私の母は絵が上手だ。若かりし頃、少女漫画家を目指していたらしい。 この夏実家に帰省した際に、母親が描いた漫画が大量に出てきたのだ。せっかくなので母親の漫画家ヒストリーを娘の私がインタビューしてみることにした。
俺と7つ離れてる俺の姉、のんびりや。 俺が小さい時はよくわかんなかったけど、大きくなるにつれ、姉がボケボケなことをわかってきた。変なとこだけ書き出すと、グレーゾーンだと思うかもしれないが至って普通な人間だ。 姉、得意科目以外はダメダメ。 理数系は得意なのに文系はダメダメ、三者面談で担任に日本語が苦手ですね、と言われた始末。(別に悪口ではない) 体育はもはやできない、特に球技が下手すぎてチームプレー系の時はボールが来ない。ボールが来そうになると他の人がすっ飛んで来る。一回バレーボールでたまたまレシーブになってしまった時に腕を上に振り回しながらジャンプして腹から床に落ちる、というイルカもビックリな動きをしたらしい。ちなみにボールは取れてない、怪我しなくて良かったな、姉。(姉の友人談) 姉、めっちゃ食う。 学生の時でも3合近く食ってた、社会人になって食べる量減っちゃった…とか言いながら2合食う。
母子手帳の母の名前が違った。 出生時刻が知りたくて(推しの影響で占いにハマってる)親の部屋にしまってある母子手帳を見た。 ぱっと開いたページに挟まってた診察書みたいなやつの母親の欄に知らない名前があった。苗字は一緒なのに下の名前が違う。でも子供の名前はちゃんと私。 最初は医者の書き間違いだと思った。 でも、年齢もおかしかった。母は今40代なのに、そこに書いてある年齢に私の歳を足すと50歳を超えてしまう。 私は長女なのに、経産に丸が付いていた。 表紙をちゃんと見てみた。母親の苗字はそのまま、下の名前には修正テープが貼られてた。第2子って書いてあった。 表紙をめくってすぐの母親の生年月日を書くところは全部修正テープで隠してあった。 妹の母子手帳を見てみた。 表紙には母親のフルネームがちゃんと書いてあった。第1子って書いてあった。 父がバツイチなんて聞いたことが無かった。 私の一番古い記憶は3歳
老後=お金の問題ではない。『ひとりでしにたい』作者のカレー沢薫さんが30代で終活を考えて気付いたこと #老いの準備#楽に生きる 公開日 | 2020/12/17 更新日 | 2021/03/23 バリバリのキャリアウーマンで、子どもの頃から憧れの存在だった伯母さんが突如“孤独死”したことを知らされる──。そんなちょっと衝撃的なシーンで幕を開けるのが、30代独身女性の終活をテーマにしたカレー沢薫さんの漫画『ひとりでしにたい』です。 カレー沢さんが「終活」という一見重いテーマを作品の中心に据えたきっかけは、30代後半になった自分自身が、いずれ“一人で死ぬ”かもしれないという漠然とした不安を抱えるようになったためだそう。そこで本作の制作も兼ねて、自身の「終活」について考え始めたといいます。 30代や40代のうちから終活を始めることは、決して早過ぎないと話すカレー沢さん。いまご自身が考えている終活
2017年、8年の年月をかけて完成した小説『おらおらでひとりいぐも』で作家デビューを果たした若竹千佐子さん。63歳にして文藝賞を受賞し、その翌2018年にはなんと芥川賞も受賞している。60万部突破のベストセラーとなった本作は田中裕子主演で映画化され、現在公開中。脇を固めるキャストも蒼井優や東出昌大と豪華な顔ぶれだ。 本作は、子供たちが巣立ち、やっと夫婦水入らずで残りの人生を楽しもうと思っていた矢先に夫・周造に死なれ、心にぽっかりと穴が空いた75歳の「桃子さん」が主人公。ひとり暮らしの彼女の頭のなかで拡がる会話で進むストーリーは非常に内省的だが、東北弁のリズムが軽快で、桃子さんが発する一言一言が人生の示唆に富んでいる。 原作者の若竹さんもまた東北の出身で、55歳のときに夫に先立たれている。哀しみにくれ、自宅に引きこもっていた彼女を見かねた息子さんから小説講座を勧められたことがきっかけで、本作
家族は、“選べる”。 「ダウン症の子を育てる自信がない」という母に、父はこう言った。岸田奈美が話す“家族との向き合い方” 誰よりも近い存在だからこそ悩んでしまう、「家族との向き合い方」。 愛情ゆえに接し方を間違えてしまったり、分かり合えず喧嘩をしてしまったり…なんてことも少なくないはず。 今回は、9月に上梓した初の書籍『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』で、車いすユーザーの母、ダウン症で知的障害をもった弟、ベンチャー起業家で急逝した父との日々をつづった作家・岸田奈美さんに取材。 岸田さんがご家族との暮らしを振り返るなかで気づいた、「家族と向き合う上で大切なこと」についてお話しいただきました。 〈聞き手=サノトモキ〉 【岸田奈美(きしだ・なみ)】1991年生まれ、兵庫県神戸市出身。100文字で済むことを2000文字で伝える作家。一生に一度しか起こらないような出来事が、なぜだ
