タグ

読書中とブラジルに関するtakahiro_kiharaのブックマーク (2)

  • [ブラジル駐在経験者のリレーエッセイ] イタリアを知ればブラジルもわかる | 日本ブラジル中央協会 WEB SITE

    ジェトロ・サンパウロ所長として、2003年11月に赴任した。ブラジルには、それまで10回以上出張していたが、駐在は初めての経験であった。当初の予想に反して、極めてスムースにサンパウロ生活に融け込むことができた。その理由を自分なりに考えてみたが、イタリアのミラノ駐在経験が役立ったというのが結論である。ブラジルは2億人を超える人口を持つ世界第5位の人口大国であるが、移民によって成り立っている国である。数多くの移民の中で、一番多いのがイタリア系移民なのである。友人のイタリア貿易振興会のサンパウロ事務所長に言わせれば、8分の1の血の交わりまで入れると4,000~5,000万人くらいになると言う。日系人も150万人くらいと言われているが、同じ計算で行くと4~500万人になろう。サンパウロの名物建築を見てもイタリア系の建築家の設計によるものが多く、ブラジルのショッピングセンターに行くと、店舗のデザイン

    [ブラジル駐在経験者のリレーエッセイ] イタリアを知ればブラジルもわかる | 日本ブラジル中央協会 WEB SITE
  • 第1章 前史 ブラジル移民がはじまるまで(1) | ブラジル移民の100年

    最初の集団での海外移民は、1868年(明治元)に40人余がグアム島、153人がハワイ、1869年(明治2)に40余人がカリフォルニアに渡航したのがはじまりである。 後に「元年者」と呼ばれるようになるこの最初のハワイへの移民は、主にサトウキビ耕地の労働者として、横浜駐在のハワイ領事ヴァン・リード(Eugene M. Van Reed)が日人の口入屋を使って京浜地区で集めた人たちであった。職人が中心であったが、農民や武士も含まれていた。 ヴァン・リードは、幕府から渡航印章(旅券)の発給を受けていたが、明治新政府がこれを認めなかったために、許可のないまま渡航を強行した。 移民を乗せたサイオト(Scioto)号は1868年5月17日(慶応4年4月25日)未明に横浜を出帆、1868年6月20日(慶応4年5月1日)ホノルル港に到着した。 ホノルルまでの航海は順調であったが、農場に入った後、移民た

  • 1