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明治に関するkousyouのブックマーク (101)

  • 「明治国家の終焉 1900年体制の崩壊」坂野 潤治 著

    日露戦争直後、第一次西園寺内閣が成立した明治三十九年(1906)一月から、第一次世界大戦参戦後の第二次大隈内閣による総選挙が行われた大正四年(1915)三月までの間の、桂園時代の誕生から大正政変による体制の崩壊とその余波に関する日の政局を、詳細に史料を紹介していくことで描き出した一冊。 タイトルの「明治国家の終焉 1900年体制の崩壊」とはどういうことか。明治国家はその誕生以来、殖産興業・富国強兵で知られるように積極財政がその基政策として存在していた。明治国家は統一した目標をもっていたのではなく大きく分けて富国(大久保利通)・強兵(西郷隆盛・山縣有朋)・立憲(木戸孝允・伊藤博文)・民主化(板垣退助・大隈重信)などの相対立する目標をもった多数の集団の折衝の過程で運営されていったのである。それぞれの利害が財政に反映される過程でどうしても財政規模は拡大せざるをえず、それは慢性的な財政赤字とし

    「明治国家の終焉 1900年体制の崩壊」坂野 潤治 著
    kousyou
    kousyou 2019/01/26
    “軍閥・官僚を代表する山縣有朋と、民政党という政党を創設した伊藤博文の二人の元勲が諸勢力を束ねて分掌することで成立した明治三十三年(1900)に確立した体制”
  • 「毒虫、触ると死ぬ」明治の姉川地震でもデマ 公文書を滋賀県公開 | 毎日新聞

    当時の東浅井郡役所が姉川地震の被災状況を県に報告した震災記録。「死ニ年」「天ヨリ灰(又毒虫トモ云フ)降リ来リ」などと記されている=滋賀県庁新館3階の県政史料室で2018年10月29日午後1時37分、北出昭撮影 災害時に出回るデマについて考えてもらおうと、1909(明治42)年に死者41人を出した滋賀県北東部の姉川地震の際、「毒虫が降り、触ると死ぬ」などの話が流されたとする公文書を滋賀県が県庁内で公開している。熊地震や西日豪雨でもデマが避難や復旧の妨げになっており、県担当者は「被災者は不安な気持ちからデマを信じやすい。当時の記録を見て、教訓を生かしてほしい」と話している。 公文書は、同年8月14日に発生した姉川地震を受け、当時の東浅井郡役所が県に提出した「震災記録」。明治42年は「死に年」に通じるとして「まもなく灰か毒虫が天から降り、触れるとすぐに死ぬ」と告げる「行者」が現れたなどと記さ

    「毒虫、触ると死ぬ」明治の姉川地震でもデマ 公文書を滋賀県公開 | 毎日新聞
  • 【天狗倶楽部×嘉納治五郎】やわらの系譜 大河ドラマ「いだてん」 スピンオフ! | 共同通信

    第5回ストックホルム五輪大会 日初参加の開会式で行進する日選手団。旗手は三島弥彦(陸上競技400メートルに出場)、左端は嘉納治五郎団長、日の丸の右にはマラソンに参加した金栗四三氏=1912年7月6日、スウェーデン 【写真特集】 日の五輪史をテーマとするNHKの大河ドラマ「いだてん」が1月6日から始まった。脚は多くのヒットドラマで知られる宮藤官九郎氏。前半は箱根駅伝の創始者で日初の五輪マラソンランナー金栗四三氏(中村勘九郎さん)、後半は東京五輪招致に心血を注いだ田畑政治氏(阿部サダヲさん)が主役だ。初回は、柔道創始者の嘉納治五郎氏(役所広司さん)がスポーツ愛好会「天狗倶楽部」の青年たちに翻弄されながら日の五輪初参加を目指す明治末期、五輪誘致に成功する昭和30年代のシーンを交互に描いた。テンポよく細部にもこだわり、見た人の心をつかもうとする「クドカン」ドラマ。これまで大河のメインに

    【天狗倶楽部×嘉納治五郎】やわらの系譜 大河ドラマ「いだてん」 スピンオフ! | 共同通信
  • ”あの”天狗倶楽部が、大河ドラマ「いだてん」に推参!~奴らは一体何者だ?…横田順彌氏の著作その他から

    放送始まった大河ドラマ「いだてん」に、明治をにぎわせた学生バンカラ集団「天狗倶楽部」が唐突に登場。インパクト強すぎてトレンドにもなったみたいですね。でもあのハチャハチャ(死語)集団、SF界隈では横田順彌さんがノンフィクションやフィクションで登場させて、ちょっとお馴染みの集団でした。で、あいつらは結局、何者なのか??

