当連載は、日本在住15年の〝職業はドイツ人〟ことマライ・メントラインさんが、日常のなかで気になる言葉を収集する新感覚日本語エッセイです。 名詞「外タレ」 「外タレ」とは「外国人タレント」の略称であるが、正式名称よりもモノゴトの本質ニュアンスを突いた単語という印象を受ける。その本質とは、 ・ちょっとやそっとでは真似のできない語学力 ・ちょっとやそっとでは真似のできない表現力 ・ちょっとやそっとでは真似のできないインチキくささ に対する羨望と揶揄のミックスだ。要するに、詐欺であることの証明が難しい詐欺師の一種みたいなものだけど、基本的に悪意はないのでそんなに嫌われていない、的なビミョーな存在である。いや、だったというべきか。 外タレという単語の浸透度は高いが、いま二〇二〇年代の日常会話で頻出するかといえばそうでもない。バブル期に発生したパワーワードが、時代の空気のマイルストーンとして現在なお一
当連載は、日本在住15年の〝職業はドイツ人〟ことマライ・メントラインさんが、日常のなかで気になる言葉を収集する新感覚日本語エッセイです。 名詞「四季」 観光CMとかで 「日本には、四季があります!!」 という明るい売り言葉をよく耳にするが、じゃあ外国には四季が無いのかよ、とそのたびに思う。観光用アピールであれば「日本には、日本ならではの、濃厚でいけてる四季があります!」みたいな路線で洗練されたキャッチコピーにすりゃいいのに、なぜ有る無しの極端な思考になってしまうのか? と思っていたら。 Twitterで紙魚エビさん(@bookfishswim)という方が極めて興味深い文化ツッコミをなさっていた。 学生の作文、「日本人はおもてなしの心を持っているので」とか「日本には四季があるので」とかが頻出して、そのたび「他の国の人にはおもてなしの心がないみたいですがそんなことはありませんね」「四季は多くの
アンデルセンの『人魚姫』についてはだれでもご存知なことだろう。賛否両論を呼んだディズニー映画『リトル・マーメイド』の原作である。 しかし、その『人魚姫』に世間では知られた悲劇的な結末の「続き」があることまで知っている人はどのくらいいるものだろうか。 完訳 アンデルセン童話集 1 (小学館ファンタジー文庫) 作者:いたやさとし 小学館 Amazon べつだん、「続編」という意味ではない。そうではなく、そもそも世間的に認知されている『人魚姫』の物語は終盤の描写がカットされたシロモノなのだ。 原典のクライマックスでは、人魚姫はあわとなって消え去ったかと思われたそのとき、空気の精ともいうべき不死の存在と化す。 その時、お日様が海からのぼりました。その光は、死のように冷たい海のあわを、おだやかに暖かく照らしました。人魚姫はすこしも死んだような気がしませんでした。キラキラ光るお日様の方を仰ぎますと、な
夜が更けた帰り道、親の運転する車の窓から見上げる、「静かに」と書かれた青い看板が好きだった。お出掛けが終わってしまう“寂しさ”と、知っている場所に帰ってきた“安心感”がないまぜになったような感覚。幼心に芽生えたちょっとだけ複雑な感情が、あの看板に今でも宿っているような気がする。 そもそも、道路標識というものは、運転中にドライバーが目にするものだから、注意喚起するわりには情報量が少ない。じっくり読ませてしまったら事故を起こしてしまうから。「結局のところ、どういう意味なんだっけ?」と混乱することもあるが、効率や機能性を追い求めるこの情報社会において、あの“抜け感”がちょっと心地よいのだ。 個人的に「普通自転車等及び歩行者等専用」(得体の知れない物語性*1)とか「動物が飛び出すおそれあり」(シカ、タヌキ、サル、ウサギなどバリエーションがあるところかわいい)の標識あたりが好き。 そういった道路標識
