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日本史に関するkash06のブックマーク (223)

  • “信長を気にかける貴重な資料” 義父 斎藤道三の書状を発見 | NHK

    それによりますと、この書状は今の岐阜県の美濃地方を治めていた戦国武将の斎藤道三が近隣の地域の領主に宛てたもので、その内容や署名などから、1552年ごろに書かれたと見られるということです。 道三は、織田信長に自分の娘・濃姫を嫁がせています。 書状では、「信長とあなたは大変親しいということでうれしく思う」と記したうえで、信長について「若造で至らない点もあるがご容赦いただき末永くつきあってほしい」と伝えています。 信長の人生を側近がまとめた文献「信長公記(しんちょうこうき)」ではこの書状が書かれた時期に道三は若き信長と初めて面会し、その奇抜な身なりや言動で周囲から「うつけ者」と呼ばれていた信長の才能を見抜いたとされています。 村井准教授は「道三の書状はあまり残っておらず信長に言及していることも珍しい。書状には、道三が信長のことを大事に思い気にかけていることがはっきりと記されていて『信長公記』の記

    “信長を気にかける貴重な資料” 義父 斎藤道三の書状を発見 | NHK
  • 【速報】奈良・平城宮跡で木簡1000点発見  1300年前の聖武天皇即位の儀式「大嘗祭」の記録も|YTV NEWS NNN

    奈良市にある平城京の跡地から、ちょうど1300年前の聖武天皇即位の儀式を記した記録・木簡が発見されました。 奈良市の平城宮跡の穴から見つかったのは、奈良時代に書かれた木簡、約1000点です。奈良文化財研究所が、去年10月から穴の発掘を始め、木簡を発見。土を洗い流していたところ、「大嘗分」と書かれた木簡が複数見つかりました。 「大嘗祭」とは、天皇の皇位継承にまつわる儀式で、いまの天皇陛下ご即位の際も執り行われました。国や民の安寧や農作物が豊かに実るよう祈る儀式ですが「秘儀」として、その全貌は皇室の外には明かされていません。 今回見つかった木簡は、今からちょうど1300年前、724年に聖武天皇が即位した際の「大嘗祭」に関する記録です。木簡には、聖武天皇の「大嘗祭」の為に運ばれた品々、「炭」や「魚」などの文字が確認できました。 今回の発見は、1300年前も今と同じく「大嘗祭」が執り行われていた考

    【速報】奈良・平城宮跡で木簡1000点発見  1300年前の聖武天皇即位の儀式「大嘗祭」の記録も|YTV NEWS NNN
  • 別所長治、信長方から離反の理由は… 三木合戦の新史料発見 「上司にアピール」秀吉の弁明手紙も 姫路で展示へ(神戸新聞NEXT) - Yahoo!ニュース

    別所長治、信長方から離反の理由は… 三木合戦の新史料発見 「上司にアピール」秀吉の弁明手紙も 姫路で展示へ(神戸新聞NEXT) - Yahoo!ニュース
    kash06
    kash06 2024/02/09
    “「別所離反という大失態の後、自分の功績が信長の耳に入りやすくする工作だろう。一人一人に送ったのだろうが、側近らは面倒なので連名で返したのでは」”
  • 工場建設きっかけ、地中から埋蔵銭10万枚超 戦乱で急きょ埋めたか - ライブドアニュース

    前橋市総社町の「総社村東03遺跡」の発掘調査で、紀元前の中国初の統一通貨「半両銭」や、7世紀から13世紀にかけて造られた渡来銭など10万枚を超す大量の埋蔵銭が見つかった。 藁紐(わらひも)で約100枚ごとにまとめた「緡(さし)」の状態だった。藁の袋に入れられており、中世期の戦乱などで急きょ地中に埋められたと見られるという。 事業者の工場建設を機に発掘調査が行われた。市によると、埋蔵されていた範囲は、縦約60センチ、横1メートルで、約100枚単位の緡が1060見つかった。10緡にまとめた1貫文(約1千枚分)にして納められた痕跡も確認された。稲わらのむしろが残っており、この中に入った状態で埋められたとみている。 遺跡の所在地は、総社町総社大字大屋敷で、字名から、大きな屋敷があった可能性も考えられるという。 埋蔵銭のうち334枚を調査したところ、中国の前漢時代から、南宋時代までの通貨44種類が確

