『かぐや姫の物語』を観た。強い衝撃を受けた。昔話のあらすじそのままでありながら、昔話ではなかった。これは、あきらかに現代を生きる女の話だった。震えた。 思春期を迎える頃に、かぐや姫は生まれ育った山を離れ、都へと連れていかれる。この時点でいくつかの喪失がある。子供時代の喪失。野山を駆け巡る生活の喪失。遊び仲間の喪失。姫は、このときまだ自分が何を失ったのか理解していないが、「子供時代の喪失」は、女にとって、人間性を一度失うことと同じである。女にとって、大人になるということは、ただ子供から大人になるということではない。大人ではなく、「女」になれ、という周囲からの強制が必ず働く。ただ自分の意志で好きなことをし、気持ちをそのままに表現できた子供時代を失い、人目を気にして誰から見られても恥ずかしくない「女」になれと強いられるのは、自分自身を捨てろと言われているのに等しい。都に移り住んだ姫は、走り回るこ
熱が下がらずぜんぜん身体が動かないのだが、無理をして「かぐや姫の物語」を見に行った。劇場が明るくなっても立ち上がれないくらい衝撃を受けた。とてつもなく素晴らしかった。何なら過去観た邦画でナンバーワンと言ってもいい。絵が、動きが素晴らしい、演出がアホみたいに素晴らしい、音響も。ニカさんの主題歌も。しかしこのあたりについては皆が語ってくれているので、僕が言わなくてもいいかもしれない。 僕がとにかく驚いたのは「かぐや姫とはどんな物語か」ということが、あまりにあっけらかんと、一切の隠し立てなく、出し惜しみなく、もったいぶらずにくもりないロジックで描かれていたことだ。こんな竹取物語はついぞ見たことがないし、こんなにまで克明に竹取を語れた文学者を寡聞にして僕は知らない。率直に言って、国文学者たちは何百年もの間、ちょっと怠けてきたのではなかろうか。それほどの仕事を、高畑勲はやってのけたと思う。 この見地
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