にある問題を扱う著作なのだが、著者はそれを応用して小説読書経験の分析に使うという方針をとっていて、ややアクロバティックだが、おもしろかった。 小説を読むことのエヴリデイネスと、読むことのパフォーマンス The Performance of Read

    Kalle Puolakka「日常の中の小説」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
  • K. Walton「芸術のカテゴリー」|morinorihide

    ケンダル・ウォルトン「芸術のカテゴリー」(Kendall L. Walton, "Categories of Art," 1970)を全訳したので売ります。 以下から閲覧・ダウンロードできます。PDFで390円です。 芸術知覚の経験を分析することで、芸術批評を支える〈作品それ自体とは別の要素〉の重要性を主張した古典的論文です。「芸術観賞は作品それ自体のみに注意を向けなければならない」とする立場を強く批判し、「意図に関する誤謬(Intentional Fallacy)は誤謬ではない!」と説得的に論じたこの論文は、美学における批評理論の流れを形式主義から文脈主義へと変える大きなきっかけとなりました。 論文は美学に関するさまざまなリーダー・アンソロジーに収録されており、現代では必読の論文といえます。英語圏美学史の論文のなかでも被引用回数はトップクラスに入りますし、入門書では必ず言及される一

    K. Walton「芸術のカテゴリー」|morinorihide
  • Mark Windsor「不安な話」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

    Windsor, Mark (2019). Tales of Dread. Estetika 56 (1):65-86. 「テイルズ・オブ・ドレッド(不安な話)」(Tales of Dread)は、ジャンル名なのだが、英語でも特にジャンル名として定着しているわけではない。元はと言えば、ノエル・キャロルが『ホラーの哲学』の中で、ホラーに似ているが、ホラーとは区別されるジャンルとして提示したのがはじまりだ。キャロル自身は、ホラーというジャンルを、恐怖と嫌悪を与えるモンスター(ドラキュラや幽霊など)の存在によって特徴づけている。一方、テイルズ・オブ・ドレッドは、「神秘的で、心をかきみだす超自然的出来事」を描くジャンルであるとされる。 おそらく、例をあげた方が早いだろう。ノエル・キャロルは、このジャンルの具体的な作品として、テレビドラマ『トワイライトゾーン』の多くのエピソードや、W・W・ジェイコブ

    Mark Windsor「不安な話」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
  • レジュメ|ジョナサン・コーエン&アーロン・メスキン「写真の認識論的価値について」 - obakeweb

    Cohen, Jonathan & Meskin, Aaron (2004). On the epistemic value of photographs. Journal of Aesthetics and Art Criticism 62 (2):197–210. 写真の認識論的価値(epistemic value)*1を巡る、2004年の重要論文。 K.Walton、C.Abell、R.Hopkins、S.Waldenらの論争から、近年の「ニューセオリー」周辺のアップデートまで、写真から得られる「情報」「知識」を巡る議論はいずれもCohen & Meskin 2004の上に成り立っていると言っても過言ではない。コーエン・アンド・メスキンでピンとこないのはモグリです。 やや古い議論ですが、今日的な論争の基盤になる論文なので、分析写真論に関心のある方はぜひ見ていってください。 0.イント

    レジュメ|ジョナサン・コーエン&アーロン・メスキン「写真の認識論的価値について」 - obakeweb
  • 美術の非物質化 | CiNii Research