関西の地で堂々と振る舞えるかどうかは、「新快速」という概念を理解しているか否かにかかっているといっていい。 【画像】 大阪~京都間で新快速が停まるほぼ唯一の駅…JR“ナゾの停車駅”「高槻」を写真で一気に見る 学生時代に大阪で友人と会い、「このあとは?」と聞かれて「JRで」と答えたら、「ああ、新快速ね」などと言われて面食らった。新快速というのはいわば単なる列車種別のひとつに過ぎず、たとえば東京だったら「中央特快」みたいなものだ。なのに、京阪神間の移動においては阪急電車などと同じような存在として人口に膾炙している。「新快速」は、なかなかバツグンの存在感を誇っているのだ。 それもムリもない話で、新快速はその名に違わずとにかく速い。例えば大阪駅から京都駅までの間に停まる駅はふたつだけ。所要時間はたったの30分だ。 たったの、というなら比較対象が必要になるが、ライバルの阪急電車の特急は大阪梅田~京都
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、細川家が九州の有力大名となる礎を築いた細川忠興が記した書物の裏に石田三成や古田織部の自筆の書状があることが東京大学史料編纂所などの調査でわかりました。専門家は豊臣秀吉に仕えた武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だとしています。 細川忠興は戦国時代から江戸時代初期の武将で、豊臣秀吉などに仕え、細川家が九州の有力大名になる礎を築いたほか、茶道などにも通じた文化人としても知られています。 細川家の史料を保管している東京 文京区にある永青文庫と東京大学史料編纂所は共同で巻物になっていた忠興が記した書物を調べたところ、忠興が受け取った書状などの裏側を再利用していることがわかりました。 その中には、1586年ごろ、秀吉に一緒に仕えていた石田三成や古田織部が自筆で忠興に宛てた書状が含まれていました。 石田三成の書状では、秀吉から受け取った金の使いみちについて忠興
牛肉食がタブーだった時代 日本における食のタブーで有名なのは「肉食の禁忌」だ。幕末から明治にかけて、日本を訪れた外国人たちの多くが、日本人が肉を食べず、自分たちが食べるのを見るのも嫌がったと証言している。 だが、戦国時代の食を調べていくと、どうも違う実態が見えてくるのだ。当時の記録によると、戦国時代の日本人は、猪や鹿はおろか、犬、猫に至るまで食べていたのだ。それも卑しい庶民がではない。武士や貴族、果ては僧侶まで獣肉を口にしていた。ただ、食肉として牛を食べることはめったになかった。それはいったいなぜなのか? この問題に対する見解を、超有名な戦国武将が述べている。 「牛馬は人間に仕え有益なる動物であるに、何故に之を食ふ如き道理に背いたことをなすか」(『イエズス会日本年報』村上直次郎訳) 天正15年(1587)、豊臣秀吉が宣教師クエリヨに対して伝えた言葉である。同年6月19日に発布されたキリスト
久々のブログの更新です。 今年も、文学フリマ大阪は開催します。 今年の表紙を飾った「顔」は高山右近です。 戦国時代から江戸初期にいたる武将で、キリシタン大名として有名です。 洗礼名はジュスト、正義の人という意味だそうです。また、茶人として千利休の高弟であったそうです。 今年のキャッチコピーは「壁をぶち破れ」なのですが、信仰に生き、武将としても優れ、また文化人でもある彼の逞しさでもって、文学フリマ開催に向けて、高山右近は心強いシンボルとなるものだと思います。 そして、私はそんな右近パワーを得るべく、阪急電車に乗って高槻市を目指しました。 梅田駅に着くまでにすでに体力の半分以上は失われていました。 世は酷暑も酷暑。人間が生存できる暑さではありません。 山の方は、夕方ごろになるとさすがに涼しくなって驚いたことがあるのですが、都市は夕方こそその暑さを増す恐ろしさ。 太陽の光が日傘を貫くように差して
バチカン(ローマ法王庁)から「福者(ふくしゃ)」に認定されたキリシタン大名の高山右近(1552~1615)が城主を務めた高槻城(大阪府高槻市)で、織田信長も手を焼いたとされる右近の築いた堀や、江戸幕府が大規模な改修工事をした痕跡が新たに見つかった。高槻市教育委員会が1日発表した。 高槻城は1573~85年、右近が城主を務めた。その後、豊臣家を経て徳川家の直轄地となり、大坂夏の陣の2年後の1617年、西国大名への備えとして幕府が全面改修。明治の廃城後に堀は埋められた。現在は公園になっている。貯水施設を建設するため、市教委は昨年11月から発掘していた。 堀は幅約9メートルで、江戸時代の二の丸と三の丸の間の約75メートルにわたる内堀の下にあった。2010年には今回の調査地の南でも幅約19メートルの戦国時代の堀が見つかった。右近は1578年、信長に謀反を起こした主君の荒木村重に従い、一時織田軍に高
2月7日、大阪城ホールで行われた殉教者・ユスト高山右近の列福式に、カトリック宇部教会からの巡礼団26名と一緒に参加してきました。列福式の司式は、ローマ教皇代理のアンジェロ・アマート枢機卿。アジア各国から、また日本中から集まった司教、司祭合わせて300人の共同司式による荘厳な式となりました。当日、会場に集まった人々の数は、1万人を超えたそうです。 没後402年を経て、これだけたくさんの人々が日本中から、また世界中から1人の人物を顕彰するために集まったという事実に驚いたというのが、正直な感想です。右近の生涯が、それほどまでに真実で、輝いていたということでしょう。その光は、数百年を経た今も輝きを失わず、人々を引き寄せているのです。 右近が輝かせた光、それは福音の光であり、イエス・キリストによってもたらされた希望の光に他なりません。神様は、高山右近という1人の侍の生涯を通して、戦国乱世の闇の中に愛
