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  • ブログ再開?: 極東ブログ

    長い間ブログを休止していた。この間、大学院生であったという理由が大きい。25歳に最初の大学院を中退し、それから40年かけて大学院修士を終えたという感じだ。10年前の著書には、「もう諦めた」と書いたが、子供が4人成人したのをきっかけに修士に再挑戦した。というわけで2年間、放送大学で大学院生をやっていた。ようやく修論が終わり、取得単位もクリアしたので、今月末には卒業ということになる。 この間、修論研究にけっこう専念していた。コロナ禍もあってか、朝から深夜まで研究ばっかりしていたこともある。加えて、大学院の単位取得もそう容易いということでもなかった。40年前の大学院の単位も復活できるかとも思ったけど、手続きミスがあり、諦めた。結果からいうと、それでよかった。認可待ちしていると、大学院の単位の計算が不確定になっただろう。取得単位という点では、結局、学院を2つ出たような感じだが、あれだなあ、学問の風

    mshkh
    mshkh 2023/03/02
    500ページの修論!すごいなあ。私も、60, 70になっても新しいことを研究していきたい
  • あなたの時間を吸い取る「果てしないプール」: 極東ブログ

    世の中がおかしなことになってきた気がする。というとき、おかしいのは自分のほうかもしれない、とも思う。が、とりあえず自分にとっては、世の中がおかしいという感じはする。 具体的には、2つ思う。1つは、新型コロナウイルス騒ぎである。感染症自体より経済的な波及や社会心理の側面が大きな問題になってしまった。もう1つは、ネットである。端的な例でいうと、Twitterが気持ち悪い。 とかいうと、おまゆう、の類だが、これもそう感じる自分がいる。これに関連していることだと自分では思うのだが、街なかで中年から初老スマホゾンビが増えたと思えることも、気持ち悪い。なんでこんな爺さんがスマホ見ながらぼんやり歩いているのだろう、危ないなあと。スマホ見るのはいいけど、立ち止まるか、座れよ。 この2つをあえて1つの問題意識にまとめる必要はないのだが、それらの根にあるのは、情報のありかたではないだろうか。スマホ経由で入って

    mshkh
    mshkh 2020/02/21
    私もtwitterにはなんか情熱を失いつつありますね。はてなでも、バズってる話題には近寄りたくない感じ。最後はブログだけ残るのかな
  • 韓国とは友好的でありたいが日本とは体制の異なる国家になった: 極東ブログ

    結論を先に、かなり荒っぽく言えば、日は米国の属国のようなものだが、韓国はそこから離脱して中国の属国のようなものになっていくのだ、ということ。現代世界を冷戦に例えるのは意外に危険ではあるが、実際的には、米中は新冷戦と言ってもいい現状がある。その意味では、日韓国は異なる体制になっていく。せめて鉄のカーテンがないように、民間交流は円滑になるといいと願う。 そうして概観してみると、昨今の韓国問題は ① 日の国家安全保障の問題(韓国中国下に入りつつある) ② 韓国による日韓基条約(の関連協定も)のちゃぶ台返し を、切り分けたほうがいい。そして、今回のフッ化水素関連は、①である。 ②については、つまり、「韓国による日韓基条約(の関連協定も)のちゃぶ台返し」は、韓国の主体規定による、第二次世界大戦勝利国認識に関連する。これは、フランスのドゴール政府の模倣的な発想だろう。簡単に言うと、韓国

  • 香港大規模デモについて: 極東ブログ

    現下の香港の大規模デモについては、日のメディアでもけっこう報道されていることと、このブログでは香港の民主化についてこれまでも扱ってきたので、ごく簡単に言及しておきたい。 まず、なぜデモなのか?という原点を確認したい。これがもっとも重要な点だとも言える。理由は、議会が普通選挙による民主的な議会ではないためだ。日のように普通選挙が実施されている民主主義国なら、市民はデモを行っても当然よいが、政治参加としては投票に次ぐものになる。ところが、香港には、市民の普通選挙がない。市民の意思表示は、デモ以外にはないのである。 この原点が意味するところは、2つに分けて考えてもいい。①議会が市民の代表ではないということ、②普通選挙が実施されていないこと。前回の雨傘運動は、この普通選挙を求めるものだった。そして、その意味での、普通選挙を求める香港市民の意思は変わりない。そこが目標でもある。 次に、現下のデモ

