@dokaisha 「どの作品が好きか」ではなく、「その作品をどの様に消費するか」でクラスタ分けしたほうが、おたくとサブカルとかの区別はより明確になる気がしますね。けいおんもピンドラもAKBも、きっとそれぞれ「おたく的消費」「サブカル的消費」「秘宝的消費」が可能ですから。
@dokaisha 「どの作品が好きか」ではなく、「その作品をどの様に消費するか」でクラスタ分けしたほうが、おたくとサブカルとかの区別はより明確になる気がしますね。けいおんもピンドラもAKBも、きっとそれぞれ「おたく的消費」「サブカル的消費」「秘宝的消費」が可能ですから。
概要 サブカルチャーについて。え〜と、サブカルチャーって言ってももうこれはものすごい広範囲の領域にわたっていてるんですよね。ちゅーことでまずは、サブカルチャーを大まかに4つに分けてみたいと思います。 1:マガジンハウス/大田出版系サブカル…いわゆるおしゃれ系サブカル。アイテム的にサブカルを身に着けることが得意技。女がマガジンハウス、男が大田出版。代表例:オリーブ(もうないけど)、クイックジャパン、ダヴィンチ、SPA!*1、ロッキングオン社の大概の雑誌 2:社会学系サブカル…大学の社会学系の先生方が教えているようなお堅いサブカル。頭いい人が多数所属。それほどでもない人にとってはお部屋のインテリア。「権威」を代表する。代表例:ユリイカ、新現実 3:角川系サブカル…オタクの事。代表例:メディアワークスの大概の雑誌、ニュータイプ。 4:エンターブレイン系サブカル…別名童貞系サブカル。伊集院光のラジ
僕みたいに今更の如くエロゲやらアニメに対しての考えを吐露している人間は、どうもサブカルのあんちゃんに見られてしまう節があるらしい。 特に最近の萌えブームも相まって、表面だけでなく根っこの部分を追求する輩が増えているのが原因だろう。 さてでは、僕はサブカル人間なのだろうか? 答えはノーとしか言えない、というよりかは、一言で僕を表すと多趣味。 自称ではオタクなのだが、はじめて見た人はオタクと思わないらしい。 何度か就活の面接で「実は私オタクなんです」と言ったら意外と好感を持たれた逸話を持っている。 まぁ、進んでも途中で落とされているわけなのだけど。 サブカルと多趣味というのは非常に紙一重であると思う。 多趣味な人間というのは様々なものに手を出しているからして、手を出すタイミング如何でサブカルかそうでないかが分かれる。というかそこが客観的に見たその人の特性なのだろう。 台風の如く去っていくサブカ
死に舞 - センス競争は悪か? http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20060304/p2 基本的にあらゆる文化の価値観は人を馬鹿にすることでなりたっていると自分は思ってる。 死に舞さんの記事を読んで、そういえば去年死に舞さんの記事に触れようと書きかけの文章があったのを思い出したのでサルベージ。 死に舞 - 鰻ナウ! 中二病、高ニ病へのレクイエム1 http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20050419#p1 まあなんにしろ全体にいえるのは、文化を感性的な側面以外で評価する、つまり文脈的な差異などを強調して評価する態度を「病」と括ることで脱臼させているのだ。そしてそこにあるのは結局、素朴で「無難な」、「(漫画でもアニメでもハリウッドでも洋楽でもJ−POPもアニソンでもフランス映画でも文学でもライトノベルでも、その形式的な差異はともかく)内容
「[投げつけ][断片]勘違いする余地がないのは、幸せなことか、不幸せなことか」 に対する批判 「これから音楽に出会う若い人たちへ~ダッシュ君、そしてダッシュ君と同じ気持ちの人に向けて~」 について。 どうも誤読に思えるので、オオツカダッシュを擁護しますね。 「サブカル」というのは他者性に裏打ちされた文化である。これは近年「動物化した」といわれている「オタク」と対比すると分かりやすい。「動物化」とは他者の視線の失われた、スノビズムなき世界へのシフトを意味する。家畜が餌を食うように、ジャンキーがドラッグを打ち込むように、娯楽に接する態度ですね。京都の料亭で懐石料理に舌鼓をうったり、船来の葉巻を嗜むような「気取り」の文化とは対極に位置する、唯我論的な気持ち良さ、他者性なき快楽主義の文化を「動物的」と呼ぶわけです。 オオツカダッシュの人が言いたいのはおそらく、他者に開かれていたサブカルとその信奉者
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