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左翼に関するyanozのブックマーク (16)

  • ぺぺ長谷川(塚原活)を悼む|花咲政之輔

    2/18、2/19国立谷保「かけこみ亭」及び「きしゃぽっぽ公園」でのぺぺ長谷川(塚原活)のお別れ会、そして2/20堀之内斎場での火葬に参列してきた。 神長クン、イカさん、原島さんはじめ 運営の皆さん、当にお疲れ様です。ありがとう。 おかげさまで、素晴らしく原則的な見送りができました。 2/18。ベース&スロヴァキア史研究の井出匠、トランぺッターの佐藤信吾・加藤直喜と現地へ。 「きしゃぽっぽ公園」でピアニストの小林創、板橋区の千種クン、藤井謙一郎・京子夫、子午線の春日社長、大森孝参弁護士、海女研究の小暮修三、白水出版センターの小野信也クンなど今も日常的に会い共闘している面々+懐かしい面々が車座になり献杯。 小林・井出・佐藤・加藤・春日・小野クン以外とはほぼ20年ぶりだ。塚原とは早大黒ヘルノンセクトグループとブルース軍団という音楽サークルの両方で一緒だった。 恥ずべき差別主義者・極右評論家

    ぺぺ長谷川(塚原活)を悼む|花咲政之輔
  • 「新自由主義」批判がグダグダになりがちな理由(ジョセフ・ヒース論文「批判理論が陰謀論になるとき」メモ) - 清く正しく小賢しく

    今回紹介するのは、ジョセフ・ヒースの論文「When does Critical Theory Become Conspiracy Theory?」である。この論文でヒースは、「新自由主義」概念をルーズに用いた議論などを念頭に置きながら、批判理論が陰謀論に堕してしまう条件、さらにまっとうな批判理論と陰謀論紛いの批判理論を分かつ特徴を検討している。 なお批判理論というのは、とりあえず「規範的目的を明示した社会科学的探究」ぐらいの意味で捉えればよいと思う。批判的社会科学や批判的〇〇研究を名乗っている研究はもちろん批判理論に含まれるし、左派的なポジションを明示した研究の多くも含めることができるだろう。 どれくらい知られていることなのかは分からないが、ヒースはハーバーマスの弟子であり、自らを批判理論の伝統に属する研究者と位置付けている*1。それゆえにこそ、堕落した批判理論に対して厳しい態度をとってい

    「新自由主義」批判がグダグダになりがちな理由(ジョセフ・ヒース論文「批判理論が陰謀論になるとき」メモ) - 清く正しく小賢しく
  • 1. 右と左 - 伊藤昌亮 | トイビト

    「ネット右翼」もしくは「ネトウヨ」という言葉が広く用いられるようになったのは2000年代の半ば以降。いずれもネット上で保守的・右翼的な言動を繰り返す人びとを指す言葉ですが、前者はかつての「街宣右翼」や「任侠右翼」からの連想で攻撃的なイメージが、後者は「ネトネト」「ウヨウヨ」といった擬態語からの連想で醜悪かつどこか滑稽なイメージが強調され、その全容や実体がつかみにくい存在でした。彼らははたして何者なのでしょうか。また、その誕生にはどのような歴史的経緯があったのでしょうか。 ――右翼・左翼という概念はそもそも何に由来しているんですか。 もともとはフランス革命時の議会における席の配置ですね。急進的なジャコバン派などが左側に座り、保守的な王党派などが右側に座ったので、進歩的な勢力を左翼、保守的な勢力を右翼というようになったようです。 ――議会の右・左ということだったんですね。 そうです。フランス革

    1. 右と左 - 伊藤昌亮 | トイビト
  • Marxist Theory in Japan: A Critical Overview - Historical Materialism

    Gavin WALKER I. To summarise the reception history of Marx in Japan is no small task.1 In fact, it is essentially impossible to give an adequate overview of one of the deepest, most prolific, and most variegated linguistic repositories of the Marxist tradition. Although it remains remarkably little-known in contemporary European or North American intellectual circles, Marxism was the dominant stra

    Marxist Theory in Japan: A Critical Overview - Historical Materialism
  • 1968年と宗教 - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    少したってしまったが、先日12月15日、京大人文研で行われた公開シンポ「1968年と宗教」の後半から聴いた。講演者に武田崇元、すが秀実、聴衆に津村喬、外山恒一といった錚々たる面々が一堂に会するという、またとない機会だった。配布資料が膨大で、正直いまだ咀嚼しきれていないので、素朴な感想のみを。 一言で言えば、左派(左右を問わず?)もいよいよ宗教を真正面から考えねばならなくなったということか。最近話題のジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』などを見ても、宗教に一章を割いてその有効性を論じている。オルグの「戦場」として、いまや宗教が浮上してきているということだろう。少し前までとりあえずは共有されてきた、近代とは「脱魔術化=脱宗教」の時代であるという前提は崩れつつある。日のオウム事件も清算され、アメリカの9・11も乗り越えられた? 宗教を超自然的な行為者に対する一連の信念としてとら