  • 平成最後の日: 極東ブログ

    平成最後の日である。この日にまったく思い入れがないわけではないが、強い思い入れがあるというものでもない。というか、そういう思いというか感情が浮かんでこない。理由ははっきりしている。この日がとても人為的な日であるからだ。私たち日人は、この日をある運命として受け入れたのではなく、予定を遂行しただけだからだ。そのことを改めて考えれば、それなりに大変なことだなとは思わないでもない。 昭和から平成への変化までには、数年にわたり、昭和天皇の死としてXデーが常に意識されてきた。最終的なXデーは、結果からすると多分に人為的な面も感じられるが、基的には、ある種の運命でもあった。天皇の死というものを、運命として日国民が受け入れ、新しい天皇をたてるという営みであり、そこでは追悼と企図が同時に起きた。 今回は違った。天皇の死と新天皇の即位とさらにその元号の制定の3つは、ばらばらに切り離された。切り離すことで

  • スリランカ連続テロは新しい時代のテロだろうか?: 極東ブログ

    スリランカで大規模なテロの一報があったとき、まず思ったのは、奇妙なある矛盾した思いだった。矛盾というのは、2つの方向がある。一つは、スリランカの近年の歴史を振り返ると大規模な内戦があり、その余波が連想されることだ。しかし狙われたのは、キリスト教会でありまた欧風の高級ホテルであった。内戦の延長の文脈は自然には考えにくい。もう一つは、もし、その爆破テロの手口から自爆テロであるなら、死を賭してもかまわない狂信が背景にあるはずだ……とすれば、そうした狂信を持つことができるのは、過激なイスラム教だろうか……という矛盾した思いである。そして、それがイスラム教だろうかという疑問が浮かんだところで私は思考を止めた。自分の心なかでイスラム教に対する差別意識のようなものがないだろうかと不安になったのである。 報道を追ってみた。恐らく日のメディアは被害者に邦人が含まれるか、外務省がどのような対応するかというこ

  • トロッコ問題の大喜利化と倫理のAI化と大喜利的提案: 極東ブログ

    衆知というものも痴呆症の傾向があるのか、毎年ということでもないが、一定の周期で、トロッコ問題が大喜利化する。これはどういうことなんだろうかと考え、その先にけっこう悲観的な未来を思い描き、うっくつした心理の解消に大喜利みたいなことを私も考えてみた。 まず、トロッコ問題とはという話を簡単に説明しておくと、これは、思考実験の一つである。思考実験というのは、現実には存在しないが、仮に存在するとしたらどうか考える、というものだ。そして、その大喜利化の基原則は、思考実験をしない、あるいは、思考実験をくさして笑いを誘うということだ。 トロッコ問題の基形はこうだ。暴走するトロッコの軌道上に5人の作業員がいて、そのまま放っておけば5人はトロッコに轢き殺される。が、あなたはその軌道上の分岐器を操作できる。そしてトロッコを他の軌道に切り替えられる。が、そちらの軌道上には、もう1人の作業員がいて、切り替えると

  • 「令和」の違和感: 極東ブログ

    「令和」の違和感について、2点ほどブログに書きこのこしておきたい。最初に言っておくと、この新元号をくさす意図はないので、ご安心をというか、ご期待に添えずというか。 なぜ、「令和」は「れいわ」で「りょうわ」じゃないのか まず第一点目に、なぜ、「令和」は「れいわ」で「りょうわ」じゃないのか? 自分も当初疑問に思ったし、ネットでも疑問の声があるわりに、解答がないので、解答を書いておこうと思った。では解答。 「令」の字に「りょう」という読みはありません というのは、ブログっぽい釣り風味なんで、正確に言い直そう。 「令」の字に常用漢字表では「りょう」という読みはありません そう。ないのだ。 日政治制度の基となった「大宝律令」は、「たいほうりつりょう」。これは、小学生でもそう学ぶと思うので、「令」は「りょう」という読みがあるのは知っている人が多い。 しかも、万葉集の時代、奈良時代の漢字は、呉音で

