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戦争に関するmmuuishikawaのブックマーク (18)

  • 制圧されたロシア軍の塹壕、アニメステッカーが貼られたボロボロの銃が見つかる「なぁ兄弟…、俺たちは分かり合えなかったのかな…」

    bigSAC™ @bigSAC10 Ukrainian soldiers documenting evidence of Russian weeb activity in a captured trench. pic.twitter.com/ySCR14Xbz9 2024-03-05 21:18:18

    制圧されたロシア軍の塹壕、アニメステッカーが貼られたボロボロの銃が見つかる「なぁ兄弟…、俺たちは分かり合えなかったのかな…」
  • 「もっと兵士を産め」 ロシアで中絶阻止の動き強まる

    【12月22日 AFP】ロシアではウクライナ侵攻開始以降、急激に保守化が進み、国民の暮らしも変化した。影響が及んでいる問題の一つが、女性の中絶権だ。 宗教色のより強い多くの西側諸国とは違い、ロシアでは何十年も前から中絶は合法で、この問題で社会が分裂することもあまりなかった。だがここ数か月で雲行きが変化している。 各地ではロシア正教会の要求に屈し、民間クリニックでの中絶を規制しようとする動きが相次いでいる。一方、国営クリニックを運営する保健当局は政府の方針を強化し、女性たちに中絶を思いとどまらせようとしている。 当局は出生率の向上が目的だとしているが、権利運動家たちはウクライナ侵攻後の広範な弾圧の一環だとみている。 ジョージアに亡命中のフェミニスト活動家、レダ・ガリーナ(Leda Garina)氏は「戦争中の国家には、この種の法律が常につきまとう」と指摘した。今回の措置はロシア人女性に対し、

    「もっと兵士を産め」 ロシアで中絶阻止の動き強まる
  • 意外に身も蓋もなかった21世紀の戦争 - 関内関外日記

    これは陸上自衛隊です 今日は朝から調子が悪く……端的に言えば抑うつ状態になって伏せっていた。昼頃、携帯端末をちょっと覗いてみると、ロシアによる侵攻の記事が目に入った。 しばらくしてなんとか起き上がり、カップメシをいながらワイドショーなど見る。どうも、当のようだ。 こうなると思っていたのか日の一市民のおれ。「なにもしないで帰ることはないだろう」とは思っていた。けれど、東部二州あたりをちょっとどうにかするくらいだろうと思っていた。いきなりキエフを撃つとは思いもしなかった。 国家間戦争じゃないか。正規軍による。しかも、全面侵攻だ。びっくりした。 ロシアはもう制空権をとったくらいのことを言っているらしい。制空権をとられたら、もうおしまいじゃないですか。 しかし、ウクライナだ。ウクライナだよ。ロシアが、ウクライナくらいの国と戦争をしてしまう。ほかの紛争地域を下に見るわけではないが、ウクライナ

    意外に身も蓋もなかった21世紀の戦争 - 関内関外日記
  • あの夏、僕は母と妹を殺した。70年間、語ることのできなかった戦争の記憶

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    あの夏、僕は母と妹を殺した。70年間、語ることのできなかった戦争の記憶
  • 飢餓の部隊、降伏認めず放置 「人間扱いされなかった」:朝日新聞デジタル

    あの戦争で亡くなった日軍の軍人、軍属約230万人のうち、過半数が飢餓や栄養失調による戦病死だったとみられている。「お国のため」と万歳で見送られた若者たちの多くはなぜ、戦闘でなく飢えによって命を失ったのだろう。誰のために。何のために。(編集委員・真鍋弘樹) 福島県白河市でひ孫3人に恵まれ、4世代で住む大塚君夫さん(93)は今も、品に書かれている「賞味期限」が許せない。 コンビニでは期限が来た品が処分されていると聞く。さらに東日大震災による原発事故の後は、福島県産というだけでべ物が廃棄された。 「びんたをしてやりたいほど腹が立つ」 あの島では、サツマイモ一つで、命を失った人たちがいたのだから。 グアム、パラオ、トラックのどこからも500キロ以上離れた文字どおりの絶海の孤島、メレヨン島に1944年、大塚さんの部隊を含む約6500人の兵力が配備された。 午前中に決まって米軍機が襲来し、飛

