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五輪と歴史に関するtakeishiのブックマーク (4)

  • 東京オリンピックという古代ギリシア復興の儀式 - 本しゃぶり

    猛暑、緊急事態、追放劇。 オリンピックの諸問題は2500年前も同じだった。 歴史を学んで危機を克服しよう。 伝統的灼熱のオリンピック オリンピックが暑い。 東京で開催すると決定された時から暑さが懸念されていたが、その問題は現実となった。アーチェリーでは選手が倒れ*1、 トライアスロンではゴール後に嘔吐し*2、テニスでは「これで死んだら誰が責任を取るのか」と言われる始末*3*4。 コロナ禍での東京五輪は、酷暑にも見舞われています。都心では開会式前後から最高気温が34度を超えたこともあり、屋外競技の選手がもがいています。 #猛暑 #東京五輪 #Tokyo2020https://t.co/M1TdDJAFyR— 時事ドットコム(時事通信ニュース) (@jijicom) July 29, 2021 なぜこの時期に開催したのか。日らしく、この理由には音と建前がある。「建前」は「この時期の天候は晴

    東京オリンピックという古代ギリシア復興の儀式 - 本しゃぶり
  • 64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装をデザインしたのは誰か - Yahoo!ニュース

    真紅のブレザーに白のスラックス。1964年の東京オリンピック開会式で日選手団が着用した「日の丸カラー」の公式服装(開会式用ユニフォーム)は、服飾デザイナーの石津謙介がデザインしたとされてきた。「石津デザイン」の記述は、現在もJOC(日オリンピック委員会)や公的機関のホームページに掲載されている。ところがその通説とは異なり、実際にデザインしたのは東京・神田で店を構えていた望月靖之という洋服商だという資料や証言が数多くある。望月とは誰か。なぜ石津デザイン説が広まったのか。(服飾史家 安城寿子/Yahoo!ニュース編集部) JOCのホームページには、東京オリンピックの公式服装に関する記事が掲載されている。そこには「公式服装を手がけた服飾アーティスト」として石津謙介の名前が明記されている。国立博物館・昭和館の2008年の企画展「オリンピック 栄光とその影に」の告知ホームページには、「日選手団

    64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装をデザインしたのは誰か - Yahoo!ニュース
    takeishi
    takeishi 2016/09/06
    なんかずいぶんひどい話だな/当時の新聞にも載っているというのに
  • おやじのメダル返ってきた 終戦時の中国で託した二つ:朝日新聞デジタル

    二つのメダルがある。1932年レークプラシッド(米国)冬季五輪参加章と、同年にシカゴで開かれたスピードスケート・ウエスタンオープン選手権500メートル3位のメダルだ。スケーターはこれを日に持ち帰れず、一人の技術者に託していた。70年近い歳月を経て7日、息子たちの元に返ってきた。 「祖父から受け継いだメダルを持ち主の親類に返せないか」。この春、そんな相談が朝日新聞社に寄せられた。相談者は、98年に95歳で亡くなった上(こうづま)知弘さんの孫で、東京都で通訳の仕事をする恵美子さんだ。 知弘さんは28年から旧満州(中国東北部)の満州製鉄化工課長として働いた。45年の終戦後も技術者として中国政府に留め置かれた。その間、日への引き揚げ者から様々な品を託された。引き揚げはすし詰めで携行品が制限され、貴金属持ち出しも禁じられた。 知弘さんが故郷の熊に戻ったのは48年。比較的恵まれた待遇で帰国でき

    おやじのメダル返ってきた 終戦時の中国で託した二つ:朝日新聞デジタル
  • ソチの先住民、複雑な思い 弾圧の歴史、政府は認めず:朝日新聞デジタル

    各国の選手が熱戦を繰り広げるロシア・ソチ五輪。だが、この感動の舞台を複雑な思いで見つめる人たちがいる。ソチ一帯にかつて住んでいた先住民族チェルケス人たちだ。五輪会場の山岳部はかつて、ロシア帝国による弾圧があった場所でもある。 スキーやスノーボード競技が開かれているクラースナヤポリャーナ地区から約100キロ離れた自宅で、ザウルビ・チュンディシコさん(48)は、ロシア選手の活躍を伝えるテレビ中継を険しい表情で見つめた。「五輪は素晴らしいと思う。でも正直、素直に喜べない」。その理由は150年前の出来事にある。 クラースナヤポリャーナ地区やソチを含む一帯には、かつて約200万人の先住民族チェルケス人が住んでいた。そこへ18世紀後半にロシア帝国が侵攻し、「カフカス戦争」が勃発。戦争最後の年となった1864年、帝政ロシア軍によって、約30万人が殺されたとされる。

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