  • 新元号決まる: 極東ブログ

    毎年4月1日のブログには馬鹿話を書くのが恒例だった。今年も結局そんなことになるだろう。 さて、新元号が決まった。蓋が開いてみれば、なるほどという思いと、意外という思いがあいなかばというところだった。 予想していたかというと、予想できなかった。新元号名はローマ字でKで始まる音から選ばれるとして絞り込んでしまったのが、敗因というか、失敗だった。明治・大正・昭和・平成としてM・T・S・Hなので、濁音は嫌うだろうし、Nは紛らわしいので、KかRだろうと予想したが、Rは日語になじまないだろうと思ってしまった。 まったく予想できなかったかというと、蓋を開けてみればわかるが、出典に万葉集が来ることは予想可能だった。3月19日朝日新聞『新元号、初めて日の古典由来に? 漢籍とのダブル説も』のような誘導はあった。 今回の改元で政府は、複数の国書の専門家に内々の考案を依頼。政府が数案に絞り込む前の段階の20案

  • たぶんそれはこういうことでテロだった: 極東ブログ

    ブログを書かないでいることにあまり違和感もなく過ごしていて、まあ、自分にとってそういう時代になったのかなとも思う。そうした感慨はさておき、それでも心のどかで自分はただのブロガーであるべきだ、つまり、たかがブロガーであるべきだという奇妙な使命感のようなものがあり、それは、市民として複数の声が社会に必要なときには、声をあげようということだった。さて、その時だっただろうか、と思い悩んだのは、インターネットセキュリティー関連会社「スプラウト」の社員、岡顕一郎さん(41)の殺害事件を知った時だった。 彼はネットの世界ではHagexさんとして知られていたらしい。実は僕は彼のことを知らなかった。名前は聞いたことがあるし、話題の炎上案件とかでブログを読んだこともあるが、そのHagexさんという名前での認識はほとんどなかった。たぶん、彼もまた、「finalventさん」は知らなかっただろう。まったく関心が

  • [書評] 死生論(西部邁): 極東ブログ

    思想家と言うべきなのか評論家というべきなのか、考えてみると少し困惑するが、そうした形容が当てはまるだろう西部邁が1月21日に死去した。78歳であった。天寿に近いだろうとも思うが、その死が自死であったことは、少し重く心に残った。 西部邁の評論はいくつか読んだことがあるというか、文春系の評論誌などを読むと必ずといってその名前が添えられている。思うに、そうしたポプリを編む編集者はほいと西部の名を挙げ、呼ばれた西部もほいほいと書いていったのだろう。そうした文章はしかし、教養の裏付けと修辞をもってそれなりの散文の体をなしているので、まさにポプリを鮮やかにする。というくらいが、私の西部の印象で、その思想と呼べるものを受け取ったことはなかった。彼の主著も知らなければ、保守と言われるわりにその主義も理解できないし、なにより、その感覚が合わない人であった。対して、私が好む著作家はまずもって自分の感覚が合う。

  • 人生の一部である中公新書/finalvent(ファイナルベント)

    河合隼雄『無意識の構造』 野崎昭弘『詭弁論理学』 岡田英弘『倭国 東アジア世界の中で』 いかにも宣伝を買って出るようで気恥ずかしいのだが、読書が生きがいとも言える自分にとって、昨今の中公新書の「名著、刷新!」と銘打つ改版ほど嬉しいことはない。そのが、自分の人生の一部であったことが「きちんと」確認できるからだ。 『無意識の構造』の改版が2017年5月に刊行されたことを知ったときは思わず声を上げた。感激である。その年、60歳になった私は、16歳の自分をまざまざと思い出した。1974年が明けた1月、NHK教育テレビで河合隼雄の「無意識の構造」という市民大学講座が始まった。月曜日と水曜日の週二回、朝の6時半から7時。私は全24回を欠かさず見た。当時フロイトに興味を持っていた私は、ユング心理学にも関心を移していた。河合先生は、ただテレビ画面に講師がひとり向かうのでは味気ないということで、女子学生

