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江戸に関するkousyouのブックマーク (159)

  • 江戸時代の検地の再現に教育学部の学生たちが挑戦―史料をもとに試行錯誤 うまくいった?|茨城大学

    ホーム NEWS 江戸時代の検地の再現に教育学部の学生たちが挑戦―史料をもとに試行錯誤 うまくいった? 江戸時代の検地の再現に教育学部の学生たちが挑戦 ―史料をもとに試行錯誤 うまくいった? 時は令和三年三月某日、水戸市渡里の圃場にて奉行、百姓ら立ち合いのもと検地が行われた ― 冗談のようですが実際の話。教育学部の社会選修を中心とした学生たちが、近世の検地の様子を描いた絵や古文書を紐解きながら、当時の検地の再現に挑みました。社会科だけでなく、技術数学の選修の教員も参戦しての検地。果たして畑の面積はきちんと測れたのでしょうか... 日史で「検地」といえば、多くの人が豊臣秀吉の「太閤検地」を思い浮かべるはず。田畑の面積は年貢高に直接関わりますが、かつては百姓の自己申告による「指出検地」が一般的だったそう。それが秀吉の政策において、ひとつの土地にひとりの年貢請負人を決め、面積と田畑の質によっ

    江戸時代の検地の再現に教育学部の学生たちが挑戦―史料をもとに試行錯誤 うまくいった?|茨城大学
  • 『松平信綱(人物叢書)』大野 瑞男 著

    徳川家光、家綱時代、老中として幕政を主導した松平信綱についての代表的な評伝。松平信綱は知恵伊豆の異名で知られるように非常に優秀な人物であった。書の彼の事績の総括が端的にまとまっている。 『信綱は最初は土井利勝・酒井忠勝らに次いで阿部忠秋らと老中として、「武家諸法度」の改定、参勤交代制の制定、軍役の制定、老中制の確立、島原の乱の鎮圧、「鎖国」体制の完成に貢献し、寛永飢饉を克服した。家光死後は幼い家綱を補佐して、由比正雪らの慶安事件を処理し、明暦の大火の復興を果たし、幕政の確立に尽力した。 (中略) 信綱は外様大藩などの意向を承けて将軍との取次を務め、その的確な指南によって萩藩や庄内藩などの存立を助け、大名をまさに幕府の藩屏として位置付け、幕府=将軍を中心とした藩が確立できるよう、すなわち幕藩体制の確立を意図したといえる。』(284-285頁) 非常に切れ者で様々なエピソードが残り、行政手腕

    『松平信綱(人物叢書)』大野 瑞男 著
    kousyou
    kousyou 2019/04/04
    更新しました。知恵伊豆と呼ばれた名老中松平信綱の代表的な評伝の紹介です。
  • 『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版 (ちくま文庫)』青木直己 著

    日記の主である紀州和歌山藩士酒井伴四郎は万延元年(1860)当時28歳、25石の下級武士で、上司にあたる叔父・宇治田平三、同僚の大石直助らとともに、装束に関する着用の指導にあたる衣紋方として同年から一年七カ月の江戸勤務についた。日記は万延元年(1860)五月十一日から十一月三十日までの約七カ月である。 直前に大老井伊直弼は暗殺されるわ、紀州藩内も政争で重臣が失脚するわ、アメリカ公使ハリスらをはじめ外国人が来日しはじめるわ、攘夷の嵐が吹き荒れるわで、幕末の江戸は大わらわ・・・なはずだが、下級武士の彼にはそんな激動は特に関係なく、毎日の生活とか、倹約生活とか、江戸観光でどこ行ったとかの話で占められているのが、実に等身大という感じで面白い。 書で紹介されるのも大半が彼らが何ったかである。紀州から江戸への道中だけでもあんころだうなぎだわらびだ柏だ葛だ栗だ力だとばっかりだけど道中

    『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版 (ちくま文庫)』青木直己 著
  • 江戸時代の食生活の変化、書物の紙に混ざった毛髪で判明:朝日新聞デジタル