    飢餓の部隊、降伏認めず放置 「人間扱いされなかった」:朝日新聞デジタル
  • 天皇陛下、82歳に 「先の戦争を考え過ごした1年」:朝日新聞デジタル

    天皇陛下は23日、82歳の誕生日を迎え、これに先立ち記者会見した。戦後70年の今年を「様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年」と振り返り、年々戦争を知らない世代が増えるなかで「先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日の将来にとって極めて大切なことと思います」と話した。 天皇陛下は、会見の半分ほどの時間を使って戦争や平和への思いを語った。民間人の犠牲が大きかったことに触れ、「平和であったならば、社会の様々な分野で有意義な人生を送ったであろう人々が命を失ったわけであり、このことを考えると非常に心が痛みます」と述べ、民間船員の犠牲に言及した際には感極まった様子で言葉を詰まらせた。(島康彦、伊藤和也) ◇ 戦後70年、思い切々と 82歳の誕生日を前に、記者会見に臨んだ天皇陛下。戦後70年の節目が終わろうとする年の瀬に、戦争や平和に対する思いを切々と口にした。 天皇陛下は戦時中、

    天皇陛下、82歳に 「先の戦争を考え過ごした1年」:朝日新聞デジタル
  • みんな戦争したなるねん。 @chodo

    死んだ爺さん 「不景気なったら書生っぽやらスネかじりが見てきたみたいに外国が攻めて来るとか言い出すからな。世の中不安になったら今度はお上がやら芝居やらが低俗や、けしからん言い出したら戦争や。みんな戦争したなるねん。わしそんなん2回も見た」 「戦争は国が無理矢理始めるんちゃうで。国民がやれやれ言い出すねんで。みんな死ぬの嫌やのに、先が見えんようになったら、段々そんな気になってくるねん。戦争はあかんかった言うのもほんまやし、仕方なかった言うのもほんまやねん。」

    みんな戦争したなるねん。 @chodo
  • 日本の国際社会復帰を助けた“寛容と愛”(東信)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ

    ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ (1906年9月17日 – 1996年11月1日) 初代スリランカ大統領 1951年、サンフランシスコ講和条約会議にて、第二次世界大戦以来の戦争状態を終結させるための平和条約の調印が行われた。日が敗戦国としてどのような戦後賠償を行うか、分割統治の可能性も孕む中、当時まだ44歳の若き政治家だったセイロン(現スリランカ)代表のジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナは、日の真の自由と独立の支持を訴える名演説を行い、対日賠償請求権を放棄することを宣言。さらに各国の賛同を得、日が国際社会に復帰できる道筋を作った。 彼はスピーチの中で仏陀のことばを用い、日に対する寛容と愛情を説いた。 「Hatred ceases not by hatred but by love – 憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる」 こ

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  • 過ちを繰り返さないための、わたしたちの責務(江川紹子)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ

    戦争が終わって70年。その歳月の重みを考える時、私が今ここに生きていること、そして、恐怖と欠乏に苛まれることなく、平和のうちに暮らしていられることに、心の底から感謝の念が沸いてきます。 多くの命が失われた戦争の時代を、私の両親は生き延び、終戦の日を迎えることができました。この幸運がなければ、今、私はここにいません。 Photo by Richard(CC BY 2.0) 日の再出発に当たっては、たくさんの国々の協力がありました。まず、サンフランシスコ平和条約では、アメリカなどの連合国が日に対する賠償請求権を放棄し、工業生産に対する制約を加えませんでした。それ以前の戦争の講和に比べ、敗戦国に極めて寛大な対応でした。背景には、東西対立の始まりという、当時の国際情勢があったとはいえ、日に重い負担を負わせないために、多くの人たちの努力があったのでしょう。 アジアの国々に対する賠償も、役務提供

    過ちを繰り返さないための、わたしたちの責務(江川紹子)|ポリタス 戦後70年――私からあなたへ、これからの日本へ
  • 満州医科大学の白米とコーリャンの話〜やはり満州事変以降の日本の振る舞いは「侵略」だと思う - 木走日記

    今回は、身内の話からはじめましょう。 生前長らく神戸で開業医をしていた私の叔父は、温厚な人柄で幼い私にもとても優しく接してくれました。 彼が医学を学んだのは当時の中国大陸の満州国であります。 叔父が学んだ満州医科大学(現:中国医科大学)は、おそらく当時の中国大陸で唯一の先端西洋医学を学ぶことができる医科大学であったのでしょう、戦後1949年には共産党政府により国立中国医科大学として改称、現在まで中国屈指の医科大学として存在しております。 叔父が満州医科大学の学生であったころは、もちろん満州国内の唯一の医科大学であり、日の国策で作られた大学でありました。 当時の満州医科大学の学生は、国策大学でもあり、内地からたくさんの日人が学んでおり、正確な比率はわかりませんが、日人(内地)、日人(朝鮮)、日人(台湾)、満人(中国人・満州族)、華人(中国人・漢族他)の順に学生は構成されておりました

