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musicとlifeに関するyyamaguchiのブックマーク (36)

  • 【話の肖像画】精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<30> 「死」を見ないふりはしない

    《平成25(2013)年、歌手の都はるみさん(※昭和23年生まれ、代表曲に『北の宿から』『涙の連絡船』など)の依頼で『ありがとう おかげさん』(作曲は筒美京平氏)を書く。筒美さんとのコンビは『さらば恋人』(46年)以来のことだった》 きっかけは、はるみさんが『イムジン河(がわ)』を歌ったことかな。僕は何度か『イムジン河』コンサートをやっていて、それで縁ができた。このときの彼女は、自分の生き方と一致する当の世界を模索していたのだと思う。それで僕に詞の依頼が来たのです。筒美さんとは『さらば…』以来だったけど、このときもやっぱり顔を合わせることがなかったなぁ(苦笑)。 はるみさんに書いた歌は、(平成21年に亡くなった)加藤和彦を偲(しの)んで書いた、という一面もあるけれど、「死」を問題にしてつくりました。 フォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)は『帰って来たヨッパライ』(昭和42年)でプロと

    【話の肖像画】精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<30> 「死」を見ないふりはしない
  • 多面体・坂本龍一の「LIFE」とコスモポリス京都の可能性—追悼シンポジウム 坂本龍一の京都

    龍一と京都との知られざるつながり 「Ars longa, vita brevis 芸術は長く、人生は短し」という言葉を残し、世界的に著名な音楽家、坂龍一が3月28日に亡くなった。そのニュースが報じられたのは、4月2日のことだった。坂は2014年以降、がんを患っており、一度目は寛解したが、2020年再度がんが発見され、長い闘病生活に入っていた。2022年12月、体力的にリアルなコンサートができなくなったということもあって、1曲1曲スタジオ録音する形のピアノ・ソロ・コンサート「Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022」が世界約30か国と地域へ向けて配信された。その舞台裏のインタヴューを交えた番組『坂龍一 Playing the Piano in NHK & Behind the Scenes』がNHKで放映されたのが2023年正月のこと。満身創

    多面体・坂本龍一の「LIFE」とコスモポリス京都の可能性—追悼シンポジウム 坂本龍一の京都
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2023/08/06
    「坂本にとって重要なことは「表現する自由を尊重すると同時に、それを受け取る側の自由も最大限尊重すること」、そして「社会性と公共性と芸術の価値を切り離すこと」。」
  • 爆音OKマンション入居待ち2800人 配信や演奏、全力で - 日本経済新聞

    ご近所さんに一切の遠慮なく、爆音で生活する人々がいる。こんな書き出しだが、社会問題の話ではない。どんな大きな音を鳴らしても近所迷惑にならない防音マンションが人気だ。かつては音楽家などに需要が限られていたが、在宅時間が増えた新型コロナウイルス禍を機に居住者の幅が広がっている。「くそおおおおおお!!!!!!!」。会社員の男性(32)は人々が寝静まる深夜に自宅マンションで叫ぶ。ほぼ毎日ゲーム実況をユ

    爆音OKマンション入居待ち2800人 配信や演奏、全力で - 日本経済新聞
  • 「アルバム3枚分くらいが、 はっぴいえんどはちょうどよかった」 松本隆と巡る青山、六本木…“聖地”巡礼

    “風街”と呼ばれる作詞家の松隆さんゆかりの場所や、詞で描いた情景。東京に残るそれらの「聖地」を、松隆さん人と再訪します。 「松隆と歩くぼくの風街 #1」を読む ◆◆◆ 「クラス会には一度も招かれたことがない」と話す松隆さん。

    「アルバム3枚分くらいが、 はっぴいえんどはちょうどよかった」 松本隆と巡る青山、六本木…“聖地”巡礼
  • 同じニューヨークで暮らした大江千里が、坂本龍一への追悼文を緊急寄稿「教授、また会う日まで」

    ニューヨークで演奏する坂(左、1998年2月)と大江(右、2016年7月)。80年代から縁が続いた PND RECORDS & MUSIC PUBLISHING INC., EBET ROBERTS/GETTY IMAGES <「教授」が愛車のボルボで迎えに来てくれた思い出から、3時間に及ぶLINEでの会話まで、大江千里が坂との思い出をつづった> インスタグラムを開くと、よく知っているアメリカのレコード会社の女性とヨーロッパのミュージシャンが哀悼の意を示していた。投稿には1952年1月17日―2023年3月28日とある。嫌な予感がして僕は画面を閉じた。ずっと心の隅で恐れていた。必死で目をそらそうとした。 この日、春の嵐の強い風が吹くニューヨーク・ブルックリンの屋外へスリッパのまま飛び出ると、少し日が長くなった空に白く丸い月が浮かぶ。目の縁がにわかに熱くなり、鼓動が激しくなる。 それは熱

