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増田と言語に関するkash06のブックマーク (4)

  • 平安時代でも「先」と言えば「未来」を指していた

    これ面白くて、未来が自分の後ろ側にあった時代には矛盾がなかったんですよ 我々現代人は普通「未来が前、過去が後ろ」なのが当たり前だと思ってますが、昔は過去が前、未来が後ろにあったんです 全く日独自のことではなく、古代ギリシャやソマリ語など世界の地域/言語であった/あることらしいですが https://t.co/3iG9Uaqgae pic.twitter.com/hkoAEAJjB0— 重藤小藤太 (@Kotouta_Sige1) February 18, 2024 この言説は正しいのだろうか。この場合、過去に書かれた文学などにおいてどのような用法があったかを確認すればいいだろう。というわけで『源氏物語』から「先」が未来をあらわしている箇所を引用する。 わが御世もいと定めなきを、ただ人にて朝廷の御後見をするなむ行く先も頼もしげなめることと思し定めて、いよいよ道々の才を習はさせ給ふ。 「私の

    平安時代でも「先」と言えば「未来」を指していた
  • 「公式が勝手に言ってるだけ」からはじめる文学理論半世紀

    最近、二次元に魂を奪われ二次創作に萌える二次豚とでも呼ぶべき存在どもが、「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」という種類の鳴き声を発明した。 歴史学などの一部学問においてはこうした態度が倫理的に要請されてきた、ということはニコニコ大百科でも指摘されているが、そもそもこうした態度はここ半世紀ほど「文学」「テキスト」「作品」といった物事を専門家が語るために用いられてきたものがほぼ起源であろうと思う。「テクスト論」と呼ばれるものがそれである(構造主義の話はしません)。 すなわち「勝手に言ってるだけ」「言ってないけど言ってる」は、文学者がこの半世紀格闘し続けてきたテーマなのである。ちなみに稿は、加藤典洋『テクストから遠く離れて』をなんとなく参考にして書かれたので、興味のある方はそちらも読まれるとより楽しいかと思う。 さて、半世紀ほど前まで、たとえば夏目漱石の作品を批評する、

    「公式が勝手に言ってるだけ」からはじめる文学理論半世紀
  • ウクライナ語固有名詞の日本語表記について

    2年前に「ロシア語の表記揺れはなぜ起きるのか」っていう増田を書いた増田だけど、みんな覚えてるかな? 今回は最近話題のウクライナの固有名詞の日語表記についての話をするよ! иは「イ」か「ウィ」かロシア語やその他の多くの言語で、иは「イ」の音を表す文字だよ! でもウクライナ語では違うんだ! 手元の教科書を見てみると、「ゥイー 母音字。[イ]より奥に舌を引き,唇を横にして出す」(『ニューエクスプレス ウクライナ語』10頁)って書いてあるよ! そうだね、日語で表記する上ではロシア語のыみたいになるんだね! ローマ字ではyで表記することになってるよ! 問題は、「ウィ」って表記するとややこしいことだね! 人名のМикола (Mykola)を「ムィコラ」と書くか「ミコラ」と書くかってことだね! きちんと数えたわけじゃないけど、ロシア語のыよりもウクライナ語のиの方が使用頻度高そうな気がするよ! 原

    ウクライナ語固有名詞の日本語表記について
  • 英語がぺらぺらになった今、一言

    オレは帰国子女でも何でもなく、生粋の日人。独学+海外駐在数年経験して英語がぺらぺらになった今、英語は手段にすぎないとかぬかしてるクソどもへ一言言いたい。 英語は手段であるとか、英語だけ出来るやつなんて要らないとか、最近の若者は英語できればいい仕事に就けると思ってるとか、分かったような事を言って、それを理由に英語学習をしなかったり、英語学習を妨げたりするやつが世の中には結構いる気がする。こういう事を言うやつらは、たいてい英語が中途半端にできるか、もしくはできない。 確かに、こいつらの言っている事は多くの場合、ある前提のもとでは間違っていない。無駄に親のすねをかじって語学留学してきましたみたいな無能を批判したいという気持ちもまあ分かる。だがしかし、こいつらに決定的に欠けているものがある。それは、こいつらが、当に言語をマスターした時のブレークスルーを知らないという事である。 言語をマスターす

    英語がぺらぺらになった今、一言
    kash06
    kash06 2013/09/27
    文学・文化に関しては、確かに訳ではわからない微妙な感覚があるのは何となく納得感。一方で商売のお取引だけでそこまでの機微を捉える必要があるかわからない。ただ素敵な感覚があるってのは、わかった。
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