『否定と肯定』より、デボラ・E・リップシュタット役のレイチェル・ワイズ © DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016 裁判の直接のきっかけに使われたのは、リップシュタット教授が1993年に出した著書『ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ』。英国人デイヴィッド・アーヴィング(79)は翌年、リップシュタットが講義中のエモリー大学の教室に乗り込み、学生たちの前で彼女を噓つき呼ばわりして責め立てた。この時の様子は映画の冒頭、リップシュタット役のレイチェル・ワイズ(47)と、アーヴィング演じるティモシー・スポール(60)が再現している。 リップシュタット教授はそれまで、アーヴィングに会ったことはなかったという。リップシュタット教授は当時を、「車のヘッドライトに突如照らされた鹿のように身動きができず、どうしたら
ホロコースト記念碑 「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」(ドイツ語: Denkmal für die ermordeten Juden Europas[1]、通称:ホロコースト記念碑)は、2005年5月12日、ベルリンのブランデンブルク門の南に開設された、ホロコーストで殺されたユダヤ人犠牲者のための記念碑。1万9073㎡の敷地にグリッド状に並ぶコンクリート製の石碑2,711基が一般公開された[2]。厚み0.95m・横幅2.38mのブロックが、多様な高さ(0m~約4.5m)で連なる[3]。設計したのはアメリカ・ニューヨーク在住のピーター・アイゼンマン。地下にはホロコーストに関する情報センターがあり、イスラエルの記念館ヤド・ヴァシェムが提供したホロコースト犠牲者の氏名や資料などが展示されている。 敷地の歴史[編集] ミニスターゲルテン(1904年)。この一帯はベルリンの壁建設後は無
ベルリンの中心、ブランデンブルク門や各国大使館などが集まる一角に、周囲とはひと際異なる雰囲気を放っている場所があります。 それが、2005年から一般公開されている「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑(Denkmal für die ermordeten Juden Europas)」、通称「ホロコースト記念碑」です。 ナチスドイツによって殺害された何百万人ものユダヤ人への鎮魂のために建てられたこの記念碑ですが、完成するまでには長い苦難が待ち受けていました。 1988年に記念碑建設の計画が持ち上がった際に問われたのは、この記念碑が誰に対してのものであるのかという問題でした。ホロコーストで殺害されたのはユダヤ人ばかりではなく、戦争捕虜や同性愛者なども含まれていたため、彼らも対象に含めるべきという声があがったのです。 結局1999年に連邦議会で対象をユダヤ人のみに限定する事が決まり、2
第二次世界大戦中にナチスが行った人類史上最も大規模な虐殺、ホロコースト。 600万人以上のユダヤ人が理不尽に殺されました。そのような悲劇を忘れてはならないと2005年、ベルリンのブランデンブルク門の南に「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」通称:ホロコースト記念碑が建てられました。 約2ヘクタールの敷地にコンクリート製の石碑2,711基並んでおり、厳粛な空気を感じさせます。しかし現代の若者を中心とする観光客には、ただのかっこいいオブジェのようにしか捉えられていない現状があります。死を侮辱するようなモラルの低い人々までもがここに訪れており、笑顔で自撮りを楽しんだり、石碑から石碑へジャンプしている写真をふざけた文章とともに投稿している人までもがいます。 そんな現状を危惧したのは、ドイツ拠点にミュージシャンや俳優活動するアーティスト、Shahak Shapira (シャハク・シャピラ)
ドイツ・リューネブルグで、禁錮4年の判決を受け裁判所を離れるオスカー・グレーニング被告(2015年7月15日撮影)(c)AFP/TOBIAS SCHWARZ 【11月30日 AFP】ドイツの裁判所は29日、元ナチス・ドイツ(Nazi)の親衛隊(SS)隊員で禁錮4年の判決を受けていたオスカー・グレーニング(Oskar Groening)被告(96)に対し、健康上の問題はないとして刑務所への収監命令を下した。戦後70年以上が経過し関係者の高齢化が進む中、異例の判断となった。 「アウシュビッツの簿記係」(Bookkeeper of Auschwitz)の異名で知られるグレーニング被告は、第2次世界大戦(World War II)中にナチスの強制収容所で犠牲となったユダヤ人ら30万人の殺人幇助(ほうじょ)罪で起訴され、2015年7月に禁錮4年の有罪判決を受けた。 グレーニング被告は上訴し、独連邦通
ナチスの強制収容所に、大量殺戮のためのガス室はなかった、との調査・議論を展開していたboさんが、731部隊の残酷な人体実験についても同様にでっち上げられたものだ、と見解をツイートしたことに対する私の反論から、人体実験の有無をめぐって長〜い議論になりました。 残酷な人体実験は本当にあった、という結論で合意しました。
さきの大戦末期、旧日本陸軍の特攻基地「知覧飛行場」があった鹿児島県南九州市が、アウシュビッツ強制収容所跡地のあるポーランドの都市と進めていた友好交流協定の問題で、南九州市は27日、協定締結を中止することを明らかにした。「特攻とユダヤ人虐殺が同一視されかねない」という市内外からの反発によって、見直しを決めた。(南九州支局 谷田智恒) 同日開かれた市議会全員協議会で説明した。 市総務課によると、友好協定の話は今年1月、世界各国を歩いて平和や環境保護などを訴えているという横浜市の男性(32)が、持ち込んできたのがきっかけ。男性は昨年12月、同市の知覧特攻平和会館を訪れ「特攻隊員の遺書を読んで感動した。世界に平和を発信しているアウシュビッツと結びつけたいと思った」と担当者に語った。 男性は今年2月頃、アウシュビッツ強制収容所跡地のあるポーランドのオシフィエンチム市のアルベルト・バルトッシュ市長と面
今年も暑い8月がやってきました。シベリア抑留学徒出陣兵を父に持つ私には、どうしても8月は広島・長崎、そして終戦の8月になってしまいます。 今年はまた、このタイミングで麻生太郎副総理の「ナチス」発言などがあり、なぜかあっという間に話題に上らなくなりましたが日本とドイツを往復しながら音楽を作っている私には思うところの多い夏となっています。 そこで今回は、アウシュヴィッツの話から始めたいと思います。 ホロコーストから生還した指揮者 小学校低学年のとき、その名を知って、子供心に大変惹かれたオーケストラ作品がありました。その名を 「禿山の一夜」 といいます。 私は、46で亡くなった父親が若禿だったこともあり(汗顔です!)、禿頭というものに何というか、親しみを感じるところがあって、この「禿山の一夜」というのも、いったいどんな作品なのか、ぜひ聞いてみたいと思いました。 小学校4年生のとき、親と交渉して何
6月9日、ニュルンベルク裁判以降、行方が分からなくなっていたヒトラーの側近アルフレート・ローゼンベルク(写真)が書き記した日記が見つかったことが分かった。1945年11月撮影。提供写真(2013年 ロイター) [ワシントン 9日 ロイター] - 第2次世界大戦におけるドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判以降、行方が分からなくなっていたヒトラーの側近が書き記した日記が見つかったことが、ロイターの取材で明らかになった。 400ページに及ぶこの日記は、ナチスで幹部を務めていたアルフレート・ローゼンベルクのもので、ワシントンのホロコースト博物館による評価では、「日記はナチス時代を考察する上で極めて重要」とされている。またこの日記では、ユダヤ人や東欧の人々を虐殺するための計画についても詳細に触れられているという。
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