    同じニューヨークで暮らした大江千里が、坂本龍一への追悼文を緊急寄稿「教授、また会う日まで」
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2023/04/14
    「「教授」が愛車のボルボで迎えに来てくれた思い出から、3時間に及ぶLINEでの会話まで、大江千里が坂本との思い出をつづった」
  • 時代の試練に耐える音楽を――「落ちこぼれ」から歩んできた山下達郎の半世紀(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)

    山下達郎は今年、69歳を迎えた。1975年、シュガー・ベイブの中心メンバーとしてデビューし、翌年にソロシンガーとしてスタート。半世紀近く経った今も新作を世に送り出し、ライブツアーで全国を回る。「制作方針は、風化しない音楽」と語る通り、代表作の「クリスマス・イブ」をはじめ、多くの曲が時代を超えて愛されている。青春時代の苦労、自身の音楽表現、夢を追う若い世代への思い。歩みを振り返りながら、存分に語ってもらった。(文中敬称略/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部) 「僕らの世代は、日のロックミュージックの黎明期で、『DON'T TRUST OVER THIRTY』の時代だったことも相まって、30歳から先のロックシンガーの展望なんて全くなかった。僕に限らず将来に関してはみんな探りながら悩みながら、何とか30代40代と、がんばってくぐり抜けてきたんですけど、でもまさか70近くになって、現役

    時代の試練に耐える音楽を――「落ちこぼれ」から歩んできた山下達郎の半世紀(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2022/06/12
    「私はね、極東の片隅のね、日本という国でね、ごく質素にやってきた者なんです。全然メインストリームじゃないんです。10代の時は音楽オタクで、誰も聴かないような音楽を聴いていたんです。」
  • 大江千里さんの「手放す勇気」。40代で日本での成功を捨て、60歳で固定観念を捨てた|tayorini by LIFULL介護

    大江千里さんの「手放す勇気」。40代で日での成功を捨て、60歳で固定観念を捨てた 公開日 | 2021/07/19 更新日 | 2021/07/19 1980年代~1990年代に「十人十色」や「格好悪いふられ方」など数々のヒット曲を生み出し、シンガーソングライターとして一世を風靡した大江千里さん。 日のポップス界での成功を捨て、ジャズピアニストになるべくニューヨークの音楽大学に単身留学をしたのは47歳の時でした。 卒業後はアメリカで自らのレーベルを立ち上げ、「Senri Oe」名義でジャズピアニストとして活躍。2020年9月には還暦を迎えました。 ジャズアルバムのリリースやツアーなど充実した「第二の音楽人生」を過ごしてきた50代を経て、ニューヨークで新型コロナウイルスのパンデミックに直面。60代になり、再び大きな価値観の変化の真っ最中にあると言います。 年を重ねても新しいことに挑戦し続

    大江千里さんの「手放す勇気」。40代で日本での成功を捨て、60歳で固定観念を捨てた|tayorini by LIFULL介護
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2021/07/19
    「年齢を重ねる自分へのご褒美の一つは、物事にこだわらなくなれるセンスだと思います。こだわらなくなると新鮮なアイデアが飛び込んでくる」
  • 大江千里が47歳でニューヨークへ渡り、ジャズピアニストを目指した本当の理由 | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)

    「十人十色」「格好悪いふられ方」「あいたい」「ありがとう」──。キャッチーなメロディと独特のキャンディーボイスを武器に、1983年のデビューからヒット曲を連発。24年にわたって第一線で活躍し続けてきたのが、シンガーソングライターの大江千里だ。 そんな彼が、日での成功を捨て、単身ニューヨークの音楽大学へジャズ留学を決行したのは47歳の時だった。卒業後はアメリカで自らのレーベルを立ち上げ、Senri Oe名義で6枚のジャズアルバムをリリース。4枚目のボーカルアルバム「answer july」は、グラミー賞ジャズボーカル部門コンシダレーションにも選ばれている。 そしてポップスターからジャズピアニストに転身した大江千里は、昨年還暦を迎えた。この3月末に刊行された書籍「マンハッタンに陽はまた昇る」(KADOKAWA)の副題に「60歳から始まる青春グラフィティ」とつけたように、「今は毎日底知れないエ

