那覇市にある「世界遺産」の首里城跡に復元された首里城で起きた大規模な火災では、「正殿」など主要な建物が全焼し、琉球王国時代から伝わる貴重な収蔵品の多くが焼けたものとみられています。警察などは、あす(1日)午前から現場で検証を行うなどして詳しい出火原因を調べることにしています。 31日未明から那覇市にある首里城で11時間にわたって続いた大規模な火災では、城の主要な建物の「正殿」や「北殿」、それに「南殿」などが全焼しました。
サントリー美術館の琉球王国展に行ってきた。サントリー美術館は琉球の染織を多く所蔵しており,過去に何度も琉球関連の展覧会を開いていて縁が深いとのことである。私自身は琉球は全く門外漢なので,新鮮な気持ちで見に行った。 今回の展示は染織(いわゆる紅型を含む)だけではなく,琉球の美術(絵画作品)や漆器の展示が豊富であったのが,非常に良かった。琉球の美術は基本的に中国の影響が強い。留学先というとまず福州であったようで,ほとんどの画家が琉球名と中国名を持っている。たとえば「座間味庸昌」であれば中国名は「殷元良」。レベルはさすがに高いというものではないが,よく模しているとは思う。言われなければ中国人や日本人の画家が描いたものと区別がつかないだろう。おもしろかったのは,そうして中国の絵画を模して成長したので,琉球人が雪中の花鳥図も描いているということである。おそらく御本人は雪を見たことがないか,朝貢使節の
1945年、沖縄で大規模な戦闘が終結した後から8月の終戦後にかけて、住民が殺害され続けた地域がある。那覇市の西100キロに浮かぶ久米島。日本兵が住民を米軍のスパイとみなし、乳児を含む計20人の命を奪った。島にいた最後の日本兵が投降してから、7日で72年。悲劇は島で今も語り継がれている。 「何で日本軍に殺されなきゃならんかね」。久米島の喜友村宗秀(きゆむらそうしゅう)さん(88)は72年前、隣人で兄のように慕っていた仲村渠明勇(なかんだかりめいゆう)さん(当時25)とその妻、1歳の息子の遺体を見た。その時のことを思い出すと目が潤んだ。「3人とも真っ黒に焼かれて、頭がなかったですよ。殺した証拠として持って行ったんでしょう」 沖縄本島や周辺の離島が焦土と化した沖縄戦で、久米島は無傷に近かった。 沖縄県教育委員会が編集した2種類の「沖縄県史」(1974年と2017年に発行)によると、米軍が久米島に
14世紀から15世紀にかけて当時の中国やタイなどとの交易で栄えたとされる有力者の拠点で世界遺産になっている沖縄県の「勝連城跡」で、3世紀から4世紀ごろの古代ローマ帝国のものとみられる銅貨が見つかりました。専門家は当時の琉球と外国との交流を知るうえで貴重な資料だとしています。 このうち、古代ローマ帝国のものとみられる銅貨は大きさが直径1.6センチから2センチで、表面に人物の姿やローマの文字がほどこされています。調査した教育委員会や専門家によりますと、古代ローマ帝国やオスマン帝国のものとみられる銅貨が見つかったのは国内の遺跡では初めてではないかということです。 「勝連城跡」は14世紀から15世紀にかけて当時の中国やタイなどとの交易で栄えたとされる有力者の拠点があった場所で、世界遺産に登録されています。 銅貨の年代測定などに携わった沖縄国際大学講師の宮城弘樹さんは「江戸時代の琉球が中国と交流して
沖縄の洞窟で、世界最古とみられる釣り針2個が発見された。報告論文が16日、米科学アカデミー紀要(PNAS)に掲載された。巻貝から作られた釣り針は、約2万3000年前のものとみられる。ほかにも貝で作った珠や道具類に加えて、カニや貝を食べた跡が見つかったという。 沖縄県立博物館・美術館などの専門家からなる調査グループは、沖縄県南城市のサキタリ洞窟で発掘作業を行っていた。この周辺では少なくとも3万年前から、人間が住んでいたとみられている。 釣り針の発見によって、これまで考えられていたより広範囲で、初期の海洋技術が使われていたと推測できるという。論文は、こうした技術が大西洋西岸沿いに北から中央緯度の地域にまで広がっていたことがうかがえると書いている。