    1968年と宗教 - KAZUO NAKAJIMA 間奏
  • 昔々、私はリベラルだった。

    tarafuku10 @tarafuku10 米国 #WalkAway ムーブメントの主唱者、ブランドン・ストラカの声明ビデオを訳してみた。彼は1年ほど前まで民主党支持者だったが、左翼/リベラルの独善性に嫌気がさして離脱。ほかの人にも離脱を勧めている。ストラカはもともとはゲイ・ライツの運動家。 youtube.com/watch?v=51UGcg… 2018-09-12 01:46:46 tarafuku10 @tarafuku10 昔々、私はリベラルだった。実のところ、1年前の今頃でさえ私はまだリベラルだった。私がリベラルになった理由は、自分が大切だと思う価値を共有する仲間を見つけたと思ったからだ。私は、あらゆる種類の人種差別を強く拒む。性別や性的指向に基づき人を疎外することを拒む。専制的な集団思考を拒む。 pic.twitter.com/BvHenZn1b1 2018-09-12 01

    昔々、私はリベラルだった。
  • 革命バカ一代、塩見孝也、死す。

    塩見孝也。1960〜70年代、革命を目指し、武装蜂起を主張した赤軍派の元議長。70年、ハイジャックの共謀や爆発物取締法、破壊活動防止法違反などで逮捕。獄中20年。89年、出所。晩年はシルバー人材センターの紹介で東京・清瀬のショッピングセンターで駐車場管理人をしていた。享年76歳。11月14日、心不全のために亡くなった。 出会いのきっかけは、私が23歳の頃、ロフトプラスワンに「元赤軍派議長が語る!」的なイベントを見に行ったことだった。なぜわざわざそんなイベントに行ったかというと、当時の私は生きづらさをこじらせていて、近い過去に政治とかに怒って火炎瓶とか投げまくってた「政治の季節」に多大な関心があったからである。 翻って、自分の周りを見ると、半径5メートルの世界で消費活動だけしてろ、という空気の中、政治や社会に関心を持とうものなら「ヤバい奴」扱いされるという圧力に満ちていて、なんだかとっても息

    革命バカ一代、塩見孝也、死す。
  • 二重権力戦略における民話と伝説

    ウニタ書店(名古屋)、カライモブックス(京都)、模索舎(東京)で販売しますので、よろしくお願いします。 ところで、8・19集会に参加していただいた蔵田計成氏に電話をしたところ、ちょっと落ちこんでいるようだったので、彼の問いに対する応答として、ひとつ文章を書きます。

  • ラカニアン・レフト ラカン派精神分析と政治理論 書評|ヤニス・スタヴラカキス(岩波書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

    新奇にみえる精神分析と政治理論の交錯を試みる書は、様々に興味深い。だが僕は、書には無縁にみえる次の問いを立て、書を政治的に詮索ゴシップしてみる。 ポピュリズムに善し悪しはあるのか、と。それは前―出来事的な浮遊する人頭ポピュレスの政治に関わるのか、とも。 この設問こそ、書の隠された論点であり、バディウ、ランセラン、クーヴェラキスがヨーロッパ全体に及ぶギリシャ政治をめぐって鼎談した問題の核心(改良か、革命か)だった。 書の構成をやんちゃに整理すれば、否認概念を軸とする第1部では、著者が言うラカニアン・レフトを臨界的外部から炙り出すために登場させられた同胞カストリアディスが検討され、師ラクラウの検討を経て、主要敵ジジェクをディスり、その戦略的な対比・・・・・・・・―離接のもとで・・・・・・第2部への結節環とされたバディウに、軽く秋波が送られる。 第2部では、著者にとっては不可欠な無意味

    ラカニアン・レフト ラカン派精神分析と政治理論 書評|ヤニス・スタヴラカキス(岩波書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
  • ララビアータ:スタヴラカキス『ラカニアン・レフト』 - livedoor Blog(ブログ)

    スタヴラカキスはラカンの精神分析学を政治理論に適用して、新たなラディカル・デモクラシーの戦略を提案しようとしている。ここでは魅力あふれる『ラカニアン・レフト』の全体を論じることはできないが、そこで紹介されているアラン・バディウの主張が、以前からの私の立場と重なるところが多いので、それを中心に検討してみたい。 バディウの〈出来事〉はわたくしの「問題解決」という概念に当たるように思われる。それは創造的な行為で、状況から何の必然性もなく、突発的・偶発的に介入するものであり、象徴界の不完全性(亀裂)の中に、その不完全性ゆえに介入し得る。 バディウは出来事が生起する状況を「出来事的な場」と呼び(p−185)、それが一つの実定的秩序(「所与の言説的接合体」p−184)として先在し、それが破断するところに「真理」が出現すると見なした。これは、精神分析では、主体の言説の中に出現する言い間違いや失策行為とし

