千葉雅也の小説作品はそのすべてが同一性と差異をめぐる書くことの試行におもえる。いや、それをいうならむしろ小説というものじたいがそもそも同一性と差異の奇怪なキメラだというべきなのかもしれない。ひとりの書き手により「ただ書かれ」、リニアにつむがれているはずの文章が、気づけばいつのまにか「べつのもの」をふくみこんでいる。小説を書き、あるいは読む体験の神髄とはこの差異を同一性のうちに、あるいは差異のうちに同一性を書き/読みこんでいくことなのではないか。そういえば町屋良平が千葉の第一作『デッドライン』に寄せた名文中の名文「ズラされつづける身体性 千葉雅也『デッドライン』論」(のち文庫版の解説として収録)でも、まさにこのことが取り沙汰されていたようにおもう。 映画と同様にライブシステムの欠如は宿命を帯びたかたちで小説に配置されている。[…]小説を書くということはどれだけ即興性や偶発性に身を委ねていても