    ”あの”天狗倶楽部が、大河ドラマ「いだてん」に推参!~奴らは一体何者だ?…横田順彌氏の著作その他から
  • 明治の道だけを歩いて江ノ島を目指す

    「今昔マップ」というwebサービスがある。明治以降の古地図と現在の地図を並べて表示できるというもので、各時代における土地利用の変遷を知ることができる、とても面白く為になるサイトだ。 私は夜な夜な昔の地図と今の地図を見比べてニヤニヤしていたりするのだが、そんな折にふと思った。現在まで残る明治の道はどれだけあるのだろう。例えば歩いて一日ぐらい掛かる距離の目的地を設定し、そこまで昔の道だけを歩いて辿り着くことはできるのだろうか。 その疑問を解消すべく、私が住んでいる神奈川県の中央部から出発し、明治時代の地図に記されている道だけを辿って県南の江ノ島まで行くことができるのか、試してみた。 *この記事に使用している地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。 *「今昔マップ on the web」の地図は、国土地理院発行の5万分1地形図、

    明治の道だけを歩いて江ノ島を目指す
  • <ゾンビランドサガ>1日限定の“聖地巡礼” 唐津の洋館を25日、特別公開 | まちの話題 | 佐賀新聞ニュース | 佐賀新聞

    現在放送中のテレビアニメ「ゾンビランドサガ」で、佐賀県を舞台にトップアイドルを目指すゾンビの少女たちの住まいとなっている唐津市海岸通の「旧三菱合資会社唐津支店館」(唐津市歴史民俗資料館)が25日、特別公開される。老朽化が進み、現在は休館中の明治の洋館で、1日限定の“聖地巡礼”ができる。

    <ゾンビランドサガ>1日限定の“聖地巡礼” 唐津の洋館を25日、特別公開 | まちの話題 | 佐賀新聞ニュース | 佐賀新聞
  • 画像で見る「神武天皇陵」でっち上げの経緯 - 読む・考える・書く

    神武陵にされる前のミサンザイ 「文久の修築」による変貌 改変が繰り返される「神武陵」 広大な森を新たに造成 演出される「神秘」「荘厳」 幕末の下級武士たちがでっち上げたペテン 神武陵にされる前のミサンザイ 式年祭についての記事でも書いたように、現在の「神武天皇陵」は、幕末の文久2(1862)年、恐らく神武の埋葬地ではない「ミサンザイ」に決定された。その後、明治から昭和にかけて、このミサンザイは巨大で荘厳な「天皇陵」に作り変えられていくことになる。 まず、この地が神武陵に比定される前はどうだったか。「文久の修築」前の状態を示す絵図が残っている[1]。 当時のミサンザイは、田圃の中の小さな塚に過ぎない。そこには榎一と茨のような灌木が一株生えていた[2]。ちなみに、旧洞村の古老の話によると、ここはもともと糞田(くそだ)と呼ばれており、牛馬の処理場だったかも知れない[3]、という。 「文久の修築

    画像で見る「神武天皇陵」でっち上げの経緯 - 読む・考える・書く
  • 大正時代に教育勅語好きすぎて催眠術を使ってくる奴がいた - 山下泰平の趣味の方法

    あんまり詳しく知らないんだけど、園児に教育勅語を暗唱させてる幼稚園があるらしくって、国会?議会?とにかく偉いオッさんとかが集る場所で大臣みたいな人が教育勅語サイコーって絶叫し、喜ぶ人やら怒る人が出てきて大変だという状況が発生している。 そもそもなんで教育勅語なのかっていう疑問があるんだけど、私の想像だとまず今の日がダサいという事実があって、昔の格好良くて強い日復活してくれーみたいな願望があるんだと思う。それで知識量が少ない人が格好良いみたいなの考えると、教育勅語くらいしか出てこないから、教育勅語渋いッ!!みたいな話になってる。もっと格好良いもの大量にあるんだけど、明治の文化を一所懸命に調べてる人とか少ないから仕方ないって雰囲気がある。 ただ教育勅語はかなりカッチョ良くて魅力的な文章ではあると思う。あんまり意味分からないけど、こうやって見ると形がすごく良いのは理解できると思う。 教育勅語

