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哲学と批評に関するTomosugiのブックマーク (9)

  • 日常のコギト:命がけの飛躍

    February 07, 2007 命がけの飛躍 柄谷行人の「論座」でのインタビューを読了。 なにせインタビューだから非常に短い。だから、「読了」なんて偉そうなことを言うほどのことではない。 しかも、いくら柄谷ファンを自認しているとは言え、インタビューが載っている程度でを買ってしまうことは非常に稀である。 まして、「論座」。 僕にとっては「週刊少年ジャンプ」と同一直線上にある雑誌だ。 もちろん、難易度の話ではない。 玉石混淆の度合いである。 例えば、 「僕は「こち亀」が読みたい。できるだけ早く読みたいから、単行になる前の「ジャンプ」の連載を読む。けれど、ジャンプには、僕の苦手な「ONE PIECE」などが載っている。特に読みたくないしな...。うーん、ジャンプを買おうか、買うまいか...。買わない!」 という思考である(実際、週刊少年ジャンプは20年近く読んでない。すみません)。 「現

  • 新著『ゲンロン戦記』が異例のヒット…東浩紀氏に聞く「インターネットの失われた10年間」

    哲学者の東浩紀氏の新著『ゲンロン戦記 「知の観客」をつくる』が、世代を超えて話題を呼んでいる。 学会や文壇の常識には囚われない「知のプラットフォーム」を志し「ゲンロン」を東さんが創業したのが2010年のこと。これまでの葛藤を赤裸々につづった奮闘記は、起業家やビジネスパーソンのみならず、コロナ禍で不安を抱えながらも自分の道を切り拓こうともがく若者にも支持されている。 『ゲンロン戦記』には東さんとゲンロンが、混乱の中を戦い続けた「2010年代」が描かれている。SNSが影響力をもち、個人が自由に情報を発信できるようになったことは「アラブの春」に象徴されるような“革命”にも影響を与えた。その一方、分断やメディアビジネスにまつわる歪な構造をも生んだ負の側面もある。 「インターネットの力を信じられなくなった」と失望を語りつつ、それでもネットや出版を通じて自らが信じる哲学を試行錯誤してきた東さん。201

    新著『ゲンロン戦記』が異例のヒット…東浩紀氏に聞く「インターネットの失われた10年間」
  • 東浩紀「緊急事態に人間を家畜のように監視する生権力が各国でまかり通っている」 | AERA dot. (アエラドット)

    東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン代表。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数 ※写真はイメージ(gettyimages) 批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。 *  *  * 生権力(せいけんりょく)という言葉がある。フランスの哲学者フーコーの概念で、人間を家畜のように捉える権力を意味する。たとえば税制を変えれば出生率も変わるが、そのようにして集団を「管理」するのが生権力である。 生権力の働きは、非人称で政治的に中立なふりをしてくるので抵抗が難しい。だからこそ警戒が必要だとい

    東浩紀「緊急事態に人間を家畜のように監視する生権力が各国でまかり通っている」 | AERA dot. (アエラドット)
  • 東浩紀が時代の節目に自らを振り返る――「平成という病」(Book Bang) - Yahoo!ニュース

    昭和天皇が崩御したとき、ぼくは一七歳だった。いまは四七歳だ。平成はそのあいだの三〇年を占めている。つまり平成は、ぼくの人生の知的で生産的な期間と完全に一致している。昭和期は仕事はしていない。すべての仕事は平成期に発表された。そしてぼくはいま五〇歳近い年齢であって、まったく新しいことを始めるのはむずかしい。新元号でも仕事はできるだろうが、それは平成期の延長にならざるをえない。つまりはぼくは質的に、平成の批評家であり哲学者であり書き手なのだ。平成というのは、ぼくにとってそういう時代である。 その事実はぼくを憂にする。というのも、ぼくは平成が好きではないからだ。字面からして好きではなかった。三〇年前、ブラウン管のなかで(当時はまだブラウン管だった)官房長官が「平成」と書かれた色紙を掲げたのを見たとき、なんて間抜けな命名かと感じたのをよく覚えている。 そう、平成はその名のとおり間抜けな時代だっ

    東浩紀が時代の節目に自らを振り返る――「平成という病」(Book Bang) - Yahoo!ニュース
  • 【感想】東浩紀『ゆるく考える』 - ブサイクバカンス読書部

    限りなく3月に近いけど、日付上はもう4月です。 ほんとうはもっとはやく更新するはずだったのですが、ウルトラのツアーのチケットも確保済みだった電気グルーヴファンなので、ちょっと精神的にキツい時期がありまして。 逮捕報道が出た翌日なんて心身が絶不調で……。 ほんっとうに不調で、「夜は墓場で運動会、深夜は畳でゴム草履」「夢の中でもタワシが売れない」「ユニフォーム姿の半漁人」「賽の河原で学級会」「貴い手淫、「貴ナニー」」など、数々の言葉が脳にあらわれては消えあらわれては消え。 せっかくだから、浮かんだ文言を、電極を刺してコンピュータに繋いでるタイプの友人の脳に直接、端末から送り込んでは消し、送り込んでは消し。 そんな遊びをしているうちに少しずつ少しずつ気持ちも上向きになり、「まぁ、スモールルームフィロソフィ哉さんも逮捕されたことあるし……」なんて後ろ向きな慰め方もしつつ、ようやく読み終えたのがこの

