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グルジアに関するkousyouのブックマーク (14)

  • 「祈り 三部作」<祈り><希望の樹><懺悔>|8月4日(土)よりロードショー

    世界中に分断と対立が広がる現代に贈るジョージア(グルジア)映画界伝説の巨匠テンギズ・アブラゼ監督渾身のトリロジー「祈り 三部作」岩波ホール創立50周年記念 特別企画〈祈り〉〈希望の樹〉〈懺悔 ざんげ〉。8月4日(土)より岩波ホールほか全国順次公開

    「祈り 三部作」<祈り><希望の樹><懺悔>|8月4日(土)よりロードショー
  • グルジアのことは「ジョージア」ではなく「サカルトヴェロ」と呼ぼう - Danas je lep dan.

    カフカース山脈に位置する小国グルジアが自国呼称の変更を日に対して求めていることは以前より知られていたが,どうやら政府は格的に名称変更に乗り出すらしい。 (……)外務省も呼称を変えるべく次期国会に法案を準備している。同国から「グルジアはロシア語で、ジョージアと呼んでほしい」と求められているからだ。(……) 同国は6月末、ウクライナ、モルドバと共に欧州連合(EU)との連合協定に署名した。かつてソ連の一部だった同国は、これによって欧米との絆を確固としたものにした。呼称変更を日政府に求めるのも、ソ連離れとも関係しているのだろう。 外務省が国の呼称を変えた例はベトナム(以前はヴィエトナム)とコートジボワール(以前は象牙海岸)がある。「先方の要望もあり国会は通るでしょう」と外務省。そうなるとマスコミも「ジョージア」と呼び、表記することになる。(客員編集委員)金言:「ジョージア」に変わる?=西川恵

  • 「パンドラの箱を開けたのは誰だ」CNNのプーチン首相独占インタビュー» 暗いニュースリンク

    2008年8月28日木曜日、黒海に面したロシアのリゾート地であり、2014年の冬季オリンピック開催予定地でもあるソチを訪問中のロシア首相ウラジミール・プーチンに、CNN特派員マシュー・チャンスが独占インタビューを行った。今回はCNNサイトに掲載されたインタビュー内容全文を以下に翻訳した。(CNNのインタビュー映像リンク) CNNのインタビュー中、プーチン首相はロシア、グルジア及び南オセチア自治州の歴史的経緯について詳細に説明し、米国への経済制裁(実効性は疑問)を示唆している。また、G8(主要国首脳会議)から除外される可能性については、「インドと中国が参加しない経済会議など意味がない」と一蹴、さらにきわめて率直にアメリカ批判、特にメディア工作批判を展開している。 また、インタビューの中でプーチン首相は、8月7日に勃発したグルジア紛争は、2008年大統領選挙における政策課題にするために、米政府

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  • 世紀の祭典の裏で勃発したグルジア紛争の意外な影響先 - ビジネススタイル - nikkei BPnet

    世紀の祭典の裏で勃発したグルジア紛争の意外な影響先 「北島康介選手が金メダル獲得」や「柔道が意外に精彩を欠いた」など、この2週間、新聞やテレビはほとんどオリンピックで埋め尽くされている。 そのオリンピック報道の影響で新聞の左端に追いやられた形になり、多くの人があまり注目していないが、実は今、相当大きな問題となっているのが、グルジア情勢だ。 このグルジア問題は、アメリカの大統領選の結果をひっくり返す可能性もあるのだ。 グルジアとロシアはなぜ戦争するのか オリンピックが開会した8日、突然グルジアとロシア戦争状態になった。何が起きたのかよくわからない中で、フランスのサルコジ大統領が調整に乗り出した。ドイツのメルケル首相がロシアを批判している。 このような報道が目に付く。 しかしこれだけでは、なぜグルジアとロシア戦争になったのか、よくわからない。ただ出来事ばかりが報道されてきた。

  • 傷ついたプライドのせいで発火、南オセチアの偶発戦争――フィナンシャル・タイムズ(フィナンシャル・タイムズ) - goo ニュース

    傷ついたプライドのせいで発火、南オセチアの偶発戦争――フィナンシャル・タイムズ 2008年8月11日(月)20:57 (フィナンシャル・タイムズ 2008年8月10日初出 翻訳gooニュース) クインティン・ピール ロシアもグルジアも今、お互いに必死になって中傷合戦を戦っている。コーカサス地方で勃発してしまった血みどろの小規模戦争において、最初に仕掛けたのはほかでもない相手だと、侵略者のレッテルを押し付け合っているのだ。 ロシア側によると、グルジアの血気盛んなミヘイル・サアカシュビリ大統領が先週わざと、南オセチアの分離勢力に全面攻撃を仕掛けたのが、ことのきっかけということになる。自治州の支配権回復をもくろんだグルジア大統領は、ロシアは直ちに反応しないだろうとあてこんでの動いたのだと、ロシア側はそう言う。 一方のグルジア側はそうではなくて、ことを裏で操っていたのはロシア政府だと主