薮地洞穴から発掘された9千年以上前の土器や石器、貝など=うるま市の与那城歴史民俗資料館 【うるま】うるま市教育委員会は8日、市与那城・薮地島の薮地洞穴遺跡で、9千年以上前の土器や石器、貝などを発掘したと発表した。県内でも最古級だという。同じ年代で、土器やヒトが食べた物などが同時に発掘されたのは県内で初めて。市教育委員会文化課は「当時の人々の生活や食べ物を探る上で貴重な情報だ」としている。 今回の調査は、2014年に洞穴入り口付近で爪形文土器などが出土した層の下から、爪形文土器とは異なる土器や貝製品なども発掘された。遺物は薮地洞穴内部の地表約80センチで発見された。地層を分析した結果、9千年以上前の物だと判明。貝の文様を付けた「波状文土器」や打製石斧、イノシシの骨、貝殻など。 市教育委員会教育部の横尾昌樹主任主事は「洞穴内ということもあり、自然環境にさらされることもなく保存状態も良好だ」と説
暑い! そんな季節に食べたいのがバニラアイス。甘い香りを生み出す植物のバニラは国内に受粉昆虫がおらず自生していない。主に熱帯地域で栽培され、果実を発酵・乾燥させたバニラビーンズはほぼ100%が輸入ものだ。温暖化が進む中、九州・沖縄で本格生産を目指す動きが出てきている。 「国産バニラです」。宮崎県日南市にある県総合農業試験場亜熱帯作物支場の湯地健一主任研究員(47)が、ハウス内の鉢植えで、たわわに実った緑色の細長いバニラの実を見せてくれた。 県内の菓子メーカーの依頼で約10年前から栽培。開花に3年かかったが、ここ数年で人工授粉の成功率が9割台に上がってきた。 輸入のバニラビーンズは年によって品質がばらつく。投機対象となって価格が乱高下するため、国産の安定供給に期待が高まる。湯地さんは「栽培だけでなく加工にも力を入れる」と意気込む。 鹿児島地方気象台によると、宮… この記事は有料会員記事です。
参院選2016 政治 自民党 今回の参院選で、衆参院の沖縄選挙区での自民党選出議員はゼロに 米軍事件や基地問題で自民に逆風。島尻氏の支持者は「大きな損失」 伊波氏の支持者は公約破りや憲法改正の姿勢が反感を買ったと分 今回の参院選で、自民公認の 島尻安伊子 さんが落選したことに伴い、衆参の沖縄の 選挙 区は、衆院4人、参院2人の6人全員が国政野党となり、 自民党 国会議員は「ゼロ」になった(衆院の比例復活除く)。島尻さんの支持者は「 米軍 事件や基地問題で逆風が吹いた」と険しい表情、一方、当選した伊波洋一さんの支持者は「当然の結果」との反応を示した。 » 注目の参院沖縄選挙区 新人・伊波氏が優位、現職閣僚の島尻氏は苦戦 島尻さんを支援する 西原町 の松本健さん(63)は「 自民党 政権を支える沖縄の国会議員がいるからこそ、意味がある。国政の実績やバックボーンのない人が、国会でどのような
沖縄の米軍嘉手納基地で戦闘航空団技師によってF100戦闘機に装着される水爆「マーク28」。最大1・4メガトンの破壊力を持つ。撮影日はキューバ危機が深刻化していた「1962年10月23日」となっている(国家安全保障公文書館提供、米国立公文書館所蔵) 沖縄・米軍嘉手納基地内で台車に備え付けられる核弾頭「マーク7」。潜水艦攻撃に使われるほか、複数のミサイルに搭載可能。爆発力は1~70キロトンとされる。撮影日はキューバ危機の最中の「1962年10月23日」となっている(国家安全保障公文書館提供、米国立公文書館所蔵) 核巡航ミサイル「メースB」。キャプションには「沖縄」とだけ書かれている。撮影日は「1962年4月」。メースBには爆発力1メガトンの核弾頭「W28」の搭載が可能。コンクリート製の格納庫で発射命令に備えていた(国家安全保障公文書館提供、米国立公文書館所蔵) 本土復帰前の沖縄の米軍基地
かつての琉球王国の政治や文化の中心だった首里城の内部を明治時代に撮影したとみられる写真が山形県米沢市で見つかりました。首里城の資料は、太平洋戦争の沖縄戦で多くが失われていて、専門家は「最も古い写真の1つで貴重だ」と注目しています。 博物館によりますと、沖縄県では明治14年からおよそ2年間、米沢藩最後の藩主だった上杉茂憲が現在の県知事にあたる県令を務めていたことから、写真が上杉家に伝わった可能性が高いということです。専門家は建物の傷みが少ないことから、明治12年に琉球王国が終わった直後に撮影されたとみていて、王国時代の首里城の面影を残していると注目しています。 首里城の復元作業に関わる琉球大学の高良倉吉名誉教授は「今までぼくたちが見た膨大な首里城関係の写真では最も古い写真の1つでしょう。特に初めて久慶門のやぐらを教えてくれる貴重な写真で、そのときにちょっとさすがに声が出ました。それぐらい感動