    満州医科大学の白米とコーリャンの話〜やはり満州事変以降の日本の振る舞いは「侵略」だと思う - 木走日記
  • 理由はどうであれやっぱり一般市民40万人皆殺しって原爆は畜生の所業だと思うんだよナァー - 拝徳

    僕は学生時代、広島で育ったのですが、土地柄やはり平和に関する教育というのは多かった気がします。 今でも覚えているのですが、小学生の時に原爆の体験談を聞いて作文を書けというのがあって、周りが揃って原爆は絶対許せないみたいなのを書いてる中、天邪鬼っ気が働いて、原爆が落とされるのは戦争だったし仕方ない面もあったかと思う。ただ、戦争を早期に終わらせる威嚇目的ならわざわざ街のど真ん中に落とさんでも東京湾とか、人がおらんとこに落として威嚇してもええんとちゃうんか? 他の方法あったやろ。 みたいなことを書いて提出したら、職員室に呼び出されて烈火のごとく激怒されたことがある。 まぁ広島とは言え、別に広島生まれではなかったからね。親族が死んだとかもなかったしさ。小学生の理解できる歴史観には限界があるよね。 でも今世界情勢や社会の歴史についてある程度理解ができる立場にたって振り返ってみると、やっぱ原爆は極悪す

    理由はどうであれやっぱり一般市民40万人皆殺しって原爆は畜生の所業だと思うんだよナァー - 拝徳
  • 戦後70年。帝国海軍兵士の肉声を聴き、2015年元日に思うこと

    去年、2014年は安倍総理が目指す「戦後レジームからの脱却」に向けてまさに一直線となった年でした。「アベノミクス解散だ」、総理自身のそうしたかけ声のもと始まった暮れの総選挙でしたが、経済以外にも、震災復興や原発再稼働、北朝鮮拉致被害者、沖縄米軍基地、外交・安全保障問題など、争点はそれなりにあったはずでしたが、議論は深まりませんでした。投票率は戦後最低の52.66%。《日を変えたのは「あの日」の無関心だった》と将来振り返る日が来るかもしれません。 私は選挙前から、最大の争点は「憲法改正」だと折に触れて発言してきました。安倍総理が2012年暮れに政権に返り咲いてから、日版NSC・国家安全保障会議の創設、特定秘密保護法の制定、憲法解釈の変更による集団的自衛権容認の閣議決定、憲法改正手続きを定めた国民投票法の改正、道徳の教科化の検討など、保守色の強い政策を矢継ぎ早に打ち出してきました。靖国神社

    戦後70年。帝国海軍兵士の肉声を聴き、2015年元日に思うこと
  • 地震の後には戦争がやってくる 清志郎の言葉、いま響く:朝日新聞デジタル

    地震の後には戦争が――。5年前に亡くなったロックシンガー、忌野清志郎(いまわのきよしろう)さんの文章が、インターネット上で読まれ続けている。作詞家の湯川れい子さんが2年近く前にツイッターなどで紹介したものが、少しずつ広がった。時代を見通すような内容に、湯川さんは「今こそ、多くの人に読んでほしい」という。 文章はこう書かれる。 〈地震の後には戦争がやってくる。軍隊を持ちたい政治家がTVででかい事を言い始めてる。国民をバカにして戦争にかり立てる〉 忌野さんのエッセー集「瀕死(ひんし)の双六(すごろく)問屋」の一文だ。2000年ごろ、阪神大震災を思い起こして書かれ、「日国憲法第9条に関して人々はもっと興味を持つべきだ」と題される。 文庫化された07年に、忌野さんは湯川さんへ献。その後の09年、東日大震災の発生を見ぬまま、忌野さんは58歳で亡くなった。 それから3年後。湯川さんが書棚の資料を

    地震の後には戦争がやってくる 清志郎の言葉、いま響く:朝日新聞デジタル
  • 佐々木俊尚さん sasakitoshinaoの「国民が大喜びで戦争を求めたからです。」

    佐々木俊尚 @sasakitoshinao ジャーナリスト。アベマプライム、ニッポン放送「飯田浩司のOK!Cozy up!」レギュラー出演。総務省情報通信白書編集委員。TOKYOFM放送番組審議委員。情報ネットワーク法学会員。東京長野福井の3拠点移動生活者。お仕事依頼はsasaki@pressa.jpへ。 pressa.jp

