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Wikipediaと地震に関するtoyaのブックマーク (13)

  • 濃尾地震 - Wikipedia

    濃尾地震(のうびじしん)とは、1891年(明治24年)10月28日に濃尾平野北部で発生したマグニチュード(M)8.0の巨大地震であり、日史上最大級の内陸地殻内地震(直下型地震)である。 濃尾は美濃国と尾張国の併称であり、美濃・尾張地震(みの・おわりじしん)とも呼ばれている。辛卯の年に発生したことから辛卯震災(しんぼうしんさい)と呼んでいる報告書もある。 概要[編集] 『岐阜市街大地震之図』 歌川国利画 濃尾地震の被害 家屋の被害状況 濃尾地震は、1891年(明治24年)10月28日6時38分50秒に発生した。震源は、岐阜県巣郡西根尾村(現・巣市)にあると考えられている。 河角廣 (1951) は北緯35.6度、東経136.6度に震央を仮定し規模 Mk = 7.0 を与え[2]、マグニチュードは M = 8.4 に換算されているが、明治・大正期の地震については0.5程度大きく見積もられ

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  • 地震波 - Wikipedia

    S波 表面波 ラブ波 レイリー波 地震波(じしんは、英: seismic wave[1]、earthquake wave[1])は、地震により発生する波。 地震波の種類[編集] 地震波は、実体波と表面波に分類することができる[2]。 実体波[編集] 「表面波」に対して、媒体内部で粗密やたわみなどの変位が伝播していくものを実体波 (body wave) という。 P波 (P-wave)[編集] Primary wave(第1波)の略。進行方向に平行に振動する弾性波。固体・液体・気体を伝わる。速度は岩盤中で5 - 7キロメートル/秒、地震発生時最初に到達する地震波で、初期微動を起こす。海上の船舶においては、観測される海震はこれによる。 P波の速度は、以下の式で表される(ただし、は弾性体のラメ定数、は密度)[3]。 S波 (S-wave)[編集] Secondary wave(第2波)の略。進行

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  • 武彦王妃佐紀子女王 - Wikipedia

    武彦王妃 佐紀子女王(たけひこおうひ さきこじょおう、1903年〈明治36年〉3月30日 - 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日の皇族。賀陽宮邦憲王と同妃好子の第2王女子。山階宮武彦王の妃。 生涯[編集] 1903年(明治36年)3月30日午後5時、賀陽宮邦憲王と同妃好子の第2王女子(第3子)として誕生[1]。京都府立第一高等女学校を卒業[2]。 1921年(大正10年)2月、山階宮武彦王と婚約が内定したと報じられた[3]が、複数回延期された。1922年(大正11年)7月19日午前9時に結婚の儀を執り行い[4]、山階宮武彦王と結婚した[5]。 翌1923年(大正12年)9月1日、佐紀子女王は第1子を懐妊し、母・好子妃とともに神奈川県鎌倉市の由比ヶ浜別邸で静養していたところ、関東大震災で別邸が崩壊し、同日薨去した[6]。圧死であった[7]。 佐紀子女王を守ろうと、好子妃や侍女、そして

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  • 安政南海地震 - Wikipedia

    安政南海地震(あんせい なんかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に発生した南海地震[注 2]である。 南海トラフ巨大地震の1つとされ、約32時間前[注 3]に発生した安政東海地震と共に安政地震[6]、安政大地震とも総称される[7]。この地震が起きた当時の文書には嘉永七年と記録されているが[8]、この天変地異や内裏炎上、前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年(1854年)であることから安政を冠して呼ばれる[9]。当時は寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた。 江戸時代の関連地震[編集] 江戸時代には南海トラフ沿いが震源域と考えられている巨大地震として、この他に宝永4年(1707年)の宝永地震の記録がある。宝永地震と安政地震の再来間隔147年は従来の定説では、1361年正平地震以降の南海トラフ巨大地震の平均再来間隔117年より