  • 新選組、斎藤一の写真見つかる 震災や戦災逃れ子孫に - 共同通信 47NEWS

    新選組の幹部として活動した斎藤一(提供写真)  江戸時代末期に反幕派を取り締まった新選組の幹部として活動し、明治維新後も生き残った斎藤一について、明治30年の1897年にや息子2人と共に撮影した写真が残されていたことが15日、歴史研究家のあさくらゆうさん(47)や子孫らへの取材で分かった。 斎藤は残された史料や写真が非常に少なく謎が多い人物とされており、これほど鮮明な写真が見つかるのは珍しい。 維新後に藤田五郎と名乗った斎藤を巡っては、西南戦争で政府側に従軍し、警視庁にも勤務したことなどを示す恩給関係の史料が国立公文書館に保管されていたことが昨年判明している。

    新選組、斎藤一の写真見つかる 震災や戦災逃れ子孫に - 共同通信 47NEWS
  • 8月29日は廃藩置県の日なので廃藩置県まとめ | Kousyoublog

    慶応四年閏四月二一日(一八六八年六月一一日)、徳川幕府の直轄地のうち城代・京都所司代・奉行支配地を「府」、それ以外の直轄地を「県」、大名の支配地を「藩」とする「府藩県三知制」が発表され、諸藩の力に依拠した新体制が発足、この「府藩県三知制」の確立が当面の新政府の目標となった。ちなみに大名の支配地を公式に「藩」と呼ぶようになったのはこのときからである。 戊辰戦争終結後の明治二年六月一七日(一八六九年七月二五日)、かねてから議論が行われていた郡県制導入に向けて「版籍奉還」が実施された。王政復古の精神に基づき大名の領地・領民を天皇に奉還し、旧大名は華族に列せられた上で非世襲の「知藩事」として天皇に任命されて藩政を司る。急激な郡県制導入ではなく漸進的な郡県封建併用制が取られ、藩の枠組みを残しつつ旧大名の領有権は否定される折衷的なものとなったが、ここに制度上「府藩県三治制」が確立した。そもそも明治新政

  • 廃藩置県直後に大規模農民暴動を生んだ流言(デマ) | Kousyoublog

    昨日は廃藩置県前の各藩の逼迫した財政について紹介したので、今日は廃藩置県の実施を受けて農民の間に広がったデマについて。引き続き勝田 政治「廃藩置県―「明治国家」が生まれた日 (講談社選書メチエ)」より。 廃藩置県実施直後の明治四年八月から十二月にかけて西日を中心に各地で旧藩主の引き留め、あるいは再任を要求する農民一揆が発生した。その原因は様々な種類の流言(デマ)であった。中でも最も広まった流言がこのようなものだったという。 『中央政府の役所は「異人」が政治を行う場所であり、「異人」は女性の血を絞って飲み、牛肉をべ「猿」のような着物を着ているようだが、すでに「異人」が血を飲んでいるところをみた者がいる。中央政府は人や牛を外国にわたそうとしている。いまの皇后は毎日生血を飲んでおり、これに供するためにわれわれの生年月日を調べようとしている。』(勝田P172) つまり廃藩置県以前から続く急激な

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  • 明治政府成立直後~廃藩置県前の諸藩財政の逼迫っぷりについて | Kousyoublog

    幕末の借金踏み倒しと武士の困窮 – Togetter こちらのtogetterまとめが面白かったので関連して、明治維新直後から廃藩置県にかけての諸藩の財政の逼迫っぷりについて簡単にまとめ。以下勝田 政治著「廃藩置県―「明治国家」が生まれた日 (講談社選書メチエ)」より。 明治二年に戊辰戦争が終結してから、明治四年に廃藩置県が実施されて藩が消滅するまでの間、諸藩の財政は悪化の一途を辿った。 幕末時点で諸藩の財政はどこも火の車だったが、それに戊辰戦争の戦費が重くのしかかる。例えば、『熊藩では兵器や弾薬などの費用をふくまない出兵費だけで約一〇万九〇〇〇両を要し、この額は年間収入の半分を占めたという』(P43)。あるいは肥前藩の場合、『幕末以来発行した藩札の八五パーセントが軍艦購入費と出兵費にあてられ』(P43)、さらにそれでも賄いきれず、明治二年に同藩で新たに発行された藩札の額は『同年の家禄を

    明治政府成立直後~廃藩置県前の諸藩財政の逼迫っぷりについて | Kousyoublog
  • 知将から猫へ、進化する幸村像 物語の中の真田一族(上)

