暴論、極論かもしれません、ご批判もお受けいたします。 世間では格差拡大がよく話題に上ります。その関連なのですが、企業での雇用形態のちがい(正社員と非正社員など)での待遇のちがい、仕事内容の差に比べて待遇に差がありすぎるということで、待遇が悪い雇用形態の人に不満が大きいというのはよくわかる話です。 ただ、では、不満が大きい人は、自分で待遇改善に向けた動きをしていらっしゃるのでしょうか。 動きと言ってもいろいろあると思います。 正社員への転職、自分のスキルアップによる待遇改善、同じ境遇の人たちとの連携による運動、など・・・。 私から見ると、そういった動きがまだまだ足りないように感じられて仕方がないのですが、そういう見方はまちがいでしょうか。 ご意見をいただける方の書き込みをよろしくお願い申し上げます。
272 名前:('A`) 投稿日:2007/01/12(金) 23:33:30 0 人間なんて所詮こんな程度なんでしょうね。 だからこそ護身が必要になるのでしょう。 【社会】「溶けゆく日本人」・・・救急車をタクシー代わり、 図書館蔵書から切り抜き 「・・・あの、救急車はタクシーじゃないんですけど」。 新人救命士の制止を振り切り、風邪をひいたという中年女性が、 ズカズカと救急車に乗り込んでいく。これは来月放送予定の 「救急救命士・牧田さおり」(テレビ朝日系)の1シーンだ。 救急車の“乱用”が目立つご時世を投影した演出。 しかし、現実はドラマよりも奇なり。 「常識」の二文字などお構いなしの救急要請が後を絶たない。 数年前の午前2時ごろのことだったという。 横浜市の救急隊員だった緑川郁さん(32)は「気分が悪い」という 若い女性からの通報でマンションに急行した。呼び鈴に応答はなく、 郵便受けか
毎日新聞の連載「縦並び社会・格差の現場から」を興味深く読んでいます。元クレイフィッシュ社長の松島庸氏の挫折とチャレンジをサイバーエージェント藤田晋社長との対比で描く「ヒルズ族になれなかった男」は、なかなかの読み応えです。ところで、連載の趣旨説明が少し気になりました。 「一億総中流」時代は終わり、格差が広がりつつあります。効率追求の競争はますます激しく、会社も人も「勝ち組」「負け組」にはっきり分かれようとしています。自殺は毎年3万人以上、生活保護は100万世帯を超すという現実が私たちの眼前にあります。これが「頑張れば報われる」新しい社会像なのか。それともセーフティーネット重視の相互扶助型の社会を選ぶのか−−。海外にも目を向け、日本の目指すべき針路を読者とともに考えます。 と書かれているのですが、私が引っかかったのは『「頑張れば報われる」新しい社会像』というフレーズです。 私は、これからの時代
* 通常、初版(1848年)の“Das Manifest der Kommunistischen Partei”の定訳として、『共産党宣言』としてしられているが、1872年の第2版では、“Das Kommunistische Manifest” と改訂され、その真意がとりざたされてきた。 ■平井さんの本は、先日紹介した 杉田俊介『フリーターにとって「自由」とは何か』〔人文書院〕以上に、ラディカルな 作品だ。■杉田さんの指摘の水準で、充分 日本の中間層にとっては、おぞけをふるうような 衝撃力があるだろうが、しかし、「フリーター」という社会階層〔ハラナ個人は、この点だけ、杉田さんに異論があって、フリーターは階層なんかじゃなくて、「階級」だとおもうんだが〕の さししめす 日本の近未来の予兆、フリーターが現在もっている政治経済学的な意味については、かなりの程度 なっとくする層があるとおもう。とり
日本人契機やる気の有無による差別なんで「非モテ」論争は面白いか私が以下の記事を投稿するきっかけになったのは以上の記事だが、他人の文脈で相撲をとる気は毛頭無いので比較検討差分の管理は読者に任せ、私は私であることにする。blogの読者は頭を使え、blogの作者は眼を使え。共に揃ってbloggerである。このライト差別がぬるい有史以来かどうかは知らないが、今や差別は娯楽になったと私は思う。「もっと気軽に」を求め続けて、差別は益々娯楽になった。今楽しめる差別の両横綱は、「「やる気の無い者」に対する差別」と「「人付き合いが下手な者」に対する差別」である。この二つの差別が盛り上がるであろう事は十年前から予測されていたが、その次に何が来るのかは十年間語られなかった。様々な差別が卒業していき最後にこの二つが残った、と言っても過言には及ばぬ究極の差別である。「やる気」が「人付き合い」の一環でもあるような環境
更新停止中に「ARTIFACT ―人工事実―」の新エントリー「オタク趣味は金をかけなくてもできるようになった」が話題になっていたようなので、僕も今更ながら読ませていただいたのですが、エントリーの内容でちょっと気になる部分があったので、重箱の隅突付き的に言及したいと思います。 本文中で加野瀬さんは、鈴木謙介さんのエントリー「SOUL for SALE :: 格差バブルと下層の論理」を引きつつ、大衆文化の消費者が持つメタストック(文化資本)の格差について言及されているのですが、 これは音楽だけではなく、文化全般にいえる話。 お金をかけないオタクは過去の資産を持たないけど、リッチなオタクはきちんと過去の資産を持っている。アニメや漫画なども、そういったリッチなオタクの子供しか作り手になれなくなってしまうという未来を想像してしまいました。 と述べられている部分を読んだ時に妙な違和感を覚えたので、自分
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く