    江戸時代の書物の紙に含まれていた毛髪を分析したところ、当時の庶民の生活が見えてきた――。そんな研究結果を14日、龍谷大などの研究チームが発表した。時代が進むにつれて、海産魚をよくべるようになったことなどが、元素の分析から推定されるという。 龍谷大の丸山敦准教授(生態学)によると、江戸時代の都市では出版ブームが起こり、たくさんの書籍が発刊された。大量の紙が必要なことから、古紙の回収や再生紙づくりも盛んになり、この過程で毛髪が紙に埋め込まれた。これらの毛髪は、たまたま混入した可能性のほか、耐久性を上げるための材料として、意図的に混ぜられたとする説もあるという。 チームは、江戸時代に作られた書物から、130サンプルの毛髪を採取。炭素や窒素の同位体の割合を分析し、生活を調べた。 その結果、1700年以降の200年間に、海産魚をべる割合が徐々に増加していったことが裏付けられた。漁業技術が発達

    江戸時代の食生活の変化、書物の紙に混ざった毛髪で判明:朝日新聞デジタル
  • 遺骨:白石の「西洋の窓」宣教師か 獄死した屋敷跡から | 毎日新聞

    江戸時代中期に来日、新井白石に影響を与えたものの獄死したイタリア人宣教師、ジョバンニ・バチスタ・シドッチ(1668〜1714年)とみられる遺骨が見つかったと4日、東京都文京区が発表した。キリスト教信者らの収容施設・切支丹屋敷跡(同区小日向1)の発掘調査で見つかり、DNA鑑定や文献資料などから可能性が高いとしている。鎖国・禁教下の日欧の交流を知る手掛かりとなりそうだ。 シドッチは伊シチリア島・パレルモ出身。日布教を志し1708年、フィリピンから屋久島に渡航し、捕らえられて江戸に送られた。当時幕政の実力者だった白石が尋問、そこで得た知識を基に海外情勢や地理などを記した「西洋紀聞」を著した。シドッチは比較的好条件で屋敷に幽閉されたが、世話役の日人夫「長助・はる」を入信させたとして地下牢に移され、死去した。

    遺骨:白石の「西洋の窓」宣教師か 獄死した屋敷跡から | 毎日新聞
  • 「堺の鉄砲は江戸後期に衰退した」は的外れな通説? 幕末も大量受注 1万点超の古文書を精査(1/2ページ)

    戦国から江戸時代にかけて鉄砲を多く生産した堺で、大規模な戦争がなかった江戸時代後期でも、盛んに鉄砲が作られていたことが、堺市にある鉄砲鍛冶屋敷で見つかった史料で分かった。「平和が続いた江戸時代中期以降、堺の鉄砲産業は斜陽化した」という長年の通説を覆すことになり、堺市の担当者は「外国からの船に備え、海岸線の警備に使ったのではないか」と分析している。 堺市と関西大が、江戸時代に建てられ、現存する最古の鉄砲の生産現場が残る鉄砲鍛冶屋敷「井上関右衛門(せきえもん)家」(堺市堺区北旅籠(はたご)町西)での共同調査を実施。この中で、17世紀後半から幕末にかけて鉄砲の受注などに関する古文書約1万1700点を精査した。それによると、大名や旗からの鉄砲の新調の注文は、宝暦2(1752)年は約30丁だったが、その後注文量は増加し、幕末の元治元(1864)年には約230丁に増えたことが確認された。 さらに古文

    「堺の鉄砲は江戸後期に衰退した」は的外れな通説? 幕末も大量受注 1万点超の古文書を精査(1/2ページ)
  • 島津家で「あわもり出る」 鳥取藩士の手紙180枚発見:朝日新聞デジタル