「お金持ち」というのは、フィクションやバラエティ番組の特集に出てくるような、豪邸に住み、ブランド物を身に着け、湯水のように金を使う人達の事だと思っていた。 きっとそういう人たちは、”何億”だとかそういう、学校で習ったけれど想像もつかないような莫大な単位の額のお金を稼いでいる。自分とは違う、遠い世界に住む人たちだ。 人口一万人足らずの町に生まれ、公立の学校に通い、田んぼに囲まれた片道4キロの通学路の途中で今日の夕飯はなんだろうとお腹を空かせながら考える。休日の友達との娯楽と言えば、街の方のショッピングセンターでプリクラを撮ること。そんなあまりにも在り来たりな日常を送っていた私にとって「お金持ち」というのは遠い存在だった。 私は田舎町の寺で一人目の子として生まれた。父親は大学教授で、母親は実家が呉服屋の専業主婦。祖父母は元々教師をやっていたようだ。 私の両親は母親の方がしっかりしていて気が強か
高齢の母と関係が改善したきっかけは、意外にも「パソコンとスマホ」だった #IT・テクノロジー#エンタメ#親とのコミュニケーション#2世帯住宅 公開日 | 2020/04/13 更新日 | 2021/06/01 河相我聞(かあいがもん) 現在44歳の私は、77歳の母と、息子(次男18歳)と親子三代の3人で暮らしている。 今は平穏に暮らしているが、10年ほど前に母と同居を始めたときは「生まれた惑星が違うんではなかろうか」と思うほどにお互いの物事の考え方が折り合わず、言い合いになることが多かった。 母と離れて暮らしていた時は比較的良好な親子関係だと思っていたが、同居してからは私の親としてのあり方や息子の生活態度など、母の価値観と微塵(みじん)も合わないことがたくさんあるようで、顔を突き合わせると「あなたたちのためを思って」と意見を言われ、私が言い返すと急に怒り出した。 その時すでに母の難聴がだい
去年書いたトトロの記事に、大きな反響をいただいた。 今からはじまる物語は、この記事の「ゼロ話」である。 小学3年生の初夏。 9歳になったばかりの私は、「子供の権利」を手放した。 これは、私の子供時代が、無残に終わってしまった日のお話。 ずっと消えない壊れた時間が、いまもここに、残っている。 親の毒を味わうしかない、サビシイ子供だった「わたし」から、今日もどこかで子供と関わる、すべての人へ。 「好きじゃない方の子供」だった、わたしひとつ年下の弟がいる。 3歳くらいのときから、母は私よりも弟のことがカワイイのだな、とハッキリ理解していた。 誰になにを言われるでもなかったが、ちょっとした声かけや態度の差から、幼いながらに読み取れたのだ。 例えば保育園の帰り道。 歩いていて転んだとき、母は私に「も~なにやってんのよ、大丈夫?」と迷惑そうな視線をよこした。 しかし弟が転んだ時には、言葉より先にかけよ
こんにちは、らくからちゃです。 先日、妻と朝ごはんを食べながらテレビを見ていると『姻族関係終了届』なるものが注目を浴びていると放送されていました。『縁切り届』なんて別名もあるそうですが、どういうものかというと『夫・妻が死亡した後、義実家との親族関係を解消することを意思表示する届け出』だそうです。 図にするとこんな感じでしょうか。色々と話を聞きながら、気になったポイントが何点かありましたので、簡単に調べた結果をまとめて見たいと思います。 姻族とは何か 今回のテーマである『姻族』についてその意味を確認してみましょう。 普段何気なく使っている『親族』という言葉ですが、日本の法律上では血族で六親等、姻族で三親等までがその範囲に含まれます。 (出典:親族 - Wikipedia) ◯親等は、親子関係を一本の線として考えて行きます。『血族』とは、親子の関係で少なからずとも血の繋がりのある相手。『姻族』