    佐々木俊尚さん sasakitoshinaoの「国民が大喜びで戦争を求めたからです。」
  • 「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例 | リアリズムと防衛を学ぶ

    は長らく平和を謳歌してきました。そんな中で防衛体制の整備には「戦争なんか起こるわけがないのに…」という懐疑論が常にともないました。どころか、「危機がもし起ったら」と考えること自体が危険思想である、戦争が好きな軍国主義者だ、という風に非難された時代もありました。 ところが歴史的に見て「戦争なんか起こるわけがない」という見通しが外れたことは多くあります。 「アルゼンチンが戦争なんかするわけない」 いまから30年前の1983年4月、「フォークランド紛争」という戦いが起こりました。アルゼンチンとイギリスとの紛争です。きっかけは、イギリス領フォークランドに対し、アルゼンチンが突然侵攻を開始したことでした。 ですが紛争勃発の直前まで、戦争なんか起こるわけがない、意見が強くありました。それはかなり論理的なものでした。例えば83年4月5日に発売された雑誌ビジネスウィークは、戦争にいたる可能性は低い、と

    「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例 | リアリズムと防衛を学ぶ
  • 世界に衝撃を与えた「ベトナムの少女」の現在の姿が話題に : らばQ

    世界に衝撃を与えた「ベトナムの少女」の現在の姿が話題に 1973年にピューリッツァー賞を受賞した、「戦争の恐怖」という有名な写真があります。 ベトナム戦争で爆撃を受けて裸で逃げる9歳の少女の写真で、1度見ると忘れられない印象深い写真ですが、彼女が大人になったときの写真が紹介され、話題を呼んでいました。 大人になり、わが子を抱くキム・フックさん。 (ファン・ティー・キム・フック - Wikipedia) 背中を中心に重度のやけどを負い、ケロイドとなった傷が生々しく残っています。 17回にもおよび皮膚の移植手術を受け、いまも激しい痛みが残っていると言い、戦争のすさまじさが伝わってきます。 子供に向ける穏やかな表情とのコントラストには、考えさせられるものがあると、海外掲示板には多くのコメントが寄せられていました。 ●子供のときの写真が、1970年代にトップニュースになっていたことをよく覚えている

    世界に衝撃を与えた「ベトナムの少女」の現在の姿が話題に : らばQ
  • 朝鮮人虐殺の原点としての甲午農民軍「討伐」 - Apeman’s diary

    当ブログの古くからの読者の方であれば、「関東大震災時の朝鮮人虐殺は〇〇とは違う!」と強弁したある人物のことを思い浮かべられたのではないでしょうか。 ルワンダ虐殺と関東大震災の朝鮮人虐殺とは異なる この↑詭弁の下敷きになっているのは当然のことながら山七平です。関東大震災時の朝鮮人虐殺について山がどのような詭弁を弄したかについては、数年前にやや丁寧に分析しておきました。 「七平メソッド」とは このエントリで言及した三・一独立運動に対する弾圧は、しかしながら、近代日による最初の大規模な朝鮮人虐殺というわけではありません。 私が中等教育を受けた当時は「東学党の乱」と呼ばれていた第一次甲午農民戦争(東学農民戦争)が日清戦争の契機(日にとっては口実)となったことはよく知られています。94年の春に蜂起した農民軍は6月の全州和約によっていったん矛を収めます。しかし日清戦争勃発以降、日朝暫定合同条款

    朝鮮人虐殺の原点としての甲午農民軍「討伐」 - Apeman’s diary
  • kousyoublog.jp – このドメインはお名前.comで取得されています。

    このドメインは お名前.com から取得されました。 お名前.com は GMOインターネットグループ(株) が運営する国内シェアNo.1のドメイン登録サービスです。 ※表示価格は、全て税込です。 ※サービス品質維持のため、一時的に対象となる料金へ一定割合の「サービス維持調整費」を加算させていただきます。 ※1 「国内シェア」は、ICANN(インターネットのドメイン名などの資源を管理する非営利団体)の公表数値をもとに集計。gTLDが集計の対象。 日のドメイン登録業者(レジストラ)(「ICANNがレジストラとして認定した企業」一覧(InterNIC提供)内に「Japan」の記載があるもの)を対象。 レジストラ「GMO Internet Group, Inc. d/b/a Onamae.com」のシェア値を集計。 2023年5月時点の調査。

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