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天草市で潜伏キリシタンの貴重な資料が新たに発見された。 天草市天草町の庄屋の家に伝わり「ロザリオ館」に保管されている「上田家文書」の中から見つかった。 島原天草の乱以降キリシタンの子孫が「類族」と呼ばれ、5代にわたって出生、結婚、死亡などが記録され幕府に管理されていたことが分かる文書など22点で、調査した熊本大学大学院の安高啓明准教授によると、島原天草の乱の後から、江戸時代後期に潜伏キリシタンが摘発された「天草崩れ」まで150年以上、資料が乏しい「空白期間」があったというキリシタンの動向が記されている。 今回の発見は空白を埋める貴重な資料だという。 資料では類族と呼ばれたキリシタンの子孫が類族以外とも結婚していたことが分かり、幕府の管理を受けない潜伏キリシタンが存在できた背景が説明できるという。
孫を抱くコンドルを中心に(右上から時計回りに)岩崎久弥茅町本邸▽岩崎家玉川廟▽綱町三井倶楽部▽三菱一号館美術館▽島津忠重邸(清泉女子大本館)▽旧古河邸(大谷美術館)▽諸戸清六邸(六華苑)▽岩崎弥之助高輪別邸(開東閣)▽東京復活大聖堂(ニコライ堂) 日本近代建築の父とも呼ばれるジョサイア・コンドル(1852~1920)の現存する9建築の関係者が初めて一堂に会して17日、清泉女子大(東京都品川区)でコンドル・サミットが開かれた。 サミットはコンドル建築を本館として使う清泉女子大が、創立70周年とコンドル没後100年となる昨年に企画したが、新型コロナウイルス禍で1年延期。今回も直前に都内に緊急事態宣言が出たため観客なし、一部リモートなどの対策をとって実施した。 コンドルは1877年に英国から明治のお雇い外国人として来日し、鹿鳴館など生涯100件ほどの建築を作り、工部大学校(現・東大工学部)教授と
明治時代の公的機関職員や軍人ら3万8296人を網羅した「明治期官僚・官職データベース(以下DB)」が完成し、鹿児島大学司法政策教育研究センターが7月、提供を始めた。近代史研究に欠かせない名簿類を、在野の研究者が四半世紀かけてデータ化した労作。専門家は「調査の手間が大幅に減り、一般の人も使える」と高く評価する。 DBは1868(慶応4、明治元)~1911(明治44)年に発行された、国や県の職員名簿に当たる「官員録」「職員録」など5種の名簿を、表計算ソフトのエクセルで分類。電話帳のように名字で整理し、氏名や職名、出身地も載せた。 例えば文官の項で「大久保」を検索すると22人がヒット。その1人、大久保利通は1868年の議政官参与を皮切りに次々と要職に就いていた。暗殺された78年当時は内務卿、太政官(だじょうかん)参議、地租改正事務局総裁を兼務しており、存在の大きさがうかがえる。 作成したのはセン
資料群階層について画面左側に表示されている階層をクリックして、資料を検索することができます。 資料群→簿冊→件名の階層構造や概要が分かります。 行政文書 この資料群の下位階層には、以下の資料群が含まれています。 内閣官房 内閣法制局 *内閣・総理府 人事院 内閣府 復興庁 *経済企画庁 *沖縄開発庁 *宮内庁 公正取引委員会 以下省略 ( 合計:59 )
文京区本郷で戦前から営業し、近隣の東京大学の学生や研究者らに愛されてきた古書店「大学堂書店」が四月末で閉店する。創業から九十年目の節目、コロナ禍で客足が減ったことで、高齢になった店主が店じまいすることを決断した。惜しむ声が上がる。 (長竹祐子) 「本郷の銀杏(いちょう)とともに九十年」。店内の張り紙が、東大とともに歩んできた長い歴史を伝える。閉店セール中の店には、卒業生らが「学生時代にお世話になりました」と遠方から次々と訪れている。 店主の横川泰一(たいいち)さん(84)の父、精一さんが一九三二(昭和七)年に東大正門の近く、本郷通り沿いで創業した。和歌山に住む博物学者、南方熊楠(みなかたくまぐす)(一八六七〜一九四一年)のために、本を集めたこともある。
