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historyとsportsに関するyyamaguchiのブックマーク (6)

  • 大河「いだてん」の分析 no.8 【後編】 1912年のストックホルムへの行き方|miyamoto maru

    1話ずつ、5つの要素をとりあげて分析と感想を書いています。 今回の記事は【第8話 敵は幾万】について。 前編・後編に分けました。これは【後編】です。 【前編】や他の回の分析はこちら↓ 3、いざストックホルムへ 〜東京パレードの行程〜「いだてん」の見落とせないもののひとつが、ドラマの途中で差し込まれる当時の再現地図だ。 これがよくできてて素晴らしいし、NHKだから相当当時の事実反映を忠実にやってることだろう。(再現地図が出てくると録画を一時停止してじっくり見てしまう) 今回の第8話でいうと、 ストックホルムへの出発日当日、金栗四三一行は歩いて新橋駅を目指したというシーン。 このシーンで、再現地図とともに歩いた行程が紹介された。 東京高等師範学校のあった現在の茗荷谷あたりを出発して、「小石川」を抜けて「伝通院」の門前を通り、「富坂」をくだって「和田倉門」から「二重橋前」で万歳斉唱して「新橋」。

    大河「いだてん」の分析 no.8 【後編】 1912年のストックホルムへの行き方|miyamoto maru
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2023/11/05
    「「新橋駅」を列車で出て向かったのは「敦賀港」。そこから船に乗り「ウラジオストク」へ。「シベリア鉄道」に2週間揺られて、ロシア帝国時代の首都「セントピーターズバーグ(サンクトペテルブルク)」へはいる。」
  • ドラマ『陸王』さながら、かつて日本の足袋が世界のマラソンを制した

    短期連載〜消えたハリマヤシューズを探して(3) 前回の記事を読む>> 日伝統の足袋業者が、新規事業のランニングシューズ開発にチャレンジするテレビドラマ『陸王』(原作・池井戸潤)が人気を呼んでいる。だが実は、今から約100年前、このドラマと同じような心意気で世界の列強に挑んだ日の長距離ランナーと、彼を支えるひとりの足袋職人が実在したことは意外と知られていない。 東京高等師範学校の学生だった金栗四三(かなくり しそう)は、近所の足袋店「ハリマヤ」の主人・黒坂辛作(くろさか しんさく)に作ってもらった特製マラソン足袋をひっさげて、1912年(明治45年/大正元年)ストックホルムオリンピックのマラソン競技に出場。しかし、調整不足と日射病の影響で金栗は意識朦朧となり、レース中コース脇に迷い込み失踪する大失態を演じてしまう。 捲土重来を誓った金栗は帰国後、辛作と二人三脚でマラソン足袋の改良に着手す

    ドラマ『陸王』さながら、かつて日本の足袋が世界のマラソンを制した
  • バブルに消えたハリマヤシューズ。日本の「ものづくり」よ永遠に

    短期連載〜消えたハリマヤシューズを探して(5) 連載第1回はこちら>>  連載第2回はこちら>> 連載第3回はこちら>>  連載第4回はこちら>> ■日製にこだわったハリマヤの職人気質■ 今から100年以上前、東京高等師範学校の学生・金栗四三(かなぐり しそう)と、東京・大塚の足袋店ハリマヤの主人・黒坂辛作(くろさか しんさく)が出会ったことから生まれたマラソン足袋。改良を重ねた製品は「ハリマヤシューズ」として、多くのランナーに愛され、各地の競技会で好成績を収める。 高度経済成長によって日が豊かになり、スポーツを楽しむ人々が増えるにつれて、シューズメーカーとしてのハリマヤ運動用品もまた発展し、辛作から数えて3代目、孫の代へと経営も移っていった。当時、ハリマヤはその発祥の地、東京の大塚に社を構え、北陸地方にいくつかの生産拠点を持っていた。 ハリマヤの顔となった3ラインも機能面から付け

    バブルに消えたハリマヤシューズ。日本の「ものづくり」よ永遠に
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2019/02/12
    「金栗四三(かなぐり しそう)と、東京・大塚の足袋店ハリマヤの主人・黒坂辛作(くろさか しんさく)が出会ったことから生まれたマラソン足袋。改良を重ねた製品は「ハリマヤシューズ」として、多くのランナーに」
  • サッカー海外組第1号はなんとあの有名歌手の弟

