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将棋とWikipediaに関するtoyaのブックマーク (16)

  • 白瀧あゆみ杯争奪戦 - Wikipedia

    決勝戦が行われる白瀧呉服店の店頭 白瀧あゆみ杯争奪戦(しらたきあゆみはいそうだつせん)は、日将棋連盟が主催し、白瀧呉服店が後援する将棋の女流棋戦。2006年度創設の非公式戦で、決勝は例年10月に白瀧呉服店店内で行われる。 大会概要[編集] 「日将棋連盟部(東京・将棋会館)に所属する関東在住の若手女流棋士を中心とする8名によるトーナメント方式」が原則であるが、年度によって参加資格の変動が大きい。 第1回(2006年):「U-20女流トーナメント」として参加が20歳以下に限定され、女流棋士6名と選抜された女流育成会員・女性アマチュア選手(各1名)が出場した[1]。 第2回(2007年)、第3回(2008年):若手女流棋士のみ8名、年齢制限撤廃 第4回(2009年):「新人登竜門戦」として若手女流棋士6名と男性棋士2名が参加し、男性棋士と女流棋士との対戦は男性棋士の角落ち戦で行われた。 第

    白瀧あゆみ杯争奪戦 - Wikipedia
  • 佐藤紳哉 - Wikipedia

    佐藤 紳哉(さとう しんや、1977年8月29日 - )は将棋棋士。棋士番号224。神奈川県相模原市出身。安恵照剛門下。 棋歴[編集] 1997年10月、20歳でプロ入り。2004年の新人王戦で準優勝。2005年度は、全棋士中で1位の勝率(0.787)を記録し、将棋大賞の勝率1位賞と新人賞を同時受賞する。 2006年度、第47期王位戦でリーグ入り。谷川浩司に勝利するが、リーグ残留失敗。 2014年3月22日、第3回電王戦でプロ側の2番手として、コンピューター将棋ソフトのやねうら王と対戦。中終盤の激しい攻防を制したやねうら王に95手で敗退。 2016年度、第57期王位戦で10期ぶりにリーグ入りも白星に至らず、再びリーグ陥落。 竜王戦における実績[編集] 第12期(1999年度)6組優勝(戦トーナメント進出)。 第19期(2006年度)4組優勝(戦トーナメント進出)。 第21期(2008年

  • 武富礼衣 - Wikipedia

    武富 礼衣(たけどみ れい、1999年5月25日 - )は、日将棋連盟所属の女流棋士。女流棋士番号は60。佐賀県佐賀市出身。中田功八段門下。龍谷高等学校卒業[1]、立命館大学総合心理学部卒業[2][3]。立命館大学OIC総合研究機構客員研究員[4]。 佐賀県出身の将棋棋士・将棋女流棋士は、戦前と戦後を通じて武富が初となる[5][6][7]。 棋歴[編集] 女流棋士になるまで[編集] 幼稚園の頃、将棋を父と兄が指しているのを見て興味を抱き、将棋を始めた[8][9]。兄も後年(2023年)のアマチュア名人戦の全国大会に出場するアマ強豪となった。ちなみに兄の得意戦法も穴熊である。 小学1年であった2006年、佐賀市で開催された「将棋の日」イベントに参加し、谷川浩司に6枚落ちの指導対局を受けたのをきっかけに将棋に熱中した[10]。のちに師匠となる中田功が師範を務める福岡市の将棋道場に佐賀市から通

    武富礼衣 - Wikipedia
  • 板谷進 - Wikipedia

    板谷 進(いたや すすむ、1940年12月10日 - 1988年2月24日)は、将棋棋士。愛知県名古屋市出身。A級在籍6期。板谷四郎九段門下。 経歴[編集] 日将棋連盟東海部長を長く務めた強豪板谷四郎九段の次男。1958年、父に入門して奨励会入り。弟弟子に石田和雄らがいる。1962年四段、1974年八段。 第11期(1967年度後期)棋聖戦挑戦者決定トーナメント決勝で中原誠に敗退してタイトル挑戦を逃した。第7期(1981年度)棋王戦は、挑戦者決定トーナメントを無敗で勝ち抜き、更に中原誠、大山康晴、谷川浩司といった並み居る強豪に勝つ健闘を見せる。さらに第9期(1983年度)では敗者復活で決勝まで勝ち抜くも、いずれもタイトル挑戦目前のところで森安秀光に敗れた。 1988年2月8日、第52期棋聖戦二次予選決勝で有吉道夫に勝利し、8年14期ぶりの挑戦者決定トーナメント進出を決めるも、結果的にこ

