武士政権が千年近く続いてたのに 誰も天皇殺して自分がこの国の王になろうと しなかったのがずっと不思議。 信長はそれに近いことをやろうとしてたみたいだけど。 外国じゃ王様とか平気で殺されてるじゃん。
武士政権が千年近く続いてたのに 誰も天皇殺して自分がこの国の王になろうと しなかったのがずっと不思議。 信長はそれに近いことをやろうとしてたみたいだけど。 外国じゃ王様とか平気で殺されてるじゃん。
実力のある者をドシドシ天皇にすべきだ単語 ジツリョクノアルモノヲドシドシテンノウニスベキダ 1.2千文字の記事 19 0pt ほめる 掲示板へ 記事編集 概要英訳関連動画関連リンク関連項目掲示板「実力のある者をドシドシ天皇にすべきだ」とは、昭和15年(1940年)に警視庁に届いた不敬不穏投書の一節。 概要 小説家・作家・ライター「髙井ホアン」が戦前の不敬発言を収集してまとめた2019年の書籍『戦前不敬発言大全』に掲載されている、とある投書内の一節。出典は「特高月報 昭和15年3月号」に掲載されたものらしい。 以下は『戦前不敬発言大全』の該当ページからの引用。 昭和15年3月 警視庁 不敬不穏投書 三月八日警視総監宛「前略 甲乙の殿様が戦争して相互の家来は二千五百名戦死し領民は苦しみを受けた、戦争が終って見たらその戦争は甲乙の殿様のめかけの取合だった、この支那事変も何が何だか分ったものでない
(続き) といった問屋関係の逸話が当時バンバン登場した。メーカーも対抗すべく(?)ダンピング出荷、返品受付などで一本でも多くソフトを売りさばこうと必死だった。このあたり、問屋も小売店もメーカーも、市場の異常さに気が付かずもがいていた感じが否めない。初心会と二次問屋は、問屋の本分である「日本全国に適正量の在庫のゲームソフトを流通させる」という機能を忘れ、ただただゲームソフトを動かすことで得る利益をあげることに無我夢中だった。 ここで注意をしておきたいのが、「任天堂や初心会が、一方的にサードパーティや小売店から利益を吸い上げている」という既存の論調は近視眼的だ、ということだ。スーパーファミコン市場に参入したサードパーティはおよそ200社。このうち途中で撤退を決めたのは10数社で、しかもこれら撤退したメーカーの多数は異業種メーカーであり、本業での業績が低下したためだったり、バブル期の不動産に手を
※この旧版になります。完全版は無料でnoteで公開中ですので、是非そちらの方をご覧下さい。 https://note.com/syosin_kai/n/nb97f2a0a193a ちょっとゲームの歴史をかじったことがある人なら聞いたことがあるだろう言葉『初心会』。 とにかくこの言葉へのイメージは最悪だ。「真っ黒組織」「ゲームヤクザ」「歴史の闇」「悪の秘密結社」etcetc。 そんな初心会だが、はたしてどれだけの人が正確に初心会とはなんなのか、どのような悪どいことをしてきたのか、そして最後はどういうふうに消えていったかを語ることができるだろうか? おそらく、ほとんどいないのではないだろうか。 この初心会について、私が調べたことをゲームの流通の歴史を絡めてまとめて書き出すぞ。これで君も初心会マスターだ! ちょっと長いけど勘弁な! まずは初心会そのものについての解説だ。 もともとの任天堂は花札屋
anond:20201128171308 北海道に更別村という自治体がある。 で、「元更別」という地名があるんだが、実は現在は「元更別」は更別村にはない。 更別村の北側にある中札内村という自治体に「元更別」はある。 開拓の昔、現在の中札内と更別は同じ幸震村(大正時代には大正村)という自治体に属していた。 大正村にあった市街地から次第に開拓が進んでいったわけだが、当時は中札内と更別には村の境界はもちろんなかった。 大正時代、第一次大戦の好景気に湧くころ、島根県からの移民団が更別村の語源になったサッチャルベツ川水系で開拓を始めた。 昭和4年にこの地域に鉄道ができると、現在の更別市街が発展し新市街が誕生した。 そして、もともと開拓団が入植して市街地があった旧市街が「元更別」と呼ばれ、次第に「元更別」市街は寂れていった。 昭和22年に大正村から中札内と更別が分村した時、「元更別」は中札内に所属する
コロナで人文学がヤバい。 といっても哲学とかそういうのじゃなく、歴史学とかがヤバい。 もうちょっと言うと、日本史とか日本文学とかはぜんぜん大丈夫なんだが、西洋史とか東洋史とか、要するに外国のことを調べる学問がヤバい。 今はまだ大丈夫だけど、じきに破綻する。 なぜかといえば非常に単純な話で、研究を進める上で必要な資料にアクセスできないからだ。 歴史学の根本は、オリジナルな資料(=一次史料)にあたることにある。一次史料には色々な形態があるわけだが、歴史上の出来事の背景とかを実証的に調べようと思ったら、公文書館にある史料を使うことが不可欠だ。 そして公文書館というのは行政機関なので、日本の国立公文書館や外務省外交史料館が東京にあるように、あるいはイギリスの国立公文書館がキューにありアメリカの国立公文書記録管理局がワシントンDCにあるように、当然ながらそれを管轄している国や地方自治体に設置されてい