    工場建設きっかけ、地中から埋蔵銭10万枚超 戦乱で急きょ埋めたか - ライブドアニュース
    kash06
    kash06 2023/11/03
    “この遺跡のあるエリアは、古墳時代から律令期にかけて上野国の中心地域だったと見られる。” 大字大屋敷というのも含めて、興味深い。銭による経済が、ここまで大きな規模で波及していた。
  • https://www.asahi.com/and/article/20230807/423996958/

    kash06
    kash06 2023/08/26
    「登城口から約550段の石段を登っていく。思わず踵(きびす)を返しそうになる、見るからにハードな石段だ」 すごい急角度……!! この高低差で戦をしたのか……あらゆる階段・斜面が急で、写真でも伝わる。
  • https://www.asahi.com/and/article/20230619/423846323/

    kash06
    kash06 2023/07/17
    私が勝手に関東のマチュピチュと読んでいる、太田金山城だ! 関東で一番好きな城かもしれない……。
  • https://www.asahi.com/and/article/20230515/423776786/

    kash06
    kash06 2023/06/03
    複雑な見た目、道を間違えれば主郭に辿り着けず、当然ながら上から見下ろす敵が自分たちの事を殺そうと狙っている。実に攻撃力の高い、いや、恐ろしい防御空間だ。
  • 「三方ヶ原の戦いは偶発的に起こった」という説 - 明晰夢工房

    徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚構をはぎ取る (朝日新書) 作者:黒田 基樹 朝日新聞出版 Amazon 三方ヶ原合戦の戦いについて、実態を伝える当時の史料はない。このため従来は『三河物語』の内容に基づき、家康が自領を通過する武田軍を見過ごせず、みずから討って出ると宣言したと考えられてきた。だが黒田基樹氏は『徳川家康の最新研究』において、「当代記」の記述に注目している。この史料における三方ヶ原合戦の描写は以下のようなものだ。 信玄は二俣城の普請を終了させ、在城衆を置くと、二十二日に出陣し、井伊谷領都田(浜松市)を通過して三方ヶ原に進軍した。そこへ徳川軍の物見勢10騎・20騎が攻撃し、武田軍と交戦状態になったので、家康はこれを救援するため浜松城を出陣、思いがけずに武田軍と合戦になってしまった。徳川軍は敗北し、千人余が戦死した。武田軍は浜松近辺を放火したが、城下には攻め込まなかっ

    「三方ヶ原の戦いは偶発的に起こった」という説 - 明晰夢工房
  • https://www.asahi.com/and/article/20230320/423633268/

    kash06
    kash06 2023/04/24
    単独での領国支配のみならず、秀吉による全国支配から唐入りまでを見通した戦略拠点としての位置づけ。城の作りだけでなく、立地そのものも面白い。
  • 謎多い「不破関」半世紀ぶり調査 壬申の乱後に設置、中枢の建造物を今夏発掘 | 岐阜新聞Web

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    謎多い「不破関」半世紀ぶり調査 壬申の乱後に設置、中枢の建造物を今夏発掘 | 岐阜新聞Web
  • 伝「護良親王の首級」公開 鎌倉幕府討伐で活躍、後醍醐天皇の皇子 | 毎日新聞