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  • 関東大震災 - Wikipedia

    この項目では、1923年に発生した地震による震災について説明しています。 震災を引き起こした地震については「関東地震」をご覧ください。 相模トラフ沿いの海溝型地震全般については「相模トラフ巨大地震」をご覧ください。 南関東の直下型地震全般については「南関東直下地震」をご覧ください。 関東大震災による惨状(横浜市中区) 関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分[1][2]、日時間、以下同様)に発生した関東地震(関東大地震、大正関東地震)によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害[注釈 1]。死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日の地震被害としては最大規模の被害となっている。 概要[編集] 当時の東京府東京市(東京15区)。 円太郎バス(旧:交通博物館蔵)。 震災後の神奈川県庁。 神奈川県および東京府(現:東京都

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  • 関東地震 - Wikipedia

    関東地震(かんとうじしん)は、1923年(大正12年)9月1日に南関東を中心に発生した巨大地震であり[10][11]、関東大震災を引き起こしたことで知られる[12]。関東大地震(かんとうおおじしん、かんとうだいじしん)とも呼称される[13][14][15]。 なお、元禄16年(1703年)の地震も地震と類似のメカニズムで起こったと考えられており、地震を大正関東地震、1703年の地震を元禄関東地震と称する場合もある[16][17][18]。また、これらの地震は相模トラフのプレート境界に沿って発生したと考えられており[19]、相模トラフ巨大地震とも総称される[20](この相模トラフ沿いで発生したと考えられている巨大地震も一般に「関東地震」と総称することがある[21])。 概要[編集] 地震のメカニズムは、金森博雄(1971)のモデルによれば、震源域は三浦半島の延長線方向の相模トラフの走行

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  • 文禄 - Wikipedia

    文禄(ぶんろく、(旧字体: 文祿)は、日の元号の一つ。天正の後、慶長の前。1592年から1596年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、征夷大将軍は不在。 改元[編集] 天正20年12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日[注釈 1]) 改元理由は後陽成天皇の代始改元だが、即位6年目という歴史上3番目に長い遅滞で[注釈 2]、豊臣秀次の関白就任による改元という説[2]がある。 文禄5年10月27日(グレゴリオ暦1596年12月16日) 慶長に改元 文禄への改元は、「武家関白制」を採った豊臣政権最初の改元であり、新天皇の代始改元を行いたかった公家側の希望と日全国の平定を果たした武家側の要請が一致して実施された改元であると考えられている[3]。秀次関白就任1年後に改元され、さらに秀次切腹事件の1年後[注釈 3]、慶長へと豊臣政権2度目の改元に至った。 出典[編集] 杜佑『通典職官

  • 慶長 - Wikipedia

    また、大きな出来事として慶長5年の関ヶ原の戦い、徳川家康による慶長8年の江戸幕府開府、慶長19年~20年の大坂冬の陣・夏の陣を経て大坂城の落城(豊臣氏滅亡・元和偃武)などがあり、この年間で時代が大きく動くこととなった。 年表[編集] 元(1596)年 12月17日 - 豊臣秀吉の子の拾が元服(のちの豊臣秀頼) 12月19日 - 二十六聖人の殉教事件 2(1597)年 1月14日 - 慶長の役始まる 3月1日 - 浅間山が噴火 3(1598)年 4月8日 - 浅間山が噴火 8月18日 - 豊臣秀吉死去 4(1599)年 閏3月3日 - 勅版の『日書紀神代巻』刊行 9月28日 - 徳川家康が、大坂城西の丸に入る 5(1600)年 3月16日 - オランダ船リーフデ号、豊後に漂着 6月16日 - 徳川家康、豊臣家大老として会津征伐を決行。遠征軍を自ら率いて大坂城を進発 8月1日 - 伏見城の戦

  • 慶長大地震 - Wikipedia

    慶長大地震(けいちょうおおじしん)は慶長年間(1596年 - 1615年)に日列島で起こった地震。慶長の大地震(けいちょうのおおじしん)ともいう。ただし、正確には慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震発生は文禄5年であり、その後、これらの天変地異を期に文禄から慶長に改元されているため、歴史年表上では慶長元年となる。 なお、1596年の3つの地震は記録の日付が錯綜しており、慶長豊後地震発生の日は9月1日[1]、9月4日説[2]、あるいは両方に起こったとするものもある[3]。また、1605年の慶長地震は定説であった南海トラフが震源ではないという異論も出され[4][5]、さらに従来三陸沖が震源とされてきた1611年の慶長三陸地震も北海道太平洋沖に震源を持つ超巨大地震との説が出されるなど[6]、震源域に諸説あって不明なものも多い。 慶長年間の主な地震[編集] 発震日時は全てグレゴリオ暦。 慶長