友人と旅行すると,興味ない人には日本の伝統建築って全部同じに見えてるんだろうなーって思うことが多い.つまり,「見えて」いても「見えてない」んだな.解像度が低い.だから,その深み凄みを紹介するために10の建築を選んでみた. この増田で,日本建築のどこをみればいいかが少しでも理解してもらえればいいな,と思っている.あくまで日本建築を楽しむための「入り口」として,もしくは旅行の楽しみを一つ増やすためのお手軽ツール(やや自嘲をこめてるよ,これ)として,読んでくれると嬉しい. ・法隆寺中門~回廊(奈良県生駒郡,飛鳥時代) 法隆寺は誰もが行ったことがあるだろう.しかし,一般人は教科書に載っている五重塔と金堂があるなーって思って,終わりなんじゃないだろうか.違うのよ,本当に.中門なんだ.中門から回廊にかけての柱.伊東忠太がエンタシスと呼んだ,胴張りの柱.この列柱をみて,何も感じない人間は,おそらく建築に
前書き真田十勇士はまだしも知られてるけど その元ネタだったらしい「尼子十勇士」って メンバーの名前すら知られてないよな どんな話だったんだろうと思ってググってみたところ 立川文庫の『武士道精華 山中鹿之助』という本が 国立国会図書館デジタルコレクションで読めたので その内容を簡単にまとめてみることにした。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/891033 Wikipediaによると 十勇士の人物像について始めて具体的に記述された史料は、文化8年(1811年) - 文政4年(1821年)にかけて刊行された『絵本更科草紙』である。 この書は、幸盛の母である更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語である。書と共にこの話は全国的に広まったようであり、この後には、十勇士を題材にした浮世絵の描画や歌舞伎の上演、また十勇士が描かれた絵馬が神社に奉納されるなど、世間一
すでにブコメや言及で書いてあるけど、人に貸す場合を想定している。 で、次第にリビングに電話の居場所が移っていくわけだが、法律の制定や条約の締結とかと違って、各家庭の事情が絡んで「いつ」は言いにくい。 ただ言えることは各家庭に電話が普及するのと表裏一体の動きだということだ。 ところが、電話の普及ってのも技術革新と絡んで複雑な経過をたどる。 都市部の「即時化」電話の普及は、ただ電話線が家に引かれることを想定するだけではダメという話。 「交換士あり」から「即時電話」(これには二つの意味合いがあって複雑なんだが)への変化を見なくてはならない。 私は北海道の事例しか調べたことがないのでそれを例にすると、市街地では昭和20年代後半から30年代丸々をかけて、まず「市内即時化」がなされていく。 これはある一定範囲の市内通話だったら交換士なしで自動で繋がるシステム。それまではトトロみたいに電話をつなぐ中の人
「文系の学問において資料の実在を証明するものとは何か」(anond:20190510230425)についたブコメに応答&補足説明します。 参考文献と注は違うよ!Wikipediaですら参考文献を求められるので、参考文献(ここで言っている注)のない本はある意味でWikipedia以下の信頼性と考えられても仕方がないことを多くの人に知らせるべきだと思う。 参考文献と注は違います! ぜんぜん別です! 参考にした本を並べてあるのが参考文献(厳密にはこの場合「参考文献一覧」)で、本文中の記述の出典を直接明らかにするのが注です! 参考文献と注については、以下の4つの組み合わせが考えられます。 a)参考文献も注も揃っているb)参考文献はあるが、注はないc)参考文献はないが、注はあるd)参考文献も注もないこのうち、研究書として許されるのはaとcだけです。ここで問題にしているのはbとdで、多くの学術的な新書
東京新聞:関東大震災の朝鮮人虐殺 小池都知事が追悼文断る:社会(TOKYO Web) http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201708/CK2017082402000130.html 追悼式が行われる横網町公園内には、七三年に民間団体が建立した朝鮮人犠牲者追悼碑があり、現在は都が所有している。 そこには「あやまった策動と流言蜚語(ひご)のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われた」と刻まれている。 1.団体への古賀議員のツッコミと要求追悼碑を巡っては、今年三月の都議会一般質問で、古賀俊昭議員(自民)が、 碑文にある六千余名という数を「根拠が希薄」とした上で、 追悼式の案内状にも「六千余名、虐殺の文言がある」と指摘。 「知事が歴史をゆがめる行為に加担することになりかねず、追悼の辞の発信を再考すべきだ」と求めた。 要するに、 この