◎ 現在では、 コンピューターと云う言葉は 「電子計算機」 を指しているが、 そもそもは 「コンピューター」 と云う言葉は人間の職業名であった。 研究機関や企業にあって数学的な計算を担当していた人びとを指していた。 通常、 数人でチームを構成し、 巨大で複雑な計算を分担して、 同時並行的に行った。 来る日も来る日も、 対数表を片手に手計算か、 もしくは手回し式の計算機で計算をした。 彼らは 「計算手」 (computer) と呼ばれた。 「コンピューター」 と云う言葉は、 もともとは、 こうした人たちのことであった。 若手の研究者たちが、 この仕事を命じられていた。 しかし、 ハーバード大学天文台のエドワード・ピカリングが、 1900年頃、 天文台の計算手として大量の女性を採用したことから、 にわかに女性で計算手になる者が多くなり、 更に、 第2次大戦で、 男子の若手研究者が徴兵されて減っ
●病気と療養の概要 ●情報•判断•処理の能力とコスト ●癌の費用と「がん保険」 ●髪の毛や酒の「真の損得勘定」 ●時間の最適化としての人生 病気と療養の概要 筆者は昨年、癌に罹った。食道癌である。本稿執筆の時点で(2023年1月下旬)、手術からの回復過程にあるが、再発防止目的の薬剤を投与するために一月に1、2度通院している。癌は全てが投資やお金と関係する訳ではないが、本人にとって不確実性下の意思決定問題である点が投資と似ている。 今回は、自分で癌に罹り、治療に臨んでみて、何を感じ且つ考えたかについて率直に書いてみよう。今後に公開する動画で、筆者の風貌が少し変わっている(数キロ痩せて、髪の毛が減っている)理由の説明にもなるだろう。 尚、投資の文章では末尾などに「投資判断はご自身で行って下さい」としばしば注記されているが、本稿の性質もそれに似ている。筆者の治療方針の選択や意思決定は一例であって
疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために人と人が会う機会があきらかに減った。わたしはそれに危機感をおぼえ、人とのコミュニケーションの場や出会いの場を工夫して増やした。 友人が減ってもかまわない人もあるのだろうが、わたしはそうではない。若いころから意識的にさまざまな形式で親しい人をつくり(形式というのは友人とか恋人とか、そういうのです)、その人々によくするように心がけ、長期的にはそれが返ってくることを期待してやってきた。わたしにとってわたしを大切にしてくれる他者は運命のように与えられるものではなく、また一度得たらずっと持っていられるものでもなく、自分から獲得しに行き、相互に定期的にその必要性を判断するもので、だから原則として時が経てば減るものだ。 わたしにこのような感覚が芽生えたのは十九歳のときである。それまでは環境によって人間関係を与えられるような感
第18回世界宇宙飛行士会議の開催に合わせ来日したバズ・オルドリン氏は、多忙な滞在スケジュールを割いてJAXAのビデオインタビューに応じてくれた。日本科学未来館で行われている「人類が創る宇宙史展」のメイン展示物である月着陸船の模型の前に立つオルドリン氏への最初の質問は「月に行った頃のあなたは、21世紀初めに人類はどのような宇宙時代を迎えていると想像したか?」。この質問に、目を閉じて答えてもらった。 バズ・オルドリン Buzz. Aldrin 1930年1月20日、米ニュージャージー州生まれ。米陸軍士官学校を卒業し、マ サチューセッツ工科大学で宇宙航法学の博士号を取得。米空軍パイロットとし て朝鮮戦争に従軍。1963年NASAの宇宙飛行士に選ばれ、1966年11月ジェミニ 12号に搭乗、船外活動などを行う。1969年、ニール・アームストロング、マイ ケル・コリンズ両飛行士とともにアポロ11号の
長らく非モテで困っていた私が、当時働いていた秋葉原のLASER5社の取引先のひとつだたワコムの「おっさん」から呼び出されたのは夏過ぎだったと思う。ワコムは言わずと知れた、創業者が統一教会だけどあんまりそれっぽくないと当時から話題となっていた、液タブなどを手掛けるまともな製造業の会社さんである。昔もいまも、ワコムには悪い印象そのものはない。 美味しくない末広町のランチブッフェ(速攻潰れた)の派手な赤チェック内装でパスタランチをおごってくれるというので足を向けたのだが、当時はすでに私自身が投資で成功しつつあって、少し自信過剰になっていたのもよろしくなかったと思う。当時は気も大きくなって、誰とでも会い、仲良くするのが人間同士の付き合いだと思い込みすぎていた。 美味しくないランチブッフェでまず言われたのは「山本さん、お相手がいないんだってね」という単刀直入すぎる切り出しから来た「いつでもいい人紹介
追記 07/20 21:09これ書いたでしょってライン来て妻帰宅後にちょっと話した。 妻、今の職場に3日くらい前に退職希望と伝えていて手続きも進んでいるらしい。 今回は妻の希望の職場・地域(妻の地元近く)に合わせて転居して、 そのかわり私はフルリモートで働けるポジションに移動したりと色々あったから、 なんとなく言い出しづらかったようだ。 よかった、ほっっとした。 とりあえず学位がほしいということだから、大学の資料などいろいろ取り寄せの申込みした。 入学の条件は満たしてるしUoPeopleなんかいいと思うんだけどな。 妻が「いろんなことに興味があってどの学部に行くか迷う」と言うから、 「なにも編入じゃなくて、高校生に混じって受験したっていいじゃない。お金にならない勉強でもなんでもいいよ」と言ったら、ニカッと笑った。 なんて二人でいろいろ想像しながら話してたら妻もにこにこしてきて、 久々に明る
ずいぶん間が空いた山形月報ですが、今回は文学好きの間では話題ながらも難物と言われるコーマック・マッカーシー遺作2部作を中心に、ホームズの格闘術と、財政金融政策の話。文学にネタのような真面目な格闘術、さらには経済話といつもながらバラバラですが、さて、どんな話になるでしょうか! ずいぶん間が開いた (一年以上かよ!)。いつもながら、採りあげるつもり満々の本が一冊あって、それをどう料理しようか考えるうちに、ずるずる先送りになってしまうというありがちな話ではあります。 で、今回扱うのは、それではない。 コーマック・マッカーシーの遺作となる2部作『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』だ。 マッカーシー『通り過ぎゆく者』 コーマック・マッカーシーは、現代にあって、本当の意味での文学を書けた数少ない作家の一人だ。そして、それは文学というものの意義が変わってきた現代では、決して容易なことではない。 村上龍は
この記事で書きたいことは、大筋下記のようなことです。 ・「これは問題だ」「だから改善したい」と、自分ごととして真剣に考えてくれる人というのは極めて希少です ・ただ「便利になる」というだけでは誰も動かないし、どんなにいいものを作っても使ってもらえません ・当事者意識を「持ってもらう」ということは基本的に出来ません ・当事者意識を持っている人を別に探し出すことで、なんとか状況を打開出来る場合もあります ・だから、「この人は当事者意識を持ってくれている/くれていない」を嗅ぎ分ける能力はとても重要です よろしくお願いします。 さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。 以前にも書いたことがありますが、私はかつて、システム開発の会社に勤めていました。 社員数は4桁に届かないくらいで、SI案件とSES案件が大体半々くらい、自社業務と客先常駐も大体半々くらいという
その誕生を地元新聞も経済新聞も記事にしなかった。2年後、『コードの情報を白黒の点の組み合わせに置き換える』と最下段のベタ記事で初めて紹介された時、その形を思い浮かべることができる読者はいなかった。いま、説明の必要すらない。QRコードはなぜ開発され、どう動くのだろうか。 QRコードは、自動車生産ラインの切実な要請と非自動車部門の技術者の「世界標準の発明をしたい」という野心の微妙な混交の下、1990年代前半の日本電装(現デンソー)で開発された。 トヨタグループの生産現場では、部品名と数量の記された物理的なカンバンが発注書、納品書として行き来することで在庫を管理する。そのデータ入力を自動化するバーコード(NDコード)を開発したのがデンソーだ。 バブル全盛の1990年ごろ、空前の生産台数、多様な車種・オプションに応えるため、部品も納入業者も急激に増え、NDコードが限界を迎えていた。63桁の数字しか
東急田園都市線は渋谷駅から東京メトロ半蔵門線に乗り入れていますが、かつては別のルートから都心アクセスが計画されていました。もしかすると、「大きな丸ノ内線」のような線形になっていたかもしれません。 「半蔵門線乗り入れ」が決まるまでの道のり 渋谷と中央林間をむすぶ東急田園都市線は、東京メトロ半蔵門線に乗り入れて東武線方面にも足を延ばす、広大な鉄道ネットワークの一部となっています。このネットワークの原点となったのは1977(昭和52)年、渋谷~二子玉川間の地下新線「新玉川線」の開業でした。 東急田園都市線の8500系電車(恵 知仁撮影)。 それまで渋谷~二子玉川は「東急玉川線」という路線で、路面電車がトコトコと東京の街を走っていました。いっぽう田園都市線は二子玉川を起点に長津田方面へ伸びる路線でしたが、大井町線とはほぼ一本の路線のような扱いでつながっており、そもそも1966(昭和41)年から19
僕が小学校に行ってた頃ね、日本は戦争してたでしょ、戦地の兵隊さんに手紙を書きましょうなんて宿題が出るわけ、僕は何書いていいかわからないんだ、母にそう言うと、自分のことを書けばいいのよと言われる、そこでまた困っちゃうんだ、自分のことって何書けばいいのって言うと、遊んだことでも、勉強したことでもなんでもいいのよと母は言う、そうすると頭に浮かぶのは、朝起きて顔を洗って朝ごはんを食べてみたいなこと、子供心にも全然面白くない、いやいや鉛筆でひらがなと漢字を書いていた。 今考えるとこれは一種のトラウマになったんじゃないかな。文章を書くのはとにかく苦手、それより前に字を書くのが既に苦痛だった。思うように字が書けない、しょっちゅう母親に直されていた、大人になってからも字が上手く書けない。それが字を書いて言葉を操ることで暮らしを立てるようになったんだからわからない。「詩」というものが存在してなかったら、僕は
芥川賞作家で元東京都知事の石原慎太郎氏が2月1日に東京都内の自宅で亡くなった。89歳。岸田首相が「政治の世界における偉大な先達が、またお一人お亡くなりになられたことは寂しい限りだ」と述べたほか、各界から哀悼の声が上がっている。 大型スクリーンの映画館やミニシアターなどが次々と廃業していた時期に、どこかの記者が、苦境に立つ映画館を救済する施策を考えないのか、と定例記者会見の場で当時の都知事に問うた。知事は、今は便利なレンタルでいくらでも映画が観られるんだからいいじゃないか的なことを言って、救ってやる義理はないという態度を示した。 質問した記者は当然、かつて自らの脚本で弟を銀幕の大スターに押し上げた知事の映画愛を意識していたのだろうが、少なくとも映画館愛は特にない様子の、妙にあっさりした返答に、会見場はふわっと苦笑した。 「日経新聞記者はAV女優だった!」という週刊文春の取材記事によると当時記
ローテーブルの前で片膝を立てて、僕はネタを考えていた。 無音にしたテレビ画面には、津波の映像や、悲しみに暮れる人々が映っている。 東日本大震災から、数日が経った夜だった。 ゴールデンウィークに単独ライブを控えており、そのチケットはすでに発売されていた。 僕はその台本を書かなくてはならなかったが、どうにも集中することができないのだった。 こんなときに、自分はいったい何をやっているんだ? いま「面白いこと」を考えるなど、許されるはずがないだろ——。 いっそテレビを消してしまえば、いくらか現実を忘れられるのかもしれないが、僕にはそうする勇気も持てなかった。 このまま当日を迎えたら、一番困るのは自分だ。何より、チケットを買ってくれた人たちにどんな言い訳をするつもりなんだ? そんなふうに自分に言い聞かせながら、目の前に広げられた大学ノートを睨んだ。そこに書かれたコント設定やセリフの断片を、頭の中で膨
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