  • フレイザーのトランプ論「進歩的ネオリベラリズムの終焉」 | おきく's第3波フェミニズム

    マクロビーに続いてナンシー・フレイザーのトランプ論を訳しました。こちらはマクロビーより立場を明確に打ち出している、フレイザーらしい論評です。今年1月2日付で公開されています。 前回のフレイザーのインタビューでも見られましたが、トランプの勝利を、ネオリベラリズムで被害を被ったひとびとに支持された結果と解釈しています。そしてその勝利は「進歩的ネオリベラリズム」の敗北でもあると。進歩的ネオリベラリズムとは、グローバルな金融資主義と「多様性」や「エンパワメント」といった言葉を唱えるエリートたちの結合、を意味しています。来「多様性」や「反差別」といった言葉は、全ての人々のための理想でしたが、現在ネオリベラリズムに利用されて、能力主義や企業中心主義のための言葉になってしまっているとフレイザーは考えています。これはフレイザーが従来から批判しているフェミニズムの変質と深く関わっている重要な論点です。

    フレイザーのトランプ論「進歩的ネオリベラリズムの終焉」 | おきく's第3波フェミニズム
  • レイシズム2.0としてのアイデンティタリアニズム

    しばらく前、「はっきり呼ぼう、alt-right(オルタナ右翼)はまごうことなきレイシストだと」(Call the ‘Alt-Right’ Movement What It Is: Racist as Hell)という記事がRolling Stoneのウェブサイトに掲載された。 確かに、オルタナ右翼の言動にはいわゆるレイシスト的要素が色濃く感じられる。その一方で少なからぬ数のオルタナ右翼が、自分たちはレイシストではないと主張してもいるのである。もちろん単なる詭弁、言い逃れという面もあるのだが、彼らの言い分を少し追ってみたい。 理解する上で鍵となるのは、「アイデンティタリアニズム」(Identitarianism)という思想ではないかと私は思う。オルタナ右翼の代表的な論客の一人であり、「alt-right」という語を考案したとされるリチャード・B・スペンサーは、自身をアイデンティタリアンだと

    レイシズム2.0としてのアイデンティタリアニズム
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  • 【断層】呉智英 追悼「三バカ大将」 - MSN産経ニュース

    「新左翼三バカ大将」と称された三人のうちの二人が相次いで亡くなった。五月に太田竜、七月に平岡正明である。もう一人の竹中労は十数年前に亡くなっている、三人ともその醜名(しこな)通りの人物だった。多少まともだったのは竹中。太田はバカというより、新聞では書けないアレだった。平岡はこの路線じゃ駄目だと思ったのか、昔のことは口を拭った。どっちにしろ太田も平岡もゲテモノである。ところが、七月十六日と二十三日に朝日新聞は大きく追悼記事を載せた。正気とは思えない。 平岡は一九六二年頃、犯罪者同盟を結成。私有財産否定の犯罪者革命を決行すべく古屋で『悪徳の栄え』を万引きしたはいいが、警察に逮捕され、梅克己や丸山真男に嘲笑(ちょうしょう)された。私はその十数年後、犯罪者同盟について平岡に聞こうとしたが、それは秘密ですとかわされた。犯罪者こそ革命家だと言うのなら、支那で略奪や強姦をして戦争犯罪者となった連中も

  • 『日本後現代與知識左翼』ほか - Living, Loving, Thinking, Again

    昨日買った3冊。 趙京華『日後現代與知識左翼』生活・読書・新知三聯書店、2007 導言 日後現代主義批評 第1章 在後現代與馬克思主義之間――柄谷行人的前期批評実践 第2章 重返馬克思的政治経済学批判――柄谷行人的後期批評実践 第3章 思想史和文化研究視野下的日與東亜――子安宣邦的日知識考古学 第4章 文解構、文化政治與真実政治――小森陽一従文政治介入的歴程 第5章 “他者的面容”與“忘却的洞穴”――高橋哲哉的解構哲学観及其文化的抵抗 第6章 知識分子如何参与公共事務――日新生代知識左翼郡体的新走向 後記 主要参考書目 索引これは「漢語学術界第一部対70年代以降日思想進行翔実、系統描述的専著」(汪暉)であるという。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061102/1162433731も参照のこと。 許紀霖、羅崗等『啓蒙的自我瓦解 1990年

    『日本後現代與知識左翼』ほか - Living, Loving, Thinking, Again
  • 『新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ』を読む | Theoretical Sociology

    新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ この商品の他のレビューをみる» 評価: 大嶽 秀夫 東京大学出版会 ¥ 3,360 (2007-03) 左翼思想とポストモダニズムの親和性を調べていて行き当たった。 著者によれば、新左翼がポストモダニズムを準備した、あるいは何らかの連続性が見られるという。ブント(60年安保のとき全学連を指揮していた学生党)の言動の中にすでにポストモダニズムの芽が見られるという。ポストモダニズムは、近代社会が自明視してきた様々な前提を徹底的に相対化する思想運動なので、ブントが文字通り「ポストモダン」思想の担い手であったわけではない。ブントの主張もマルクス主義(すなわち近代)のボキャブラリーの中でなされているし、著者の議論の中では、相対主義的な臭いはほとんどしない。むしろ、ブントの活動家の言動からは、無邪気に自明性の世界に安住している印象すらうける。著者によれば

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