  • 渡辺明 (棋士) - Wikipedia

    渡辺 明(わたなべ あきら、1984年4月23日 - )は、将棋棋士。タイトル通算獲得数は、羽生善治、大山康晴、中原誠に次ぎ歴代4位で、永世竜王・永世棋王の資格を保持。所司和晴七段門下。棋士番号235。葛飾区立宝木塚小学校[1]、聖学院中学校・高等学校出身。 棋歴[編集] 少年時代[編集] 小学校1年生の頃、アマ五段の父に教えられ将棋を覚え、小学2年のころに初段となる[2]。1994年、小学4年(出場時は3年)で第19回小学生将棋名人戦優勝。小学生将棋名人戦で、4年生での優勝は史上初であった(その後、複数名の例がある)。 同年、10歳で所司和晴門下で奨励会を受験し、6級で入会。奨励会入会試験では、当時16歳だった木村さゆり6級(現・竹部さゆり女流)と対戦して勝利したが、この対局は互いに極端な早指しで2分で終わり、隣の対局はまだ駒を並べている途中だったという。 半年で2級まで昇級し、1級で足

    渡辺明 (棋士) - Wikipedia
  • 入玉 - Wikipedia

    将棋で用いられる8種類40枚の駒のうち後方への移動が可能な自分の駒は、初期配置や持ち駒を盤上に打った段階で5種類13枚(王将または玉将、金将4、銀将4、角行2、飛車2)、そのうち前後左右対称の移動が可能な駒は3種類7枚(玉将または玉将、金将4、飛車2)に限られる。このように後方への攻め方は極めて限定されるため、相手の玉将(または王将)が自陣内(自分側の三段目以内)へ移動、すなわち「入玉」されてしまうと、入玉した相手の玉将(または王将)を自分の駒で攻めることが難しくなる。また、入玉した側は歩兵などの小駒を数多く成らせることにより玉の守りを固めることが容易であるため、自陣に入玉した相手玉を詰ますことは更に難しくなる。 さらに、相入玉(自分、相手の双方が入玉した状態)になった場合は、勝敗の決着をつけること自体が困難になる。このため、入玉により対局者双方ともに勝敗の決着の見込みがなくなった場合は

  • 叡王戦 - Wikipedia

    叡王戦(えいおうせん)は、不二家および日将棋連盟主催[注 1]の将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。2015年度にドワンゴ主催で一般棋戦として第1期が開始され、2017年度の第3期からタイトル戦に昇格した一番新しいタイトル戦である。番勝負の勝者は叡王のタイトルを得る。 概要[編集] 一般棋戦時代(第2期まで)[編集] 棋戦発足以前、プロ棋士対コンピュータ将棋ソフトウェアの棋戦である将棋電王戦が開催されていたが、2015年の電王戦FINALをもって団体戦としての電王戦は一つの区切りとされた。 電王戦に類する棋戦の存続を希望したドワンゴが日将棋連盟と協議した結果、まずドワンゴ主催で新たな一般棋戦を立ち上げ、優勝者が、電王トーナメントを勝ちあがったコンピュータ将棋ソフトウェアと、装いを新たにした電王戦[注 2]で対局する事で合意した。 新棋戦の名称は一般公募から選出され、公募案から主催者が9