    サッカー海外組第1号はなんとあの有名歌手の弟 日で最初に海外移籍した選手は誰であろうか? 奥寺康彦かと思いきや、実はその2年前に海を渡った人物がいる。知る人ぞ知るパイオニアに話を聞き、当時の海外リーグの実態に迫った。 2014年01月02日(木)9時16分配信 text by 植田路生 photo editorial staff タグ: focus 【フットボールサミット第9回】掲載 海外プロ第1号の実兄はなんとあの「さだまさし」 かつては海外へ日人選手が移籍するだけで異常なまでの注目が集まり、“海外組”として何か特別な存在であるかのように扱われるようなことも少なくなかった。だが、今や海外移籍は珍しいことではない。スポットライトは“海を渡る”から“いかに活躍するか”に移っている。 日人選手のレベルが右肩上がりに上昇していったのは、海を渡った選手たちが自分の経験を伝えていったことも大き

    サッカー海外組第1号はなんとあの有名歌手の弟
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2017/01/30
    「その男の名は佐田繁理(しげり)。奥寺康彦がブンデスリーガへ移籍するより2年早い1975年、香港リーグでプレー。日本人選手初の海外組になると同時に、日本初のプロサッカー選手となった。」
  • 待ち続けた「フロンティアーズの母」 26年目の悲願達成

    共同通信社が運営するアメリカンフットボール専門のウェブマガジン。国内外のフットボールを紹介するベテラン記者のコラムや、国内注目試合の見どころやリポートなどを毎週掲載する。監修は共同通信記者で、NFLの解説者でもある宍戸博昭。 2万5000人を超える観衆が見守る中、12月15日に東京ドームで行われたジャパンエックスボウル。富士通の初優勝に向けたカウントダウンが進む中、この瞬間を誰よりも待ち望んでいた伊藤桃代マネジャーの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。 大学時代にアメリカンフットボール部のマネジャーとして活動していた伊藤さんは、1987年にシステムエンジニア(SE)として富士通に入社した。88年、「もう一度学生時代の熱い気持ちに戻りたい」と、3年前に創部したばかりの「富士通フロンティアーズ」にマネジャーとして入部する。 当時の富士通は1部に昇格したばかりで、まだ強豪相手には歯が立たなかった

    待ち続けた「フロンティアーズの母」 26年目の悲願達成
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2014/12/19
    「90年代後半、富士通のSE真弓英彦さんによって開発されたアメリカンフットボール専用の戦略解析システム「CASDAS(キャスダス)」が、日本フットボール界に革命をもたらす。」
  • 藤井寺物語。(渡辺勘郎)

    「『お~い、栗はん!こっち来て一緒にべんかい!』 レフトを守ってて、こういわれて振り返ると、スタンドで観客が焼き肉をしてたんです。ガードマンが慌てて飛んで行ってましたね」 こんな思い出話をして「とにかく藤井寺球場のファンは強烈でした」と語るのは、往年の4番打者、栗橋茂さん。引退後の今は、藤井寺駅の近くでスナックを営む。 「『○○!おまえ、昨日、電気屋で月賦でテレビ買うてたやろ!プロ野球選手が月賦なんかで買うなぁ~。現金で買うたれ!』というヤジが飛んだことがあって、名指しされた選手に『ほんとに月賦で買ったの?』と聞いたら『はい……』って恥ずかしそうに頷いてました」 これは近鉄憎しの強烈な南海ファンのヤジだったといわれているが、真偽のほどは定かではない。ただ、「それほど選手とファンの距離が近かった」と街の人はいう。 かつてのリリーフエースで今は二軍で調整中の赤堀元之投手も、藤井寺に来た当初、

    藤井寺物語。(渡辺勘郎)
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2012/06/16
    「選手に『何でおまえが出てくるんや』と、近鉄ファンは身内をヤジるんです。魚屋のおっさんみたいなダミ声の人がいて、よく聞こえるんですよ。だけど慣れてくるとそれがパワーになることもありました」
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