    人生の一部である中公新書/finalvent(ファイナルベント)
  • [書評] キリスト教は役に立つか(来住英俊): 極東ブログ

    教会に通うこと絶えて久しいという年月を重ねていたが、昨年は何度か教会に通った。自分が通い慣れた教会以外へも行った。なかでもカトリックのカテドラル関口教会と聖イグナチオ教会が印象深い。正直に言えば、キリスト教的な関心よりも、パイプオルガンの音に魅せられたためである。が、結果としてごミサに参加したのも深く心に残った。 若いころ聖書やキリスト教を学んで、それなりにキリスト教には詳しいつもりでいたし、そのころは教会にも通い讃美歌などもいくつか自然に覚えたものだが、振り返ってみるとその讃美歌からして日基督教団的であり、関連する神学も基的にプロテスタント神学だった。海外でも教会を見て回ったりしたが、多くは正教の教会で、カトリックの教会も見学したりごミサを傍観したりもしたが、実際に参加すると随分と印象が違った。まず私はカトリックの信者ではないので、聖体を受けることはできない。でも、祝福を受けることは

    mshkh
    mshkh 2018/01/18
    素晴らしいエントリ.この本は読んでみたいと思いました.帯は不要ですが苦笑
  • [書評] 最強の女(鹿島茂): 極東ブログ

    先日、成人の日で、たまたまツイッターで「二回目成人式」という洒落を見かけた。その人は40歳になったというわけである。それを見て私が思ったのは、「ああ、俺は三回目」ということだった。二十歳のときに出席した成人式からもう三倍も生きたのかあと落胆した。 もの心がついたのは4歳ころ。そこから20歳までの時間はけっこう長く思えたものだが、それ以降、人生の相対性理論というか、人生意識時間の進行がどんどん急速になる。実感としては先日ぽっと40歳になって、ああ自分も40歳かと嘆いていたのだった、なあ。いや、そんな話がしたいのではない。むしろ逆だろうか。 自分語りになるが、cakesの「黒田三郎」(参照)でも書いたが、私は十代のころ詩を書いていた。14歳くらいから書き始めただろうか。ノートに普通に書いていた。1970年代前半。まあ、ちょっと文学的な青年なら誰も詩を書くような時代でもあり、私もそうした凡庸な一

  • [書評] 背教者の肖像(添谷育志): 極東ブログ

    副題「ローマ皇帝にローマ皇帝ユリアヌスをめぐる言説の探求」とあり、ユリアヌスが好きな私は、即座にこの『背教者の肖像(添谷育志)』(参照)にはどんな話があるだろうか、自分の知らなかった逸話や視点が得られるだろうか、と期待していたのだが、読んでみると、見事に、痛快に、爽快に、裏切られた。このの面白さをなんと言っていいのだろうか。 なんの予断もなく読み始めると、冒頭、「書は辻邦夫の小説『背教者ユリアヌス』において描かれたローマ皇帝フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(Flavius Claudius Julianus、在位三六一年一一月三日‐三六三年六月二六日)の言行をめぐる言説(テキスト)が、時代の変化にともないどのように変貌してきたのかを探求するものである」とある。わかる? まずわかるのは、ユリアヌスを扱うわけではない(なんと残念)。辻邦夫の該当小説を扱うわけでも評論するわけでもな

  • たぶんあなたは採用しない「3つの投票方法」(finalvent)|ポリタス 衆院選2017――それでも選ぶとしたら

    比例で「民主」とだけ書いたってかまわない 今回の衆院選挙について、政局とかイデオロギーとかではなく、なにか別の方向からの考え方はないだろうか、と考えていた。すごく嫌われる考え方だろうと初めから理解はしているが、思いついたことがある。シンプルな3つの投票原則である。 まず、投票について別の考え方はないだろうか、と考えるきっかけは、積極的棄権を呼びかけるニュースを見かけたことだった。それも納得できる考え方の1つではないだろうかと思ったのだ。 選挙といえば、「必ず投票に行きましょう」といかにも上から目線で言われるものだが、それが常に正しいというものでもない。例えば、12月1日にカタルーニャで実施された、独立を問う住民投票もそうだ。投票者の9割が独立を支持した。それだけ見れば熱狂的な独立支持だし、なんというか立憲民主党に寄せるネット民の期待を連想させるようでもある。だが、棄権は6割近かった。棄権に

    たぶんあなたは採用しない「3つの投票方法」(finalvent)|ポリタス 衆院選2017――それでも選ぶとしたら
  • [書評] 超一極集中社会アメリカの暴走 (小林由美): 極東ブログ