    古いびょうぶの下張りから、鳥取藩主池田家に仕えた武士が江戸からにあてた手紙が大量に見つかった。から江戸にいる夫にあてた手紙も含まれ、確認されただけで約180枚になる。参勤交代や江戸暮らしの様子を書き記した手紙で、専門家は記述の詳しさに注目している。 発見したのは鳥取市紙子谷の大沢邦彦さん(71)。大沢さんは神社の宮司で、子どものころから古文書に親しんできた。「古文書を読む会」で講師を務めている。江戸時代から明治初期に作られたびょうぶやふすまには、不要になった手紙などの書類が下張りに再利用されている例があり、今回手紙が見つかったびょうぶは鳥取市内の知人から大沢さんのもとに持ち込まれたものだった。 びょうぶは6曲で、下張りに明治時代の新聞が使われており、さらにその下から手紙が見つかった。大沢さんは3年かけて手紙を整理し、解読した結果、約200年前に鳥取藩主が参勤交代した際に随行した城戸左久

    島津家で「あわもり出る」 鳥取藩士の手紙180枚発見:朝日新聞デジタル
  • 徳川家康が築城時の江戸城の絵図 松江で発見 | NHKニュース

    江戸時代初期に、徳川家康が築城した江戸城の当時の構造を詳しく描いた絵図が松江市で見つかり、専門家は、戦いに備えた堅い守りの構造がわかる貴重な資料だとしています。 江戸城はその後も改修が繰り返され、当時の詳細な構造はわかっていませんが、「江戸始図」では、城の石垣ややぐらなどが細部まで描かれているということです。 調査に当たった奈良大学の千田嘉博教授などによりますと、江戸城を描いた絵図として最も古いとされる慶長13年ごろの絵図と同じ頃に描かれたとみられ、「江戸始図」からは、姫路城のように大天守と小天守がつながった「連立式天守」という堅い守りの構造だったことが確認できるということです。 また丸の南側は、戦いを意識して熊城のように出入り口を複雑な形にした「外枡形」という構造になっていたことが、新たにわかったとしています。 千田教授は、「謎に包まれた家康の江戸城を明らかにする画期的な発見で、姫路

    徳川家康が築城時の江戸城の絵図 松江で発見 | NHKニュース
  • 徳川吉宗の享保の改革と徳川宗春の尾張藩政改革 | Kousyoublog

    アベノミクスは、江戸時代に一度「大失敗」していた!(河合 敦) | 現代ビジネス | 講談社(1/2) こんな記事を読んだので、 以前書いた記事 から享保の改革と徳川宗春についての部分を切り取って再掲しておこうかなと。比較してお読みいただければ幸いです。まぁあちらは仮にも歴史の先生、こちらはただの素人が趣味で書いたブログ記事なので温い目線で軽い気持ちでお読みください。 享保元年(1716)、徳川吉宗が将軍に就いたときの日は転換点を迎えていた。十七世紀の大開発時代が終わり耕地面積は頭打ちとなり、人口も十七世紀の百年で二・五倍と急増したあと、十八世紀初頭から幕末までほぼ3200万人前後で横ばいに転じる。森林資源は枯渇して各地に禿山が見られ始め、元禄バブルを最後に経済成長の鈍化とともに幕府財政は急速に悪化し、「米価安の諸色高」とよばれる米の供給過剰と米以外の産品の供給不足による物価の乱高下で

    徳川吉宗の享保の改革と徳川宗春の尾張藩政改革 | Kousyoublog
  • 機密資料:幕末の諜報組織の存在示す 亀山八幡宮であす開催の文化講座、下関市・大浜さんが初公開 /山口 | 毎日新聞

    長州・清末藩から幕府に送り込む 江戸幕府と長州が激しく対立した幕末期、萩藩の支藩・清末藩から幕府に送り込んだ諜報(ちょうほう)組織の存在を示す資料を下関市の大浜博之さん(70)が、亀山八幡宮で開催される文化講座で初めて公開する。大浜さんは「下関で発見されること自体あり得ないくらい貴重な資料。興味のある人はぜひ見てほしい」と話す。【仲田力行】 大浜さんは1984年、幕末期の神奈川奉行支配組頭、脇屋卯三郎の子孫で千葉県に住む女性から手紙を受け取った。手紙には、脇屋が清末藩と関わりがあることが記されていた。その5年後、市立長府博物館の職員だった大浜さんは、清末藩士の家系で下関市内に住む故渡辺ノブさん方にあった大量の資料を譲り受けた。資料は、江戸城の土手や塀の位置を示す詳細な絵図、品川台場の砲台図などを描いた幕末期の幕府の機密資料だった。