    大江千里が47歳でニューヨークへ渡り、ジャズピアニストを目指した本当の理由 | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)
  • 未来を照らす(28)シンガー・ソングライター さだまさし

    シンガー・ソングライター、小説家、「風に立つライオン基金」の理事……と いくつもの顔をもつ、さだまさしさん。 多忙な中で続けてきたのが東日大震災をはじめとする災害や医療の支援です。 昨年は仲間と共に介護や福祉施設への支援も行いました。 一方で、セルフカバーアルバムを制作し、コンサートを開催するなど、 音楽の灯を守るための活動も続けています。 さだ・まさし 長崎市出身。シンガー・ソングライター、小説家。1973年フォークデュオ・グレープとしてデビュー。1976年ソロ・シンガーとして活動を開始。「関白宣言」「北の国から」など数々のヒット曲を生み出す。 通算4,450回を超えるコンサートのかたわら、小説家としても『解夏』『風に立つライオン』などを発表。多くの作品が映画化、テレビドラマ化されている。 2015年、一般財団法人 風に立つライオン基金を設立(2017年に公益法人として認定)。さまざま

    未来を照らす(28)シンガー・ソングライター さだまさし
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2021/05/06
    「家族を亡くし、財産をなくし、家をなくした人たちが、僕と一緒に大きな声で歌ってくださる姿を見ると、音楽ってもしかしたら無力ではないかもしれない。微力だけれどゼロではないんだ、と勇気をもらいました。」
  • 何も言わずに待ってくれた大瀧詠一に「君は天然色」を書いて応えた松本隆

    隆は1985年の11月から12月にかけて、朝日新聞の夕刊で週1回『新友旧交』というコラムを8週にわたって書いていた。 そのときに「待ってくれた大滝」と題して、アルバム『A LONG VACATION(ア・ロング・バケイション)』が誕生した時の経緯を明かしている。 大滝詠一について語ろうとすると、もう十数年のつきあいになるのに、彼のことを何も知らないような気がしてくる。 そういえば彼から家族のこととか、身の回りの雑事について聞いたことが無い。仕事以外のプライベートなことに関して口が重いのかもしれない。 一度だけ彼がぼくの家を訪ねてくれたことがある。 「今度作るアルバムは売れるものにしたいんだ。だから詩は松に頼もうと思ってね」 「よろこんで協力させてもらうよ」 後にミリオン・セラーになった『ア・ロング・バケイション』は、こんな会話から生まれた。 (「待ってくれた大滝」朝日新聞1985年1

    何も言わずに待ってくれた大瀧詠一に「君は天然色」を書いて応えた松本隆
  • 地元で抱えた「漠然とした不安」――大泉洋と米津玄師が吐露する“地方と東京” - Yahoo!ニュース

    「なんでもかんでも東京だったし、悔しさがあった」と北海道出身の大泉洋(46)は言う。「もっと人が多いところに行けば、いい出会いがあるんじゃないかと思っていた」と徳島県出身の米津玄師(28)も語る。地方で育ち、上京して第一線で活躍する2人にとって「地方と東京」はどう映っているのか。世代の違う2人の共通点とは。対談で熱い思いを吐露した。(取材・文:長瀬千雅/撮影:堀越照雄/Yahoo!ニュース 特集編集部)

    地元で抱えた「漠然とした不安」――大泉洋と米津玄師が吐露する“地方と東京” - Yahoo!ニュース
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2019/09/15
    「1話の脚本を読ませてもらったんですけど、自分は社会人になったことも、左遷されたこともない。何を取っ掛かりにすれば良いのか悩んだんですけど、ラグビーの試合を見たら、それがめちゃくちゃ美しくて」
  • 「souvenir the movie」がくれた贈り物 by clione | エッセイ投稿サービスShortNote(ショートノート)

  • 借金35億円、さだまさしが逃げ込んだ先 忘れない恩義:朝日新聞デジタル

    シンガー・ソングライターで小説家のさだまさしさん(66)。子どもの頃はクラシックの道を志し、デビュー後は「精霊流し」「関白宣言」「北の国から」などのヒット曲を次々に生み出しますが、最大の試練に直面して……。「失敗して負け続けた、へたれな人生」と、自らの半生を語った連載「語る 人生の贈りもの」(全15回)をまとめてお届けします。 ◇ 今までに何曲作ったか、ですか。正確にはわからないんです。アマチュア時代にライブで歌って、レコードになっていないものが結構ある。ソロになってからもそう。他の人のために作って、自分で録音していないものもある。600曲はないと思いますが。