森川英正(もりかわ ひでまさ、1930年10月11日- )は、日本の経営史学者。 略歴[編集] 長崎県佐世保市出身[1]。1954年東京大学経済学部卒、59年同大学院経済学博士課程満期退学、法政大学経営学部講師となり、助教授、教授。1985年横浜国立大学経営学部教授。1987年横浜国立大学経営学部学部長。1990年慶応義塾大学大学院経営管理研究科・ビジネススクール教授となる。1998年定年、豊橋創造大学教授。93年「Zaibatsu」で日経・経済図書文化賞受賞。経営史学会会長を務めた[2]。 著書[編集] 『日本型経営の源流 経営ナショナリズムの企業理念』東洋経済新報社 1973 『技術者 日本近代化の担い手』日本経済新聞社 日経新書 1975 『日本財閥史』教育社歴史新書 1978 『財閥の経営史的研究』東洋経済新報社 1980 『日本型経営の展開 産業開拓者に学ぶ』東洋経済新報社 東経
日時:3月26日(金)17:30 - 19:30 報告者: 水野博太(東京大学ヒューマニティーズセンター特任助教) 原圭寛(湘南工科大学工学部講師) 近年,古典教育が大学などの高等教育における人文学の意義付けと関連して議論の対象となっている。しかし同様の議論は,近年になって日本で初めて登場した......というものではなく,近代的な高等教育が形作られ始めた当初から,洋の東西を問わず繰り返されてきた議論でもある。 このセミナーでは,19世紀の日本およびアメリカにおいて,古典教育をめぐってどのような議論が行われてきたのか,二人の報告者の専門に基づきながら検討してみたい。この時代は,日本では明治維新を経て日本初の近代的総合大学である東京大学が設立され,近代的高等教育が形作られていった。アメリカも同時期に,前近代から続くカレッジがその数を増やすと同時に,ドイツ的な研究理念を有する大学院が登場するな
緒言:本研究の目的は,戦前の数少ない理系の女子教育機関であった女子薬学専門学校の設立目的について検討することにある. 方法:本稿では,東京府下の女子薬学専門学校の学則を手がかりに,男子対象の私立薬学専門学校との比較,考察を行った.資料は東京都公文書館所蔵の,東京府下の女子薬学専門学校設置時の申請文書を使用し,同じく同館所蔵の男子を対象とした私立薬学専門学校の設置認可書類および学則変更書類と比較した. 結果:その結果,女子薬学専門学校の教育方針および教育課程において,薬剤師資格の取得と家庭の主婦としての役割が矛盾しない形で編成されていることを具体的に確認した. 考察・結論:戦前の社会においては,性別役割分業観が支配的で,女性の高等教育への進学者はごく少数であった.女性の進学可能な理系の教育機関も限られていた時代,専門職としての女性薬剤師の養成機関の設立目的にも,「良妻賢母」との両立が説明され
中世ヨーロッパの地図 ストゥディウム・ゲネラーレ(Studium generale, 複数形: ストゥディア・ゲネラーリア [Studia generalia]、「一般学問所」)とは、中世の大学 (medieval university) の古称であり、神聖ローマ帝国が国際的な高等教育機関として認定したものである。初期のストゥディウム・ゲネラーレは主にイタリア、フランス、イングランド、スペイン、ポルトガルで設立され、それらは当時のヨーロッパにおいて高名な学びの場と考えられていた。その栄誉の世間的な重要性は何百年もの年月を経て低下しているが、ヴァチカンは数多くの新設大学をストゥディウム・ゲネラーレに指定し続けている。 早くも13世紀には、ストゥディウム・ゲネラーレを卒業した学者は、ヨーロッパ各地のほかの教育機関で講義を行い、また書物や資料を共有することがよしとされた。この精神が現在でもヨーロ
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