  • 森内俊之 - Wikipedia

    2003年度は、第61期名人戦七番勝負において、4連敗で名人位を羽生挑戦者に奪取されるも、第16期竜王戦七番勝負では逆に4連勝で羽生竜王から竜王位を奪取。これは羽生にとって初のタイトル戦ストレート負けとなった。第53期王将戦七番勝負においても、羽生王将を4勝2敗1千日手で降し、王将位を奪取。さらにはA級順位戦史上初の9戦全勝[注釈 4] を果たし、羽生名人への挑戦権を獲得。2003年度将棋大賞で最優秀棋士賞を初受賞。 そして、2004年度の第62期名人戦七番勝負において、羽生名人に4勝2敗で勝ち、名人位を奪取。この時点で史上7人目[注釈 5] の三冠王(竜王・名人・王将)となり、最多冠保持者となった。また、2004年(1月-12月)の獲得賞金・対局料は1億円を突破した。 王座戦では、当時12連覇中だった羽生王座への挑戦権を獲得するも、1勝3敗で奪取には至らず。また、同年度、三冠のうち竜王位

    森内俊之 - Wikipedia
  • 将棋の段級 - Wikipedia

    将棋の段級には棋士の段位(新進棋士奨励会の段級も含む)、女流棋士の段級、アマチュアの段級の3つの体系がある。 段級位の確立[編集] 歴史的には、将棋の段級位制の確立は囲碁よりかなり遅く、18世紀になった享保2年(1717年)に、『将棊図彙考鑑』に段位の記載がされてからである[1][2]。『将棊図彙考鑑』によると、当時は七段3名、六段1名、五段4名、四段17名、三段32名、二段20名、初段90名、合計167名の段位認定者がいた[3]。それ以前は免状に、名人に対しての手合割を記載していた[4]。 また、棋力を示すものとして、段級のほかにレーティングという概念がある[注釈 1]が、プロの将棋では昭和初期に、公式のレーティングシステムとして比例得点制度が採用されたことがある。さらに、順位戦でのクラスも、棋力を示す指標とみなされることがある[5]。 段位の読み[編集] 段級位制は様々な分野で用いられ

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  • 十段戦 (将棋) - Wikipedia

    十段戦(じゅうだんせん)は、読売新聞社が主催していた将棋の棋戦である。のちに発展的解消して竜王戦となる。 前身である全日選手権戦、九段戦、名人九段戦(名人九段五番勝負)についてもこの項目で記述する。 概要[編集] 1948年に創設された一般棋戦「全日選手権戦」が起源。 1950年からは、新たに九段のタイトルが制定され、全日選手権戦は「九段戦」と「名人九段戦(名人九段五番勝負)」という2つの棋戦を内包する特殊な開催方式に変更された。 すなわち、まず名人以外の棋士によって九段戦を行って九段のタイトル獲得者を決め、次にその九段のタイトル獲得者と名人との間で名人九段戦を行って全日選手権者を決めるというものである。 1956年に全日選手権戦の2つの棋戦は統合され、名人も参加する単一のタイトル戦として新たな「九段戦」になった(同時に別途読売新聞社が主催していた全八段戦も統合された)。 196

  • 石田直裕 - Wikipedia

    石田 直裕(いしだ なおひろ、1988年12月5日 - )は、日将棋連盟所属の将棋棋士。所司和晴七段門下。棋士番号は289。北海道名寄市出身。地元の小中学校を経て、聖学院高等学校、中央大学理工学部数学科卒業。 棋歴[編集] 級友と学校で対局したのが将棋を始めたきっかけであった[1]。 2001年9月、6級で奨励会に入会。直後は成績が振るわず、1年後には“直近10局で2勝8敗”を2回喫し、奨励会規定により7級に降級、5級昇級に2年を費やした。それ以降は順調に昇級・昇段を続け、18歳となった直後に二段に昇段。1年半で三段に昇段し、第44回(平成20年後期)より三段リーグに参加。4期目の第47期では4勝14敗と不振に喘ぎ降段点を喫する苦労を味わったものの、8期目となる第51回(平成24年前期)で13勝5敗の成績(上村亘に次いで2位)を修め、大学を卒業した翌年の23歳でプロ入り。 奨励会三段枠で