    借金35億円、さだまさしが逃げ込んだ先 忘れない恩義:朝日新聞デジタル
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2018/12/08
    「4日ぐらいかけて行ったのが張家界です。グランドキャニオンが森になったような景色。星がきれいで明かりを消すと真っ暗だった。あの静寂はもう、僕らのフィルムにしか残っていません。」
  • 47歳、今まで築いたモノを捨てて11年――伝説のポップスターの「その後」

    Search, watch, and cook every single Tasty recipe and video ever - all in one place! News, Politics, Culture, Life, Entertainment, and more. Stories that matter to you.

    47歳、今まで築いたモノを捨てて11年――伝説のポップスターの「その後」
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2018/09/10
    「血を入れ替えるぐらい、自分の中のポップスを全部出して、そこにジャズを入れていかないとやっていけない。痛感しました。」
  • 大江千里:ロングインタビュー(下) 最新刊に新海誠監督がコメント 「言の葉の庭」が結んだ“共演” - MANTANWEB(まんたんウェブ)

    シンガー・ソングライターとしてデビューし、現在は米ニューヨークでジャズピアニストとして活動する大江千里さん。19日に発売した著書「ブルックリンでジャズを耕す 52歳から始めるひとりビジネス」(KADOKAWA、1944円)では、現地の音楽大学でジャズを学ぶために2008年に渡米した大江さんが、12年の大学卒業とともに自身のレーベルを設立し起業のため奮闘する姿などNYでの音楽活動や日々の暮らしについてつづっている。また帯には劇場版アニメ「君の名は。」で知られる新海誠監督がコメントを寄稿していることも話題だ。同監督が劇場版アニメ「言の葉の庭」(13年)のエンディングテーマに大江さんの曲「Rain」(劇中の歌唱は秦基博さん)を使用したことがきっかけでつながった縁だという。実は“大江千里ファン”だという新海監督にまつわるエピソードや「言の葉の庭」の裏話、NYでの最近の生活などについて、大江さんに聞

    大江千里:ロングインタビュー(下) 最新刊に新海誠監督がコメント 「言の葉の庭」が結んだ“共演” - MANTANWEB(まんたんウェブ)
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2018/02/01
    「女の子のファンが多かった25、6歳のときに、「AVEC」(86年)というアルバムでちょっとシリアスな方向に行って、歌詞をグッと書き込んだ時期があったんです。その時に想定していたのは、いわゆる男子の隠れファン」
  • 大江千里:ロングインタビュー(上) 「40代で人生の岐路に」NYでジャズピアニストに転身した理由 - MANTANWEB(まんたんウェブ)

    シンガー・ソングライターとしてデビューし、現在は米ニューヨークでジャズピアニストとして活動する大江千里さんが、著書「ブルックリンでジャズを耕す 52歳から始めるひとりビジネス」(KADOKAWA、1944円)を19日に発売した。現地の音楽大学でジャズを学ぶために2008年に渡米した大江さんが、12年に大学卒業後、自身のレーベルを設立して起業する姿など、NYでの音楽活動や日常生活が記されている。また帯には、劇場版アニメ「君の名は。」で知られる新海誠監督が絶賛のコメントを寄せている。PRのために一時帰国した大江さんに、ポップスからジャズに転身した理由、日で活動していた1980~90年代当時への思いなどについて聞いた。 ――日でシンガー・ソングライターとしての実績を築きながら、そのキャリアに区切りをつけて米国に移住されたわけですが、決意した理由は? 僕の場合は30歳ぐらいで(シンガー・ソング

    大江千里:ロングインタビュー(上) 「40代で人生の岐路に」NYでジャズピアニストに転身した理由 - MANTANWEB(まんたんウェブ)
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2018/02/01
    「日本で多忙を極めていた1980~90年代当時を振り返って、改めて感じることは?  あのときの自分がいたからこそ今があるって思いますね。毎回ホントに本気でやり切っていたし、1回もステージに穴は空けていないし。」
  • 大江千里、47歳で始めた僕の「ライフ・シフト」