    大坂夏の陣の慶長二〇(1615)年、豊臣方について戦った真田幸村と大助親子は武運つたなくこの世を去った。はるか後年、天保四(1833)年あたりに、彼らが登場する読み物「朝盛衰記」が成立。物語の世界で真田親子は琉球を駆け巡ることになる。真田一族は二百年の時をかけて、江戸の人々の想像力を借りて再度の旗揚げを果たしたというわけだ。 そこからさらに二百年弱。現代の真田氏はアニメや映画、ドラマ、ライトノベルなどに登場。幸村は美男子になったり女体化したりになったりしている。江戸時代とは、かなりイメージが異なる。私は現代の娯楽文化には詳しくないが、赤くて元気、リーダーで軍師であれば幸村、ということになっているのだろう。 江戸時代と現代の真田一族の間を埋めるのが、明治大正時代の娯楽物語である。これらの創作物がなければ、今の真田一族の人気もなかったかもしれない。キャラクターとしての真田氏がはるばる渡って

    知将から猫へ、進化する幸村像 物語の中の真田一族(上)
  • 明治維新直後の官軍総兵力について | Kousyoublog

    坂野潤治著「未完の明治維新 (ちくま新書)」に、明治維新直後の明治政府の総兵力が紹介されている。明治四年旧暦七月十四日に断行された廃藩置県は同年3月~5月にかけて薩摩、長州、土佐から献兵された御親兵の武力を背景として行われた。その内訳は以下のとおり。1)第一官軍「御親兵」のち「近衛兵」 歩兵5649名 砲兵 539名 騎兵 87名 合計6275名 薩摩藩:歩兵四大隊、砲兵四隊 長州藩:歩兵三大隊 土佐藩:歩兵二大隊、砲兵二隊、騎兵二小隊 一小隊64名前後で一大隊が10小隊から構成されていたとされる。 この薩長土三藩の御親兵が近衛兵として第一官軍を形成した。2)第二官軍 江戸無血開城後に政府側についた諸藩兵が廃藩置県後の明治四年旧暦八月二十日に四つの鎮台兵として再編された。以下歩兵のみ。鎮西=熊、東北=仙台。 東京鎮台 7320名 大阪鎮台 4800名 鎮西鎮台 2040名 東北鎮台 84

    kousyou
    kousyou 2015/10/20
    blogの過去記事です。
  • もう一つの女工哀史再び 発刊35年、岩波文庫に収録:朝日新聞デジタル

    大正期の紡績工場を描いたルポルタージュ「女工哀史」。筆者の細井和喜蔵(わきぞう)には内縁の、高井としをがいた。岐阜県出身の女性の半生をまとめた「わたしの『女工哀史』」が、発刊35年になる今年、岩波文庫に収録された。貧しさの中で働き続け、労働運動に尽くした生き様は今も語り継がれる。 としをは1902年に生まれ、10歳で岐阜・大垣の紡績工場に働きに出た。各地の工場を転々とし上京、18歳で細井に出会う。 女工や女中を続けながら、病弱な細井に自らの体験も伝えて執筆を支えた。「女工哀史」は25年7月に発刊されベストセラーになったが、細井は翌月28歳で亡くなる。としをは入籍しておらず、印税を手にすることはなかった。 《女工の実態を何とか世に訴えたいと、一つの目的に結ばれてともに努力していたので、内縁のなどということは、気にもかけていなかったのです。》(「わたしの『女工哀史』」より、以下も同じ) 2

    もう一つの女工哀史再び 発刊35年、岩波文庫に収録:朝日新聞デジタル
  • 幕末から福島県誕生までの変遷図と福島県諸藩まとめ | Kousyoublog

    物語の序盤の舞台が会津地方である大河ドラマ「八重の桜」が始まったことでもあるし、幕末から現在の福島県成立までの福島県地域の藩県の推移をまとめてみる。図表は山川出版社刊、丸井佳寿子・工藤雅樹・伊藤喜良・吉村仁作編著「県史7 福島県の歴史」(第二版第一刷発行)P240の図表に福島県の三地方の分類を加え、若干の色付け・レイアウト変更等改変を行って作成したもの。クリックすると大きな画像が表示されます。便宜上参考資料に倣って幕末までの各大名領の呼称も藩としているが、公式に藩という呼称が使われるようになるのは明治二年版籍奉還後の府藩県三治制実運用開始以降である。 1)福島県域前史 江戸幕府成立以前の福島県域は律令制の誕生とともに陸奥国が置かれたが、蝦夷と大和朝廷との軍事衝突がたびたび起こる戦乱の地で、やがて前九年・後三年の役を経て奥州平泉藤原氏の支配下に入る。文治五年(一一八九)、鎌倉政権によって平泉

    幕末から福島県誕生までの変遷図と福島県諸藩まとめ | Kousyoublog
  • 豚が日本を救う?明治四年の教育ベンチャー「布田郷学校」 | Kousyoublog