東京出張した時に中途半端に時間が余り、美術館に行くには無理があるし、人に会うには急すぎるし、さてどうしようかと思って、家族に買って帰るお土産をちょっとじっくり選ぶことにして、いいものを買うことができてとても満足した。 東京に行くとあれもしとかなくちゃこれも見とかなくちゃと、妙に落ち着かない気持ちになる。 しかしぼくはそういうやりくりがとても苦手なので、そんなにうまく用事をこなせない。 結局何もできずにがっかりすることと比べたら、家族のお土産をじっくり吟味するのはなかなか良い時間の使い方だと感じる。 若い頃はどこか遠いところに行くときは、そのどこか遠いところこそが目的地だったけど、いつのまにか、遠くへ行って、戻ってくるところが目的地になっている気がする。 家を出るときや保育園を出るときは、いってきます、と言う。 いってきます、はたいていの場合、ただいま、と対になっているから、やっぱり戻ってく
父は昔から「働かざる者食うべからず」という思考の人だった。 父も母も高校を卒業してからずっと働いているし、 おそらく私と兄が奨学金を借りてでも進学したいと言ったこと、母が子供がやりたいならそれを応援すると進学することを応援したこと。すべてが気に入らなかったのだと思う。 兄は私が高校に入るころ、無事に就職し遠方だったので家を出た。 私は専門学校を卒業したが就職難で就活がうまくいかず2年ほどフリーターを経て、ようやく去年就職した。 フリーターの間の父の風当たりはとても厳しかったし、休みの日に朝7時まで寝ているだけで早く起きて家事をしろと蹴り起こされることもあった。 父に就職したことを報告すると「絶対に、辞めるな」その言葉が返ってきた。 結果として、私は1年半で退職してしまった。 初めて就職したその会社はパワハラがひどく、残業代が出ないのにも関わらず長時間残業。 7時前に家を出て帰るのは23時頃
立たねえ。タマねえ。そんな僕の体の欠陥が大きなハンデとなり、厳しい戦いに終始した二年間の妊活が長い話し合いの末終わってからちょうど一年になる。僕は41才。いつの間にかオッサン狩りの獲物となり周りからは老害扱いされはじめているけど、まだまだ若いつもりでいるので、これからの数十年の人生を子供なしで生きていくと考えると少し寂しい気持ちになる。 妻はもっとそうに違いない。妻は決めたときから子供について何も言わない。友人の出産祝いを買いにいくときなどは絶対に思うところがあるはずなのにだ。僕を思いやっての無言なんだろう。でも僕は責めて欲しかった。はっきりとタマなし野郎と責めてくれたほうがいくらか気分が楽だった。 潔く決めたはずだけれど、僕らの決定が正しかったのか間違っていたのか今はまだわからない。正しかったなんて胸を張るつもりはない。人生を終えるときに間違っていなかったと思えればそれでいい。これからの
選択的夫婦別姓の議論が盛んになってますね。賛成派の学者は「多様性を広げる、選択の幅を広げるために必要」、反対派の学者は「家族の絆が弱まるからダメ」って言ってます。テレビ見てるとだいたいこれに集約される気がする。 そこで気になったのが反対派の「家族の絆が弱まる」って話です。姓が夫婦別になる、子供はどちらかの姓を名乗る。家族がバラバラの姓だと家族の絆が弱くなるって訳です。感情論に聞こえなくもないですが、そういう面もないこともないのだろうなあ。 ところで、家族の絆と言えばもうとっくに弱々弱々弱々しくなっているわけです。3世代同居のサザエさん型の幸せ家族の数はそれはそれは少なくなっています。祖父母世代と孫世代の絆の崩壊ですね。家族の絆の一部はとっくに崩壊してます(同居しなくなった=家族の絆の崩壊)。 それに家族になるためには結婚が必要なんですが、結婚の数もとっくに減ってますので家族の絆が弱まる前に
実家の梅の木を切りにいった。梅の枝は夏の空に向かって伸びていて、今にも電線に届きそうだ。青い夏の空と、まだセミの鳴かない静けさと、真夏のような熱い空気はどこかミスマッチで、不思議な感じがした。汗をかきながら覚束ない手つきで通販で買った高枝切りハサミを操っていると「意外とやるじゃない」、母が誉めてくれて思わず手を止めてしまう。今でこそ夜の街で「らめぇ。内臓の位置が変わっちゃう」「おやおや、いい声で鳴く子豚ちゃんだねぇ」と誉められる僕だけれども母に誉められた記憶は何一つないからだ。 父が亡くなったのは5月の初夏だ。その季節を選んで逝った父には少しだけ感謝している。母が父を思い出すであろう初夏。そこから本格的な夏に向けて長くなっていくばかりの明るい時間が、僅かでも母を影から遠ざけ、明るくしてくれるような気がするからだ。でも僕は気づいている。夏の日差しの明るさは寂しさを消し去るものではなく、一時、
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