    toya
    toya 2018/06/18
    これは改元せざるを得ない……
  • 慶長豊後地震 - Wikipedia

    慶長豊後地震(けいちょうぶんごじしん)は、1596年9月4日(文禄5年閏7月12日)、あるいは1596年9月1日(文禄5年閏7月9日)に豊後国(現在の大分県)で発生した地震である。別府湾地震、大分地震などとも呼ばれる。死者800余人[注 3]。 この地震によって別府湾にあった瓜生島及び久光島の2島が沈んだと伝えられる。ただし、これらの島は実在自体が未確認であり、瓜生島は島ではなく沖ノ浜と呼ばれる沿岸の港町であったとする説等もある。臼杵藩の記録『稲葉家譜』[注 4]には津波が豊府沖浜を襲い溺死者を出したとある[2]。『府内旧記』[注 5]には「勢家村二十余町を隔てて、瓜生島あり、或は沖ノ浜と云ふ。」とある[3]。 概要[編集] 震源地は現在の大分県の別府湾口で、マグニチュードは6.9-7.8と推定される。中央構造線断層帯および別府湾-日出生断層帯[4]東部を震源断層として発生した大陸プレート

    慶長豊後地震 - Wikipedia
  • 慶長伏見地震 - Wikipedia

    慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)は、文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)子の刻に山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震である。慶長伏見大地震とも呼称される。 推定マグニチュードは7.5前後で、畿内の広範囲で震度6相当の揺れであったと推計されている。京都では伏見城天守や東寺、天龍寺、方広寺大仏(京の大仏)等が倒壊し、死者は1,000人を超えたとされる。 概要[編集] エンゲルベルト・ケンペルの方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ[3]。ただし、描かれている大仏は江戸時代に再建されたもので、秀吉が造立した頃の大仏ではない。 現在の京都・伏見付近の有馬-高槻断層帯および六甲・淡路島断層帯を震源断層として発生したマグニチュード(M) 7.25-7.75程度と推定される内陸地殻内地震(直下型地震)である[4]。地震による死者数の合計は京都や堺で1,000人以上を数え

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  • 根府川駅列車転落事故 - Wikipedia

    根府川駅列車転落事故(ねぶかわえきれっしゃてんらくじこ)は、1923年(大正12年)9月1日に発生した列車脱線事故である。 神奈川県足柄下郡片浦村[注釈 4](現在の小田原市)の根府川駅付近で、東京発真鶴行普通第109列車(960形蒸気機関車977牽引、ボギー客車8両)が、熱海線(現在の東海道線)根府川駅のホームに入線しかけたところで大正関東地震によって引き起こされた地滑りによる土石流に遭遇し、根府川駅の駅舎やホームなどの構造物もろとも海側に脱線転覆して最後部の客車2両を残して全てが海中に没してしまった[注釈 1][4]。 この事故に遭遇した列車の乗員乗客と根府川駅にいた乗客及び駅勤務職員のうち、112人が死亡(行方不明を含む)、13人が負傷した[注釈 3][2]。事故であるとともに関東大震災に含まれる災害でもある。 根府川駅付近ではこの事故以外にも大規模な土石流が発生し、根府川地区や米

    根府川駅列車転落事故 - Wikipedia
  • リスボン地震 (1755年) - Wikipedia

    1755年のリスボン地震(リスボンじしん、ポルトガル語: Sismo de Lisboa de 1755、英語: 1755 Lisbon earthquake)は、1755年11月1日に発生した巨大地震である。リスボン大震災(リスボンだいしんさい)あるいはリスボン大地震[1](リスボンおおじしん)などとも言う。 9時40分に[2] 西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こり、ポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した。津波による死者1万人を含む、5万5,000人から6万2,000人が死亡した。推定されるマグニチュードはMw8.5〜9.0の巨大地震であったと考えられている[3]。震源はサン・ヴィセンテ岬の西南西約200kmと推定されている[4]。 この震災は近代の扉を開いたとされ、国家が直後の対応と復興に責任を持った最初の近代的災害といわれ、ヨーロッパ社会に多岐に影響を与え新しい科学や技術

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