    【感想】東浩紀『ゆるく考える』 - ブサイクバカンス読書部
  • 意味がない無意味 書評|千葉 雅也(河出書房新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

    書は、現代日の思想シーンにおける最も重要な書き手の一人である哲学者・千葉雅也による、『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社、二〇一三年)に続く、哲学的かつ批評的な第二の主著である。哲学論文の他に、美術批評、ファッション批評、書評、その他分類しづらいエッセイなどが、適切な改稿を施されたうえで書には収められている。したがって私たちは書を通じて、千葉の「第一期の仕事」(と千葉自身が名づけるもの)をファイナライズされた状態で、パノラミックかつミクロスコピックに振り返ることができるようになったと言えるだろう。 この「第一期の仕事」の鍵概念は、『動きすぎてはいけない』での表現に従えば「非意味的切断」、そして「有限化」であった。書はこれらの概念を、新たに「意味がない無意味」というトートロジー的表現によって名づけなおそうとする。書序論「意味がない無意味――あ

    意味がない無意味 書評|千葉 雅也(河出書房新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
  • 資本主義的、革命的(前編)—東浩紀の広告戦略について - 批評集団「大失敗」

    新しい情報の提供があるわけでもなく、新しい価値判断があるわけでもない、ましてや学問的研究の積み重ねがあるわけでもない、なにか特定の題材を設定しては、それについてただひたすらに思考を展開し、そしてこれいった結論もなく終わる、奇妙に思弁的な散文(『ゲンロン4』33頁) 東浩紀によって、「批評」とはこのように要約され、定義されている。東によれば批評とは日における特異な現象であり、批評それ自体が考えるに値する。東の思索は、その批評の内容や対象というよりは、その批評という営為が生まれてくる現象そのものに向いている。 東は「批評」という語自体を批評という営為の「可能性の中心」に据えるのだ。 ▲広告の例 歴史修正的 批評という病は、言い換えれば言葉と現実の乖離は、ねじれそのものが解消されなければ癒えることがない。そしてそのねじれはいまも変わらずに存在している(『ゲンロン4』33頁、強調引用者) こうい

    資本主義的、革命的(前編)—東浩紀の広告戦略について - 批評集団「大失敗」
  • 【報告】「日本のサブカルチャーはダイバーシティに耐えるか」 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy

    2017年3月7日(火)、ワークショップ「日のサブカルチャーはダイバーシティに耐えるか」が開催された。以下は企画・司会を担当した筒井晴香(UTCP特任研究員)による報告である。 **** ワークショップは、日のサブカルチャー(今回は主にアニメが話題となった)において見られるクィア性や攪乱性のあり方を考えたいという筒井の問題関心から出発したものである。司会・提題の筒井ほか、川村覚文氏(東京大学UTCP)、田中東子氏(大女子大学)を提題者に、隠岐さや香氏(名古屋大学)をディスカッサントに迎えて開催の運びとなった。 川村氏の発表「帝国の記憶とアニメのポリティクス」では、アニメ『ラブライブ!』(2013-2015年)と神田明神のコラボ、また旧日軍のモチーフが登場する「ミリ萌えアニメ」作品群、その中の一つである『ガールズ&パンツァー』(2012-2013年)への自衛隊の協力やコラボイベント

    【報告】「日本のサブカルチャーはダイバーシティに耐えるか」 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy
  • 千葉雅也のアンチ・エビデンス論について(最終版)|しんかい37(山川賢一)

    (この論考はいわゆる投げ銭システムになっていますので、無料で最後まで読むことができますし、それでかまいません。気前のいい方は100円払ってくださるとうれしいです) アンチ・エビデンス論 立命館大学准教授、千葉雅也は、最近「アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」と題する論考を発表しました(以下、これを「アンチ・エビデンス論」と呼ぶことにします)。 http://10plus1.jp/monthly/2015/04/index03.php 千葉はドゥルーズ論「動きすぎてはいけない」などの単著を持つ、期待の若手哲学研究者。今回の論考も、発表直後はネットで賞賛の声に包まれました。ところが、その後数日して、批判の声も高まり始めます。とくに反感を呼んだのは、その文体でした。 分身から分身へと移ろう不安のマゾヒズムを再起動させること。すなわち、あらゆることがあらゆるところに確実

    千葉雅也のアンチ・エビデンス論について(最終版)|しんかい37(山川賢一)
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