    昨日の書評カテゴリーの記事で、僕は日の産業や技術を少し悲観的に見ていると書き、その理由は別の書評カテゴリーの記事で書くつもりでいることを書いた。これがそれになる。『超一極集中社会アメリカの暴走』(参照)という3月に出たである。 表題は内容をよく表しているといっていい。現在の米国では、富が超一極集中しているという事実について、この分野にいる著者らしいデータを元にした議論が進められている。私たち日人の多くは、米国社会で富の一極集中が起こり、その暴走の派生として、サンダース候補ブームやトランプ政権支持のような異常とも言える事態が起きたことは知っている。しかし、その内実の仕組みについては、識者はある程度知っているが、日社会としてはあまり知られているとは言えないだろう。書は、その仕組みが広範囲にわたって示されている。 扱われる分野は多岐になり、そのぶん、個々の技術についての考察については、

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  • [書評] 東芝解体 電機メーカーが消える日(大西康之): 極東ブログ

    他の人にはどうでもいいことなのだが、私は関東逓信病院で生まれた。父がNTTの前身、電電公社員だったからである。そして、「逓信病院」という名称が残すように、電電公社となる以前、その病院は逓信省に所属していた。つまり、現在の民営化NTTもこの名前の病院と同じ道を辿り、国家機関から公社を経ていた。 父は晩年、年金の関連で、戦後のごちゃごちゃしていた時代について自身の記憶で整理し、当初、逓信省の公務員であったことを証明していた。そこに何か誇りのようなものがあったのか今となってはわからないが、彼はまた、NTTの民営化を嫌ってもいた。その前に辞めた。そうした電電マンの父が私に残してくれた言葉がある。「いいか、電電公社というのはダルマだ。手も足もないんだ。だから手と足を大切にしなければ、前に進めないんだ」と。 父は、自身は嫌っていたNTTではあっても息子の私がそこに就職することを望んでいたのではないかと

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  • [書評]帝国日本と朝鮮野球 憧憬とナショナリズムの隘路(小野容照): 極東ブログ

    私はこの夏60歳になる。老人への道を辿りつつある。そう思うことのひとつには、自著にも書いたが、父が大正15年生まれであることについて、そう遠い歴史と感じられないことがある。 正確な期日は聞きそびれた。私の父は10歳から20歳まで朝鮮で暮らした。祖父の従兄弟の誘いから植民地で大家族を営んでいた。だが、彼はそうした家族を好まず、早々に満州鉄道学校の寄宿舎に入った。朝鮮人と一緒に少年期と青春期を過ごした。野球もした。私は父からそうした感覚を受け継いでいる。だが私も老い、今の日人にはそうした歴史感覚は伝わらなくなった。そして歴史感覚が失われたとき、歴史の考察が始まるのだろうと、書を読みながら思った。 書は、その時代、植民地時代の朝鮮での野球を中心に、朝鮮における野球を歴史的に俯瞰的に扱ったである。と、いうと、いわば歴史筋ではなく、ディテールな、些末な歴史のようだが、実際に読まれてみれば

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  • 『オペラ座の怪人』ミュージカルと映画: 極東ブログ

    劇団四季の『オペラ座の怪人』の元になっている、アンドリュー・ロイド・ウェバー版の、ロンドンでの25周年記念公演を、メディアでだが、見たいものだと思ったまま日を過ごしていたので、この機会に見た。すでに各方面から絶賛されているが、なるほど、驚くほどよかった。いやあ、こんなすごいミュージカルって見たことないなというくらい、すごいものだった。どうすごいかというと、まあとにかくすごかったよ。 『オペラ座の怪人』については、アンドリュー・ロイド・ウェバー版をベースにした映画版のほうを先に見ていて、実はあまりピンと来ていなかった。今思うと『ラ・ラ・ランド』(これも先日見ました)のような映画のミュージカルという先入観から見ていたせいか、どうも歌と物語シーンのバランスが悪く、歌も映像も美しいわりに主題のわからない映画だなと思っていた。 が、ようするに、映画のほうは、すでにミュージカルを見た人のお楽しみという

    『オペラ座の怪人』ミュージカルと映画: 極東ブログ