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    大江千里、47歳で始めた僕の「ライフ・シフト」
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2018/02/01
    「もう戻らないと決めて出ましたが、万が一戻らざるをえないこともあるかもしれない。その時に席がなかったら、それは仕方がない。その時はその時で「次のドア」を開けていこうと、おぼろげながらも覚悟をしました」
  • 「有名な男の妻」でいるよりも人生で価値あること:日経xwoman

    エリック・クラプトンの「いとしのレイラ」や「ワンダフル・トゥナイト」、ジョージ・ハリスンの「サムシング」……。伝説的なロックの名曲は、彼女がいなかったら生まれなかったかもしれない。イギリス人のモデルで写真家のパティ・ボイドさんは、ビートルズのジョージ・ハリスンとエリック・クラプトンの元であり、1960年代以降、ビートルズをはじめ多くのロックスターたちを撮影してきた。その写真展「George, Eric&Me~パティが見たあの頃~」 が現在、東京・銀座の「リコーイメージングスクエア銀座ギャラリーA.W.P」と西麻布の「ギャラリーE&M西麻布」で開催されている。日初の写真展を記念して来日したパティ・ボイドさんに、彼らとの日々について聞いた。 聞き手・文/安原ゆかり(日経WOMAN編集長) 写真/大槻純一(インタビュー) パティ・ボイド 名パトリシア・アン・ボイド。1944年イギリス生まれ

    「有名な男の妻」でいるよりも人生で価値あること:日経xwoman
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2017/04/08
    「その写真展「George, Eric&Me~パティが見たあの頃~」 が現在、東京・銀座の「リコーイメージングスクエア銀座ギャラリーA.W.P」と西麻布の「ギャラリーE&M西麻布」で開催されている」
  • さだまさしさんが35億円の借金を背負っても所有する「詩島」を手放さなかった理由とは......? - Yahoo!検索ガイド - Yahoo! JAPAN

    ホーム > 記事一覧 > 検索注目ピックアップ一覧 > さだまさしさんが35億円の借金を背負っても所有する「詩島」を手放さなかった理由とは......? Yahoo!検索で急上昇したヒトやモノに取材する、Yahoo!検索ガイドの「検索注目ピックアップ」。4月3日のYahoo!検索のデイリーランキングでは、シンガー・ソングライター、小説家のさだまさしさんが急上昇しました。 https://searchranking.yahoo.co.jp/burst_ranking/20170403 https://searchranking.yahoo.co.jp/total_ranking/people/20170403 これは、4月2日に放映された朝日放送系「大改造!!劇的ビフォーアフター」にさだまさしさんが出演したためでした。 番組では、さだまさしさんが個人で所有する長崎県の詩島のリフォームの様子が

    さだまさしさんが35億円の借金を背負っても所有する「詩島」を手放さなかった理由とは......? - Yahoo!検索ガイド - Yahoo! JAPAN
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2017/04/07
    「さだまさしさんはドキュメンタリー映画「長江」(1981年公開)を製作し、35億円もの借金を背負うことになります。5年前に見事完済するまで、さだまさしさんは4,000回以上のコンサートを開催しました。」
  • サッカー海外組第1号はなんとあの有名歌手の弟

    サッカー海外組第1号はなんとあの有名歌手の弟 日で最初に海外移籍した選手は誰であろうか? 奥寺康彦かと思いきや、実はその2年前に海を渡った人物がいる。知る人ぞ知るパイオニアに話を聞き、当時の海外リーグの実態に迫った。 2014年01月02日(木)9時16分配信 text by 植田路生 photo editorial staff タグ: focus 【フットボールサミット第9回】掲載 海外プロ第1号の実兄はなんとあの「さだまさし」 かつては海外へ日人選手が移籍するだけで異常なまでの注目が集まり、“海外組”として何か特別な存在であるかのように扱われるようなことも少なくなかった。だが、今や海外移籍は珍しいことではない。スポットライトは“海を渡る”から“いかに活躍するか”に移っている。 日人選手のレベルが右肩上がりに上昇していったのは、海を渡った選手たちが自分の経験を伝えていったことも大き

    サッカー海外組第1号はなんとあの有名歌手の弟
    yyamaguchi
    yyamaguchi 2017/01/30
    「その男の名は佐田繁理(しげり)。奥寺康彦がブンデスリーガへ移籍するより2年早い1975年、香港リーグでプレー。日本人選手初の海外組になると同時に、日本初のプロサッカー選手となった。」