【ローマ福島良典】江戸幕府のキリスト教禁教令で国外に追放され、殉教したキリシタン大名の高山右近(1552〜1615年)がカトリック教会の崇敬対象である「福者」に認定されることが正式に決まった。バチカン(ローマ法王庁)は22日、フランシスコ・ローマ法王が右近の殉教認定を承認したと発表した。 高山右近は戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた。現在の大阪府豊能町がある摂津国高山の生まれ。12歳の時に洗礼を受け、21歳で高槻城主となった。「バテレン追放令」を出した豊臣秀吉…
【ベルリン時事】バチカン(ローマ法王庁)は22日、江戸幕府のキリスト教の禁教令で国外追放されたキリシタン大名、高山右近(1552~1615年)を最高の崇敬対象となる「聖人」に次ぐ「福者」に認定したと発表した。 フランシスコ・ローマ法王が21日に承認した。 福者に加える儀式「列福式」は日本で行われる見通し。右近は現在の大阪府で生まれ、父の影響で12歳で洗礼を受けた。豊臣秀吉のバテレン追放令で領地や地位を失っても信仰を守り、1614年にマニラに追放され、翌年病死した。 昨年は没後400年の節目で、日本のカトリック教会が右近を殉教者として福者に認定するようバチカンに働き掛けていた。日本カトリック司教協議会は声明を出し、右近は物質的な豊かさや権力ではなく、信仰が人を幸せにすると確信していたと指摘。「右近の生き方は現代に生きる人々を照らす光になる」と訴えた。 福者になるには殉教か、難病の治癒
織田信長や豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名で、キリスト教を禁教とした江戸幕府から国外追放され、フィリピン・マニラで病死した高山右近(1552~1615年)が、ローマ法王庁から、カトリック教徒の崇敬対象「福者(ふくしゃ)」として、早ければ年内にも認定される見通しになった。正式決定を前に、バチカンからイエズス会司祭が訪日し、その足跡をたどるなど、没後400年の節目の年に右近が再び世界から注目を集め始めている。 12歳で洗礼を受けた右近は、生涯を通じてキリスト教に強く帰依していた武将として知られる。高槻城主時代の領民のうち約7割がキリスト教徒だったとされるほか、秀吉の側近、黒田官兵衛(孝高)などに入信を勧めるなど、布教活動にも熱心だった。 秀吉からの棄教命令を拒否して大名としての地位や領地を失い、徳川家康によるキリシタン国外追放令により母国を追われたが、信仰を捨てなかった。 こうした信仰への真摯(
最新のお知らせ 出版部からのお知らせ~年末年始の営業について~[2023/12/26] 東京大司教区に補佐司教任命 ※叙階式ダイジェスト動画 追加[2023/12/20] «Dies Academicus 2023» 開催のご案内 ― 福岡カトリック神学院[2023/12/12] 第二バチカン公会議『典礼憲章』発布60周年記念講演会~日本カトリック典礼委員会~[2023/12/09] 東京カトリック神学院 ― 2023年度ザビエル祭 動画配信につきまして[2023/12/03] 2024年キリスト教一致祈祷週間(1月18日~25日)[2023/11/30] 会報2023年12月号[2023/11/29] お知らせ一覧 最新の文書 2024(令和6)年神道の皆さまへの新年のごあいさつ[2023/12/27] 教皇フランシスコ、2023年降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)(2023.12.2
来年、没後400年を迎える戦国末期のキリシタン大名、高山右近(1552~1615年)が、カトリックで最高の崇拝対象「聖人」に次ぐ「福者」の称号を受けられるよう機運を高めようと29日、香川県の小豆島で足跡をたどるビデオ撮影が行われた。 撮影に訪れたのは、右近の列福(福者として認定)を進める「カトリック中央協議会」(東京都江東区)から依頼を受けた業者。来年2月3日、神戸市内で開かれる列福に向けての集会で、小豆島に伝わる右近とオルガンチノ神父の潜伏先や、隠れキリシタンに関連する遺物などを紹介するのが目的だ。 一行は、多くの巡礼者が訪れている土庄町内のカトリック小豆島教会でステンドグラスや十字剣を手にした高山右近像を撮影。また、小豆島町では潜伏の地とされる中山地区や大十字架がある西村地区でも撮影した。今後は、南蛮寺を建立した金沢市やマニラへ向けて出航した長崎市なども訪ねるという。 右近は天正15(
千提寺西遺跡の2基のキリシタン墓。右の墓穴に人骨があった=大阪府茨木市千提寺千提寺西遺跡周辺の地図 「隠れキリシタンの里」として知られる大阪府茨木市千提寺(せんだいじ)の千提寺西遺跡で、16〜17世紀のキリシタン墓を確認したと19日、府文化財センターが発表した。長方形の墓穴がキリシタン墓の特徴で、発掘例は全国で6番目だが、キリシタン禁教令の後も壊されず、中・近世の仏教墓と混在している点は類例がないという。 現場は新名神高速道路の建設予定地。千提寺地区はキリシタン大名・高山右近の旧領地で、重要文化財の聖ザビエル像(神戸市立博物館蔵)など、キリシタン関係の資料が民家から多数発見されている。 同地区の丘陵上で発掘された墓穴群のうち、2基が長方形で、遺体は体を伸ばして横たえられ、埋葬されたとみられる。墓穴の上には石を長方形に並べた石組みもあった。大阪府高槻市の高槻城(16世紀後半)や東京都の
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