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ブックマーク / blog.drecom.jp/tactac (1)

  • 転載:原田和明「水俣秘密工場」3-4-タカマサのきまぐれ時評

    大学から有機水銀説が出された直後(1959年8月)に 化学工業を所管する軽工業局長に就任した秋山武夫は、厚生省の国会における水俣工場名指し発言にも、被害の拡大にも、そして核心となる有機水銀説が出されても、結果としてアセトアルデヒド製造を支障なく続けさせながら、水俣病を闇に葬ることに成功しています。まるでそのような任務を背負って局長に就任したかのように。その彼が後にチッソ水俣病関西訴訟で証人尋問(1986年11月17日)にたち、次のように語っています。 原告側弁護士「かつて浦安の漁民がパルプ廃液の被害を 訴えたとき、州製紙江戸川工場は操業を停止した。水俣 では人が死んでいるのに、なぜ操業停止を命じなかったの か?」 秋山「チッソが占める重要度の比率が違う。経済価値なり 周囲に与える影響なりを考えると、紙もアセトアルデヒド も同じだという結論にはならないはずだ」 通産省の

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