  • 蛸島彰子 - Wikipedia

    蛸島 彰子(たこじま あきこ[注 1]、1946年3月19日 - )は、日女子プロ将棋協会(LPSA)所属の将棋の女流棋士。LPSA番号1。女流棋士一期生6人のうちの一人[1]。東京都杉並区出身。2018年引退。 棋歴 奨励会・レッスンプロ時代 小学生の頃、そそっかしい性格を見かね、将棋をやれば落ち着きが出るのではと父親に将棋を教えられる。 その後、実力をつけていき、それを評価した父の旧知であった金易二郎の勧めにより、1961年、15歳の時に初等科から編入されて奨励会に7級で入会した[1]。史上初の女子奨励会員であった。蛸島には、男子奨励会員より緩やかな「指し分け(5勝5敗[2])で昇級・昇段」という特例措置が適用された[1]。 当時唯一の女子奨励会員であったが、しかし特例での昇段ということもあり棋力の差は如何ともしがたく、他の奨励会員の間では「蛸ちゃんに負けたら丸坊主・罰金」という合言

  • 木村義雄 - Wikipedia

    木村 義雄(きむら よしお) 木村義雄 (棋士) - 将棋棋士 木村義雄 (香川県の政治家) - 国会議員(衆議院および参議院) 木村義雄 (実業家) - 実業家・衆議院議員(帝国議会・福岡県選出) 木村義雄 (油谷町長) - 医師・衆議院議員(帝国議会・山口県選出) このページは人名(人物)の曖昧さ回避のためのページです。同名の人物に関する複数の記事の水先案内のために、同じ人名を持つ人物を一覧にしてあります。お探しの人物の記事を選んでください。このページへリンクしているページを見つけたら、リンクを適切な項目に張り替えてください。

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  • 名人 (将棋) - Wikipedia

    この項目では、将棋棋士の称号「名人」について説明しています。 名人位を争う将棋のタイトル棋戦については「名人戦_(将棋)」をご覧ください。 名人への挑戦者を決める将棋棋戦については「順位戦」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "名人" 将棋 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2007年8月) 将棋における名人(めいじん)は、棋士の称号の一つである。江戸時代の1612年から昭和の1937年までは将棋界の最高権威者に与えられた終身位であり、棋界の近代化にあたって短期実力制へ移行した昭和12年(1937年)以降は名人戦におけるタイトル称号となっている。

  • 将棋棋士一覧 - Wikipedia

    将棋棋士一覧(しょうぎきしいちらん)は、日将棋連盟の将棋の棋士の一覧である。現役・引退[注 1]・物故を問わず、棋士のすべてを棋士番号順に記す。 ただし、棋士番号制定以前(棋士番号制度が始まったのは1977年4月1日)や日将棋連盟発足以前の棋士も記事の後半に記す。 江戸時代の棋士については、江戸時代の将棋棋士一覧、将棋の家元(大橋家、大橋分家、伊藤家)の記事を参照。 下記も参照。 将棋棋士の在籍クラス - 現役棋士の竜王戦・順位戦でのクラスの一覧 カテゴリ「将棋棋士」 - Wikipedia内に人物記事がある将棋棋士などの一覧(五十音順) 将棋の女流棋士一覧 - 女流棋士の一覧 棋士番号のある棋士[編集] 棋士番号のある将棋棋士の一覧。 太字の棋士番号は現役棋士。 青色の行は元棋士(日将棋連盟退会者)。 引退者は最終対局日または引退期日を引退日としている。 「氏名」は棋士としての登

  • 穴熊囲い - Wikipedia

    囲いが完成するまでに他の囲いよりも手数がかかるため、組んでいる途中で攻撃を仕掛けられた場合の対処方も研究しておく必要はある。 手順[編集] 冒頭で挙げた「穴熊の基形」の図における手順を解説する。 初手から▲7六歩、▲6六歩、▲7八銀、▲6八飛、▲4八玉、▲3八玉、▲2八玉[1]。(※1) (※1)ここまでは、美濃囲いとまったく同一の手順である[1]。この次からが穴熊独自の手順。 ▲1八香(香車を上げ、穴をつくる)、▲1九玉(熊が穴に入る)、▲2八銀(銀でフタをする)[1]。(※2) (※2)この時点ですでに一応「囲い」にはなっているので、場合によってはこの状態でとりあえず戦っても良い[1]。 ▲3九金(一枚目の金をつける)、▲5八金、▲4八金寄、▲3八金寄(2枚めの金もつけた。以上で穴熊囲いの完成)[1]。 穴熊囲いの長所[編集] まず、金銀が連結した形で密集していることが多く非常に堅い

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