    明治維新直後、現在の東京都調布市に、何もかも無償で教育を行う画期的な初等学校があった。その費用は全て、その費用を賄うことを目的として設立されたある企業の収益で賄われたという。布田郷学校と郷学校種豚会社、そして一人の企業家のささやかなお話。 現在の東京都調布市一帯は甲州街道沿いの宿場として国領宿・下布田宿・上布田宿・下石原宿・上石原宿の五つの宿場町(布田五宿)があり、江戸時代以降旅人や荷物を運ぶ人足の往来で栄えていた。明治元年(一八六八年)、上布田宿で旅籠を営む原道太郎(後の原豊穣:一八四三年一月四日~一九一七年四月六日)は旅籠の常客であった公家閑院宮家の下級役人寺嶋豊三から、旧幕臣角田米三郎という人物が設立した協救社の話を聞かされる。 ■協救社の理念と養豚ビジネス 角田米三郎という人物については一橋慶喜に仕えていたということ以外詳しくわかっていない。だが、協救社に関する資料から非常に変わり

    豚が日本を救う?明治四年の教育ベンチャー「布田郷学校」 | Kousyoublog
  • 社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳 国家神道と国民アイデンティティ

    社会政策・労働問題研究について歴史的なアプローチで研究しています。ここではそのアイディアやご迷惑にならない範囲で身近な方をご紹介したいと考えています。 地方改良運動を研究する以上は国民統合のことを考えなければならないということで、それならば、島薗先生の国家神道論を考え直そうとして、「19世紀日の宗教構造の変容」『コスモロジーの「近世」』岩波書店、2001年を読み返している。『国家神道と日人』で展開された議論の根幹の部分はここに集約されているように思う。 島薗「国家神道」論の宗教社会学における意義というのは、私にはよく分からないが、知識社会学ないし理解社会学という形でならば、ある程度、分かる。ざっくり言えば、この論文の肝は、明治期以降に形成されていった国家神道の基盤が江戸時代に生まれていたということで、それを優れて政治実践的な性格を持った支配イデオロギーの形成と(津和野派国学と水戸学の関

  • 茨城県民の日、30年以上誤り 一日ズレ、県外から指摘:朝日新聞デジタル

    茨城県が30年以上、「県民の日」(11月13日)の由来を誤って説明していたことがわかった。1871(明治4)年の廃藩置県で「茨城県が設置された日」としてきたが、県の誕生は実はその翌日。今春の県立高校入試で問題文に使われ、外部の指摘を受けた。 11月13日は、1968年制定の茨城県条例で県民の日となった。県も指摘を受けるまで、ウェブサイトで「県域に『茨城県』が置かれ、初めて県名が用いられた日」と説明。だが「法令全書」(内閣官報局編)などによると、茨城県の設置は11月14日。前日の13日は、初代県知事にあたる茨城県参事として山岡鉄舟(てっしゅう)が任命された日だった。 県によると、制定当初は「茨城県という名称が初めて用いられた日」と広く解釈していた。いつから混同が始まったかは不明だが、少なくとも84年発行の県史に「県が誕生した」との記述があり、誤った説明は30年以上続いたとみられる。 今年3月

    茨城県民の日、30年以上誤り 一日ズレ、県外から指摘:朝日新聞デジタル
  • 「犬たちの明治維新 ポチの誕生」仁科 邦男 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    明治維新は日人と犬との関係をがらりと変えた。共同体の中の犬から飼主と飼犬という個と個の関係へと、近代化のプロセスの中で揺れ動く犬を巡る価値観の変化を、幕府からペリーに送られた犬から西郷隆盛の犬まで様々な犬たちを追いつつ、洋犬の名前としての「ポチ」の誕生を探っていくことで描いている。 江戸時代初期まで、犬は、座敷犬として価値があった小型犬の狆(チン)を除いては、概ね村の犬「里犬」として共同体で飼われるのが常だった。やがて大名たちの間で鷹狩が盛んになると、鷹の餌としての犬肉が必要となり「御鷹餌犬」として飼育されるようになる。綱吉の生類憐みの令によって犬たちは「飼犬」と「無主犬」に分類されたが無主犬の多くは町中で不特定多数の人から餌をもらって生きる「町犬」で町犬たちは飼主があらわれない限り、各地の犬小屋に保護される。特定の個人の飼主がいることはまれで、基的には町なり村なり共同体の中で犬も生き

    「犬たちの明治維新 ポチの誕生」仁科 邦男 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー