鶴見俊輔さんが亡くなられた。記憶では二度ほどお会いしたことがある。一度目は編集工房ノアの二十周年記念パーティで。そのときはお見かけした、といった程度であるが、二度目は徳正寺での鶴見さんを囲む茶会に参加させていただき、じっくりお話をうかがうことができた。それは拙文によって『季刊銀花』二〇〇六年夏号に「矩庵茶会記」として掲載された。 記事ヴァージョンでは紙数の都合で省略せざるを得なかったが、初稿の段階では鶴見さんのたいへん貴重な回顧談が記録されている。じつに魅力的な話し振りだった。以下に省略された部分を含む文章を掲載しておく。鶴見さんは矩庵(徳正寺内にある樹上の茶室、藤森照信設計)の茶室開きのときには茶室内に上がられなかった。それが心残りだとおっしゃっておられた。 夕刻になり、客がそろそろと集まってくる。晶文社を退いたばかりの編集者中川六平氏と週刊誌記者のF氏、編集出版組織体アセテートの中谷礼
「新しい時代を切り開いていった稀有な人材で、本学の卒業生としては異色の経歴の持ち主でした」――7月に死去した任天堂前社長の岩田聡氏をしのび、出身校の東京工業大学が追悼ページを公開した。岩田氏とゆかりのあった教授3人が思い出を語っている。 岩田氏は1978年に東京工業大学工学部に入学。在学中にゲームソフトなど開発するHAL研究所にアルバイトとして参加し、82年に情報工学科を卒業後は同社に入社。2000年に任天堂取締役に就任し、02年に社長に就任した。 工学部時代の同級生・植松友彦教授(大学院理工学研究科通信情報工学専攻)は、学生時代、岩田氏が世界初のホームパーソナルコンピュータとも言われるCommodore「PET2001」を所有していたことを明かす。同じアパートに住む同級生が彼のコンピュータでゲームを楽しみ、彼の部屋を「ゲームセンター岩田」と呼んでいたことや、岩田氏が同級生の間で誰よりも早
いつまでも若々しく活動的だった青木昌彦さんが永眠されたことが、まだ信じられない。今でも、涼しげな帽子をかぶりストライプのシャツを着た青木さんが「あ、伊藤くーん」とちょっとはにかんだような笑顔で現れて、握手のために手を差し出してくるような気がする。しばらくの間お会いする機会がなかった僕にとってはあまりに突然の訃報で、まだ気持ちの整理がつかない状態である。 僕と青木先生との研究交流は、僕の留学時代およびその後の研究者としてのキャリアの大きな部分を占めているものの、彼の長い研究者としての人生や膨大な研究業績の中ではほんの小さな部分でしかない。 僕よりも長い時代を共有した「同士」の方々、経済史、企業統治、中国経済の分野で研究交流のある方々など、追悼文を執筆するにふさわしく、人間くさい研究者「青木昌彦」像をお持ちの方々がたくさんいらっしゃるだろう。 研究のキーワードのひとつは「多様性」 でも、青木さ
明日は7/15日、女川町長も子供の頃、夢中になった(ファミスタ)というファミコンの発売から32年です。そして、そのファミコン黎明期から活躍したプログラマーであり、任天堂の岩田社長が亡くなられました。あんまり知られてませんが、岩田社長の計らいで 続く — 女川さいがいFM (@onagawaFM) 2015, 7月 14 女川町をはじめ、震災から3.4か月経っても、なお避難所暮らしが続いた被災地には、任天堂からDS一式配られたり、津波で壊れたDSを修理してくれたりしました。→ http://t.co/hoKx5whfze 続 — 女川さいがいFM (@onagawaFM) 2015, 7月 14 配られたDSには、女川町(たぶん各町ごとの)刻印がされていて、ワンセグチューナーもつけてくれました。子供はもちろん、テレビが見たかった大人にも有難いプレゼントでした。そんなことを思い出しつつ、ご冥福
経済学者 | 安田洋祐(やすだようすけ) のブログ。久々にデザインを変更しました!(2016年1月28日) 既にご存知の方も大勢いらっしゃると思いますが、ゲーム理論の礎を築いた偉大な数学者ジョン・ナッシュ博士が、2015年5月23日に交通事故で亡くなられました。享年86歳でした。事故の詳しい経緯などについてはニュース報道(たとえばこちら)などでご確認頂ければ幸いです。 プリンストン大学留学時代に、何度も本物のナッシュ氏を目撃し、(全く意味は分かりませんでしたが)貴重な彼の研究報告にも参加し、さらにはフードコートでお釣りを間違えてとられかかるという珍事件にまで遭遇することができた幸運を、改めて噛み締めています。今まで、ノーベル賞受賞者を含む多くの天才(と称される異人たち)を生で見る機会に恵まれてきましたが、ナッシュ氏は明らかに別格で、なんというか、タダモノではないという雰囲気を全身から漂わせ
イギリス出身のブルー・アイド・ソウル・シンガー、ジョー・コッカーが2014年12月22日に現在自宅のあるアメリカ・コロラド州で死去した。 ハスキーなしわがれ声と独特の歌唱が持ち味で、多くのファンを惹きつけ唯一無二の輝きを放っていた彼…。 ジョーのレーベルとなるソニー・ミュージックでは次のように声明を発表している。 「ジョーは長く肺小細胞がんとの闘病を続けていました。今年で70歳でした。彼は20代前半までイギリスに住み続けていましたが、1978年以降はのちに妻となるパム・ベイカーとアメリカに移住しました。2007年にはイギリスの女王からOBE(オフィサー)を叙勲されました。1964年以来、ブルースやソウルの歌い手として各国で活躍し、今日まで活動を続けていました。これまで40枚以上ものアルバムを発表し、世界中を精力的にツアーして回り続けていました。」 この訃報を受けて…多くのアーティストたちか
プレイリスト 12月の雨の日(SINGLE VERSION) / はっぴいえんど(1971年) 空飛ぶくじら / 大滝詠一(1972年) ナイアガラ・ムーン(イン・ザ・プール '05 MIX) / 大滝詠一(1975年) 楽しい夜更かし / 大滝詠一(1975年) 幸せにさよなら(NEW MIX) / ナイアガラ・トライアングル(1976年) 青空のように(SINGLE VERSION) / 大瀧詠一(1977年) ブルー・ヴァレンタイン・デイ(SINGLE VERSION) / 大瀧詠一(1978年) 恋のひとこと / 大瀧詠一&竹内まりや(2003年) (以上、12月03日発売、大瀧詠一オールタイム・ベスト・アルバム『Best Always~ベスト・オールウェイズ』より) ■ 番組公式サイト >> http://tatsuro.co.jp/ssb/
ウェイン・ヘンダーソン『スケッチズ・オブ・ライフ』1970年代のフュージョンを語るのに欠かせないビッグ・ネーム”クルセイダーズ”の結成&中心メンバーで、ファンキーなトロンボーン・プレイでファンを魅了したウェイン・ヘンダーソンさんが亡くなりました。 Wayne Henderson, a trombonist, composer and co-founder of the Jazz Crusaders, who became a powerful force for merging the sound of jazz with elements of funk, soul and R&B, died Friday at a Culver City hospital. He was 74. 出典:Wayne Henderson dies at 74; Jazz Crusaders co-foun
●速報。訃報。ジョー・サンプル死去 【Joe Sample Dies At 75】 訃報。 名キーボード奏者、ジョー・サンプルが2014年9月12日、死去した。75歳。ジョーは昨年(2013年)10月、肺炎で緊急入院。また2014年1月に東京でのライヴも予定されていたが、キャンセルしていた。その後、入退院を繰り返していた。現在は生まれ故郷のテキサスに戻っていた。親友でもあるレイ・パーカーがSNSで書き、筆者がレイ本人に確認した。詳細などのちほど。 ~~~ 思い出。 ジョー・サンプルはそれこそクルセイダーズ時代から、ソロになってからもずっとファンだったキーボード奏者。何度もインタヴューし個人的にも親しくさせていただき、本当に身近な存在だった。昨年入院したときに、ちょっと心配したが、その後退院したと聞いて、体調の回復を祈っていたところだった。 ジョーはわからないことがあるとなんでも丁寧に教えて
映画『アラジン(Aladdin)』(1992)より。ロビン・ウィリアムズ(Robin Williams)さんは魔人ジーニー(Genie)の声優を務めた。(c)PHOTO12/ARCHIVES DU 7EME ART 【8月14日 AFP】11日に急死した米俳優ロビン・ウィリアムズ(Robin Williams)さんは、テレビ・映画で披露した弁舌巧みで愉快な演技が何よりも印象深いが、実はハリウッド俳優としてアニメ声優に挑戦した先駆者だということはあまり知られていない。 ウィリアムズさんは1992年に米娯楽・メディア大手ウォルト・ディズニー(Walt Disney)が制作した大ヒットアニメ『アラジン(Aladdin)』に、ランプの魔人ジーニー(Genie)役で出演。ハリウッド・スターがアニメ映画の声優に挑戦するトレンドを、ほぼ単独で作り上げた。 ウィリアムズさん演じる魔人は生き生きとして、主役
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