1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄本島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。 主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日本:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年) 徳川政権の事情秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピー
自衛隊トップの河野統合幕僚長は、アメリカ軍幹部との会談内容を記したとする文書について、10日の会見で、「同一の題名の文書は存在した」と明らかにしたうえで、詳細については差し控えると述べました。 この文書について、河野統合幕僚長は、10日の定例の記者会見で、「同一の題名の文書は存在した。文書のどの部分が異なるのかといった話になると、中身についての話になるので差し控えるが、同一の文書は存在していない。公表を前提にしていない会談であり、内容の詳細については差し控える」と述べました。 安全保障関連法案に関連し、防衛省統合幕僚監部が、法案の成立を前提にした文書を作成していたことについて、憲法学者のグループが、東京都内で会見し、文民統制に反するものだなどと指摘しました。 この文書を巡り、憲法学者のグループのメンバーで、埼玉大学名誉教授の三輪隆さんは「法案の成立を前提に、その内容を実現していくものとなっ
【東京】米軍普天間飛行場の辺野古移設計画に関連し、昨年12月17~18日に訪米した自衛隊トップの河野克俊統合幕僚長が米海兵隊のダンフォード総司令官に対して「普天間移設反対派の知事が就任したが、辺野古への移設問題は政治レベルの議論であるので方針に変更はないとの認識である。安倍政権は強力に推進するであろう」と述べ、米側に日本の辺野古移設推進堅持の方針を伝えていたことが明らかになった。 新基地建設反対を訴え当選した翁長雄志知事が昨年12月10日に就任してから、わずか数日後に自衛隊トップが辺野古移設を米側に「約束」していた格好で、今後の議論を呼びそうだ。 河野統幕長の会談内容を記した統合幕僚監部の機密資料を共産党が入手した。資料は「取扱厳重注意」とした上で「統幕長訪米時のおける会談の結果概要について」との件名で、2014年12月24日に作成されている。 河野統幕長が訪米し、ダンフォード氏のほか、ワ
大田 實(おおた みのる、1891年(明治24年)4月7日 - 1945年(昭和20年)6月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身。 生涯[編集] 旧制千葉県立千葉中学校から海軍兵学校41期入校。席次は入校時は120名中53番、卒業時118名中64番。草鹿龍之介、木村昌福、田中頼三などが同期生である。大田は海軍における陸戦の権威者で、1932年(昭和7年)2月から4月にかけて上海陸戦隊第5大隊長として第一次上海事変に参戦している。二・二六事件では佐藤正四郎麾下の陸戦隊大隊長として東京へ出動している[1]。同部隊の参謀は大田とともに海軍陸戦隊を代表する指揮官となった安田義達であった。 日中戦争では1939年(昭和14年)2月に呉鎮守府第六特別陸戦隊司令として海南島占領作戦に参加し三亜を占領する。4月には隊は第六防備隊に改組され第六防備隊司令となるが同月には内地
翁長 雄志知事 スイスのジュネーブで9月14日~10月2日の日程で開かれる国連人権理事会で、翁長雄志知事が辺野古新基地建設問題について演説するための見通しがついたことが22日、分かった。 知事の国連演説は新基地建設阻止を目的に活動する「沖縄建白書を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」が複数の国連NGOの協力を得て準備してきた。島ぐるみ会議によると知事の日程調整はこれからだが、開催期間中の9月21日か22日を軸に登壇できる方向で調整している。 翁長知事は当選後、国連への働き掛けに意欲を示しており、演説が実現すれば知事が新基地建設問題の解決を広く国際世論に喚起する場となりそうだ。 今回、国連との特別協議資格を持つ国連NGOの「市民外交センター」が島ぐるみ会議などからの要請を受け、人権理事会での発言時間を翁長知事に貸与する意向を示している。国連との特別協議資格を持つNGOが他者に発言時間を貸す
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