    年に1度公開される護良親王と伝わる首級=山梨県都留市の石船神社で2023年1月15日午前10時35分、小田切敏雄撮影 山梨県都留市朝日馬場の石船(いしふね)神社で、鎌倉幕府が滅亡した建武新政の立役者である後醍醐天皇の皇子、護良(もりよし)親王(1308~1335年)のものと伝わる市指定有形文化財「石船神社の復顔首級」が公開された。年に1度、神社を運営する「宮世話」の交代に伴い、ご神体としてあがめている首級を確認する神事。15日にあった神社の初祭りで、神職が納めている殿から首級を取り出し、新旧の宮世話や自治会関係者が首級の保存状況などを確認した。 護良親王は仏門に入っていたが、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐のために企てた「元弘の乱」で僧兵を率いて活躍、その間に還俗(げんぞく)して護良と名乗った。建武新政府では征夷大将軍、兵部卿となったが、足利氏と反目して鎌倉に幽閉され、殺害された。

    伝「護良親王の首級」公開 鎌倉幕府討伐で活躍、後醍醐天皇の皇子 | 毎日新聞
  • https://www.asahi.com/and/article/20221226/423428770/

    kash06
    kash06 2023/01/09
    石垣の技術力と、攻撃的な縄張りの構想力
  • 伊賀と甲賀の集大成の忍術書、真田家から驚きの発見 兵法を学んだ?:朝日新聞デジタル

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    伊賀と甲賀の集大成の忍術書、真田家から驚きの発見 兵法を学んだ?:朝日新聞デジタル
    kash06
    kash06 2022/12/18
    表立った合戦がない時代だと、ここに行き着くのだろうか。
  • https://www.asahi.com/and/article/20221212/423388579/

  • ローマ教皇と交流 昭和天皇の親書やキリシタンの書簡見つかる | NHK

    ローマ教皇庁があるバチカンと日との交流に関する資料を調査している専門家のグループが都内でシンポジウムを開き、ローマ教皇と昭和天皇が交わした親書が新たに確認されたことなどを報告しました。 国内のキリスト教史の研究者などのグループは、バチカンと日との交流に関する資料の調査や研究を3年前から行っていて、12日、上智大学で、これまでの研究成果を報告しました。 国際政治史が専門の日大学の松佐保教授は、1952年にローマ教皇のピウス12世と昭和天皇が交わした複数の親書がバチカンで新たに確認されたことを発表しました。 このうち、ピウス12世が昭和天皇に宛てた親書では、この年の4月にサンフランシスコ平和条約が発効して日が主権を回復したことなどを祝うことばが記されています。 これに対する昭和天皇の親書には「祝意に対し、わが皇室並びに日国民の深厚な感謝の意を表します」などと記されています。 松

    ローマ教皇と交流 昭和天皇の親書やキリシタンの書簡見つかる | NHK
  • 鎌倉時代の「元寇」で日本に襲来 沈没船のいかり引き揚げ 長崎 | NHK

    700年以上前、鎌倉時代の「元寇」で日に襲来し、長崎県の松浦市沖で沈没した船のいかりを引き揚げる作業が行われました。 鎌倉時代に中国大陸で支配地域を広げていた元が2度にわたって日に攻め込んできた「元寇」では当時「神風」とも言われる暴風雨で沈んだとされる元の船が長崎県松浦市の離島、鷹島の沖合の海底で発見され、周辺が国指定の海底遺跡になっています。 1日はこの海底遺跡のすぐそばで確認されていたいかりの一部を引き揚げる作業が行われました。 松浦市の担当者や研究者などが見守る中、水深20メートルの海底から長さ1メートル70センチ余りの木材部分が引き揚げられました。 表面は木目がはっきりしていて石を通していたとみられる穴も確認されました。 松浦市などはいかりに続き、船体の引き揚げも目指すことにしています。 引き揚げ作業を主導した國學院大学の池田榮史教授は「海面から出して折れたり欠けたりしないか

    鎌倉時代の「元寇」で日本に襲来 沈没船のいかり引き揚げ 長崎 | NHK
  • 織田・豊臣方による改変も! 街道を取り込んだ越中の名城・森寺城 | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]

    【動画】森寺城を訪ねて 〈松根城と切山城(1)〉〈松根城と切山城(2)〉では、佐々成政と前田利家が街道を戦時封鎖した松根城と切山城を紹介した。両者の抗争において、加賀(石川県南部)・越中(富山県)国境の緊迫した情勢下での防御策だったようだ。能登(石川県北部)、越中国境の城では今のところ同時期の類似例はない。 しかし、街道は軍勢の移動経路となるため重視され、城内に取り込む例は珍しくない。そこで、街道を取り込んだ越中の城として真っ先に思い浮かぶ、森寺城を紹介したい。越中三大山城(守山城・松倉城・増山城)を凌駕(りょうが)すると言っても過言ではない、見ごたえある名城だ。 街道を意図的に取り込み造った城 森寺城の北端虎口(こぐち)に設けられた土塁森寺城は、城の中心を「城戸道」と呼ばれる尾根道が貫いている。森寺集落を起点として、城戸集落を経由して越中と能登の国境に至る尾根道だ。つまり、越中と能登をつ

    織田・豊臣方による改変も! 街道を取り込んだ越中の名城・森寺城 | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
    kash06
    kash06 2022/09/01
    いやぁ、なんと大規模で計画的なんだ! 堀切が大きいなぁ……曲輪同士の独立性は、確かに七尾のようだ。
  • 利家VS.成政の熾烈な戦い! 楽しみ尽くす「加越国境城跡群及び道」  松根城と切山城(2) | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]

    kash06
    kash06 2022/08/13
    今週も抜群に面白かった! 松根城と切山城の整備されたシチュエーションから、他の方面との比較、そこから浮かび上がる城とは。それらが防衛設備の具体的な記述から浮かび上がるのは、萩原さんの記事の確かさだ。
  • 街道を封鎖して対峙!「加越国境城塞跡群及び道」とは 松根城と切山城(1) | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]

    の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は国の史跡に指定されている、石川県と富山県の境にある「加越国境城跡群(かえつくにざかいしろあとぐん)及び道」です。かつての加賀と越中の境で、戦国時代に前田利家と佐々成政(さっさ・なりまさ)が争った地。対峙する両陣営の城から、まずは松根城を紹介します。 【動画】松根城を訪ねて 戦国時代の城 縄張を読み解くおもしろさ 戦国時代の山城を歩く醍醐味(だいごみ)の一つは、縄張(設計)を読み解くことだ。敵の侵入路となる尾根や緩斜面は堀切や竪堀(たてぼり)で遮断し、高低差や屈曲を駆使して城内の道筋を複雑化。敵の突破口となる出入口は集中射撃できるよう徹底強化するなど、効率よく迎撃できるよう土木工事で山全体を要塞(ようさい)化していく。建物は残っていなくても、地

    街道を封鎖して対峙!「加越国境城塞跡群及び道」とは 松根城と切山城(1) | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
    kash06
    kash06 2022/07/30
    いやぁぁぁ、今回も実に面白かった! 特に城と城の連携と、戦時の城における戦闘力の高さについて。萩原さんの連載は、この全体像が見て取れるから読んでいてとても面白い!!
  • 豊臣秀吉が妻の北政所に宛てた自筆の書状見つかる 鹿児島 | NHK

    鹿児島市にある県歴史・美術センター「黎明館」に預けられた島津家一族の資料の中から、豊臣秀吉がの北政所に宛てて書いた自筆の書状が見つかりました。 書状は、朝鮮半島に兵を出した文禄・慶長の役の際に、秀吉が城を築いた現在の佐賀県の名護屋から北政所に宛てて書かれたものです。 天正20年(1592年)6月3日に書かれたと推定されています。 手紙には、「当年中には唐国、明を取り唐国に遷ったら迎えを遣わせる」と書かれ、文末には「まんどころ殿太閤」と記されています。 東京大学史料編纂所の協力を得て、筆跡などの研究を進め、秀吉の自筆の書状だと確認したということです。 この書状は5月31日から「黎明館」で開かれる企画展で展示されます。

    豊臣秀吉が妻の北政所に宛てた自筆の書状見つかる 鹿児島 | NHK