  • 南オセチア紛争 (2008年) - Wikipedia

    1995年のコーカサス地方の民族地図: オセット人は北および南オセチア、グルジア中央部に分布している。 この紛争の背景には、昔このあたり一帯をソビエト連邦が支配していたこと、そのソ連がいくつかの自治共和国による連邦制の形を取っていたこと、その区分がこのあたりに暮らしていたグルジア人、オセット人(オセチア人)、アブハズ人(アブハジア人)の居住地域と一致していなかったことと深くかかわりがある。 このあたりは19世紀初頭から徐々にロシア帝国に併合されていき、19世紀の終わりには完全にロシアの支配下に入った。そのロシアが1917年に滅びたのを受け、グルジアは1918年に一時的にロシアからの独立を果たすものの、1922年にはロシア帝国の後を継いだソビエト連邦に再び併合された。その際に南オセチアはグルジア・ソビエト社会主義共和国内の自治州となり、北オセチアはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内の自治州

    南オセチア紛争 (2008年) - Wikipedia
  • グルジア・ソビエト社会主義共和国 - Wikipedia

    註1 : 首相の肩書は1946年までは人民委員会議議長、それ以降は閣僚会議議長である。 グルジア・ソビエト社会主義共和国(グルジア・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、グルジア語: საქართველოს საბჭოთა სოციალისტური რესპუბლიკა[1];ロシア語: Грузинская Советская Социалистическая Республика[2])、略称でグルジア共和国(グルジアきょうわこく)は、ソビエト連邦構成共和国の一つである。現在のジョージアの前身に当たる[注釈 1]。 沿革[編集] 1921年2月25日に「グルジア社会主義ソビエト共和国」として設立された。1922年3月12日から1936年12月5日までは、アルメニア、アゼルバイジャンとともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の一部となった。1936年にザカフカース共和国は解体された。ヨ

    グルジア・ソビエト社会主義共和国 - Wikipedia
  • 南オセチア紛争 - Wikipedia

    ジョージア国内の紛争 南オセチア紛争 アブハジア紛争 バラ革命 (2003年) アジャリア危機(英語版) (2004年) 2006年の危機 北オセチアパイプライン破壊事件英語版) ワイン輸入停止(英語版) コドリ危機(英語版) スパイ論争(英語版) ジョージア人国外追放(英語版) 2007年の領空侵犯 ヘリコプター事件英語版) ミサイル着弾事件英語版) 航空機墜落事件英語版) 2007年のロシア大使論争 2007年のジョージア国内でのデモ(英語版) 2008年のジョージア・ロシア危機(英語版) 2008年の南オセチア紛争 南オセチア紛争(みなみオセチアふんそう)とは、南オセチアがグルジアに対し独立を求めた紛争のことである。 南オセチア紛争 (1991年-1992年) (英語版):グルジア独立で「南オセチア自治州」が消滅したことにオセット人(オセチア人)が反発して自治権を要求した紛争

    南オセチア紛争 - Wikipedia
  • ズヴィアド・ガムサフルディア - Wikipedia

    ズヴィアド・ガムサフルディア(Zviad Gamsakhurdia、ზვიად კონსტანტინეს ძე გამსახურდია、1939年3月31日 - 1993年12月31日)は、ソ連のグルジア(現・ジョージア)の政治家、作家、文学者。ミングレル系である。民主的に選出された最初のグルジア大統領だが、独裁者とも評される。 1965年から教会の活動に参加し、トビリシのシオニ教会会議議員となった。1970年代始めからグルジア作家連盟会員。 1974年からモスクワの人権擁護家と関係を維持し、人権擁護会報「現行の事件記録」にグルジア国内の事件を定期的に掲載した。同年、「グルジア人権擁護イニシアチブ・グループ」を創設。国際アムネスティ・ソビエト・グループ会員。1975年5月からグルジア語の文学雑誌「オクロス・サツミシ」(金の羊毛)の編集長。1976年から、メラブ・コスタワと共同でもう1つのグ

    ズヴィアド・ガムサフルディア - Wikipedia
  • 南オセチア - Wikipedia

    南オセチア(みなみオセチア、オセット語: Хуссар Ирыстон)[3]、公式には南オセチア共和国・アラニア国[4]またはツヒンヴァリ地域(グルジア語: ცხინვალის რეგიონი)は、南コーカサスの事実上の国家である[5]。大コーカサス山脈の南側に位置し、面積3900平方キロメートル、人口5万3000人強、首都ツヒンヴァリには3万人が居住している(公式発表)。ロシア、ベネズエラ、ニカラグア、ナウル、シリアは、南オセチア共和国(またはアラニア国)の分離主義的な政治を承認している[6]。ジョージアは南オセチアを支配していないが、ジョージア政府および国際連合のほとんどの加盟国は同地域をジョージアの一部と考えている。ジョージア憲法では、1990年に解散した南オセチア自治州を指して「旧南オセチア自治区」と定めている[7]。 ジョージアは南オセチアの存在を政治的に認めておらず、南オセチ

    南オセチア - Wikipedia
  • ミヘイル・サアカシュヴィリ - Wikipedia

    ミヘイル・サアカシュヴィリ(グルジア語: მიხეილ სააკაშვილი、ウクライナ語: Міхеіл Саакашвілі, ラテン文字: Mikheil Saakashvili、1967年12月21日 – )は、ジョージア及びウクライナ政治家。名はミハイル、姓はサーカシビリ、サアカシュビリ、サアカシビリなどとも表記される。 2003年11月のバラ革命で指導的役割を果たし、2004年から2期にわたってジョージアの大統領を務めた(2004年1月25日 – 2007年11月25日、2008年1月20日 – 2013年11月27日)。2013年に退任したのち、ペトロ・ポロシェンコ大統領よりウクライナ国籍を付与され同国に事実上亡命、ポロシェンコ大統領の顧問およびオデッサ州知事を務めた。2017年7月にウクライナ国籍を剥奪されたが、2019年5月28日にウォロディミル・ゼレンスキー大統領によ

    ミヘイル・サアカシュヴィリ - Wikipedia
  • バラ革命 - Wikipedia

    議会議事堂でグルジア王国時代の国旗を掲げてデモを行う市民 2003年11月8日 バラ革命(バラかくめい、グルジア語:ვარდების რევოლუცია vardebis revolucia)は、2003年にジョージア(グルジア)で起こった、エドゥアルド・シェワルナゼを大統領辞任に追い込んだ暴力を伴わない革命である。 背景[編集] グルジアでは1992年以降、シェワルナゼを最高指導者とした統治体制が築かれていた。シェワルナゼ政権は漸進的で穏健な統治を推進していたが、しかしそのことが体制内に事なかれ主義を蔓延させ、政権周囲の一派にグルジアの経済成長を阻害することになる汚職が拡大していく原因となった。当時のグルジアは西欧の水準から見て経済の状態が非常に乏しいものであり(旧ソ連、旧東欧諸国の中では、経済は当初は比較的安定していたほうではあったが、東欧革命後の経済成長の退潮も影響を及ぼした)、また

    バラ革命 - Wikipedia
  • エドゥアルド・シェワルナゼ - Wikipedia

    エドゥアルド・シェワルナゼ(グルジア語: ედუარდ შევარდნაძე、ロシア語: Эдуард Амвросьевич Шеварднадзе、ラテン文字表記の例:Eduard Amvrosievich Shevardnadze、1928年1月25日 - 2014年7月7日)は、ソビエト連邦及びグルジア(ジョージアに改名)の政治家。1985年から1990年までソビエト連邦の外務大臣を務め、1995年から2003年までグルジア大統領を務めた。ジョージア語の原音を重視する立場からシェヴァルドナゼと表記されることもある。また、シュワルナゼという表記も見られる。 経済の自由化を推し進め、国営企業の民営化や新自由主義を全面的に推進した。親露派の時期も反露派の時期もあった人物であるが、一貫して親米政策を取った。但し政権後期は汚職が蔓延し、またインフラの供給量の少なさも懸念された。2014年に死

    エドゥアルド・シェワルナゼ - Wikipedia
  • ジョージア (国) - Wikipedia

    アブハジアと南オセチアを抜いた人口(2012年)は4,054,382人、面積57,200km2、人口密度70人/km2となる。 ジョージア(グルジア語: საქართველო、IPA: [sakʰartʰʷelo] ( 音声ファイル)、グルジア語ラテン翻字: Sakartvelo、カナ: サカルトヴェロ[3]、英語: Georgia)は、南コーカサスにある共和制国家。首都はトビリシである[4]。七大陸の境にあり、東ヨーロッパ[5][6][7]、もしくは西アジアに区分される[7][8]。北はロシア連邦、南東はアゼルバイジャン、南はアルメニアとトルコと接し、西は黒海に面する。 ロシア内戦中の1921年にグルジア民主共和国が赤軍に占領され、以後ソビエト連邦を構成するグルジア共和国とされたが、ソビエト連邦の崩壊に伴い1991年4月に共和国として独立を回復した[9]。 2008年、ロシア連邦が軍事侵

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