https://anond.hatelabo.jp/20170901172529 もしこの古賀議員の指摘や前提自体に瑕疵があれば、 私よりずっとこのような事件に詳しい2氏ならば「6000人にはこんなにしっかりとした根拠がありますー! バーカバーカ!」と 嬉々としてソースを突きつけ本筋の反論をするはず。 が、それをせずに迂回した。 これはたしかにダセエ。ダセエのでブコメで端的に指摘しておいた(b:id:ss-vt)。で、ここでも書いてみる。 すでにBuzzfeedでも報じられているように、古賀議員は都議会において、大正9年の国勢調査をひいて関東地方の朝鮮人人口の少なさを指摘している。 が、この当時朝鮮人の内地への渡航は急増していたのである。大正9年の国勢調査では、内地の朝鮮人の総人口は40,755人。いっぽう同年12月末現在の内務省警保局による調査統計では30,189人となっているが(多くの
「山川出版の日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない」 http://anond.hatelabo.jp/20170604204919 これの筆者です。 id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田(国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。 なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。 山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。 618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジアに大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。 東アジア諸国も唐と通交す
すごいローカルネタで申し訳ないんだけど。 自由研究で自分の住んでいる徳島県の珍地名リストを作っている。 全然公開するあてもなく作ってたんだけど、 増田ぐらいがちょうどいいかなと思ったので大公開する。 全然研究じゃなくてただのリストなので、 誰か私より暇な人がいたらぜひ由来まで追加調査してほしい。健闘を祈る。 徳島 地名メモ 由来がありそう系 鬼太郎 〒774-0046 徳島県阿南市長生町鬼太郎 髭作り 〒774-0015 徳島県阿南市才見町髭作り うその口 〒774-0046 徳島県阿南市長生町うその口 天皇 〒779-4100 徳島県美馬郡つるぎ町半田天皇 「ネ」と読むのかな系 ソ子 〒771-6403 徳島県那賀郡那賀町木頭和無田ソ子 ナカウ子 〒771-6404 徳島県那賀郡那賀町木頭南宇ナカウ子 「志」だけ漢字系 かま志やう 〒779-1401 徳島県阿南市内原町かま志やう とふや
いやそれもちょっと違う。 アーサー王はローマがブリテン島から撤退した後の混迷の時代の概念。 純粋なケルトでなく、先住ブリトン人(厳密に言えばブリトン人すら先住でなく先住者と外来者の融合だが)と征服者ローマの持ち込んだものが融合した、ローマン・ブリトンの文化の守護者的位置。 年代順に大雑把に書くと年代来た民族系統新石器時代先住民(ストーンヘンジ作った)民族系統不詳青銅器時代ビーカー人の渡来多分ケルト鉄器時代ベルガエ族等の渡来大陸ケルト紀元43年ローマによる征服ラテン紀元407年(ローマ撤退)-- 暗黒時代アーサー王の設定年代「ブリテン」中世初期アングロサクソンジュートの侵攻ゲルマン10世紀末デーン人の侵攻ゲルマン1066年ノルマン・コンクエストゲルマン それぞれの時代でやってきた民族は先住民と混ざり合って混合した文化が生まれる、の繰り返し。 なのでアーサー王の言うブリテンとは控えめに見ても、
鎌倉時代初期、東国において政権を確立した源頼朝によって設けられた守護職は、軍事・警察的な権限を持つのみであり、地域統治の権限は依然として国司にあった。 後年、鎌倉幕府が滅び室町幕府が成立すると、室町幕府はその守護制度を踏襲する。 しかし守護は、次第に国司の権限をも包摂し、独自の領国支配を固めていくようになる。このようにして広域領主化した守護を「守護大名」といい、守護大名をトップとした地域支配体制を大名領国制と呼ぶ。 広域領主として実権を握った守護に対し、足利将軍家の影響力は薄れ、室町幕府は守護大名による連合政権の様相を呈していく。 さらに肥大化した守護大名たちは互いに自己の利益を追求して相争い、応仁の乱に代表されるような戦乱を巻き起こすようになった。 これを「守護がでかい問題」と呼ぶ。 そして、守護がでかい問題に対処し切れなかった室町幕府は衰退し、日本は戦国時代に突入していったのである。
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