    機密資料:幕末の諜報組織の存在示す 亀山八幡宮であす開催の文化講座、下関市・大浜さんが初公開 /山口 | 毎日新聞
  • 近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層 | Kousyoublog

    「重層と複合」、「分節構造」 江戸の身分制社会を解き明かす上で、その分析方法として注目されるのが身分的周縁論をリードする塚田孝氏の「重層と複合」論である。同氏は近世社会が「武士の家、百姓の村、町人の町、職人の共同組織、賤民の共同組織など」(吉田伸之2009 P12)の重層と複合から構成されているとする。「重層」とは「村々が組合村を形成したり、町々が組合町をつくったりという基礎的な社会集団が二次的三次的に集団を形成して行くような関係」であり、「複合」とは武士と町人、町人と賤民などの「異種の社会集団間の交流・関係」のことである。「近世の社会は、支配者から賤民までに及ぶ多数の社会集団が、相互に取り結ぶ無数の関係構造として全体の社会が形成される」(吉田伸之2009 P13) この塚田の「重層と複合」論を社会集団の関係構造を理解する基礎とし、吉田伸之はそこにもう一つの視点として権力秩序の「分節構造」

    近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層 | Kousyoublog
  • 近世身分制社会の成立 | Kousyoublog

    兵農分離~太閤検地と刀狩り 近世の身分制度は兵農分離を軸としている。その土台は豊臣秀吉による太閤検地と刀狩りによってつくられた。太閤検地によって統一基準で算定された石高に基づき、秀吉から大名へ、大名から家臣へと領地が石高で与えられ、その知行の大きさに見合う軍役奉仕が義務付けられる。また、太閤検地によって百姓の耕作権が公認されるのとひきかえに、領主に対する貢租の納入が義務付けられる。支配者としての武士と被支配者としての百姓という構造が確立されていく。 この兵農分離に基づく身分構造の制度化として実施されたのが「刀狩り」である。「刀狩り」も、農民の武装解除という通俗的な理解が根深いが、そうではない。刀狩りは刀・脇差の所持ではなく帯刀を禁じることでの帯刀の有無を表象とした身分統制、すなわち『武士に奉公する者と、奉公しない百姓、戦う奉公人(兵)と戦わない百姓(農)の差別化』(藤木正志 「刀狩り」20

    近世身分制社会の成立 | Kousyoublog
    kousyou
    kousyou 2016/08/06
    “江戸時代、将軍と大名によって構成された『公儀』のもとで、すべての人々が宗旨改帳という『戸籍制度』によって登録されていた近世的な身分制度とは、<武士―平人―賤民>という身分制度であった。”
  • 【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ | Kousyoublog

    2016年五月の初頭ごろだったか、Twitterで士農工商という表記が教科書から無くなっているという話が話題になっていた。そう。もう江戸時代の身分制を「士農工商」として表記することは退けられて久しいのだ。少なくとも一九七〇年代初頭に疑問が呈され、九〇年代にほぼ否定され、その結果として二〇〇〇年代半ば以降、教科書から消えはじめた。 かねてから近世身分制社会について個人的にまとめたいと思っていたので、いい機会と思い改めて研究書籍や論文を読み直したり、新規に関連文献を読んだりして一気にブログ記事としてまとめてみようと思いたったのが運の尽き。なんだかんだで書き終えるまで三か月ほどかかってしまい、かつ三万三千文字オーバーの超長文記事となってしまった。誰が読むんだ。 というわけで、長文を読みたくない人のための簡単なまとめ ・士農工商は職能分担を表す言葉で、社会通念として身分体系を意味するようになるの

    【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ | Kousyoublog
  • 1590年当時の東京湾(江戸内海)原地形図と江戸湊について | Kousyoublog

    先日書いた 東京湾の範囲 問題などもろもろ調べている過程で見つけた、1590年当時の東京湾(江戸内海)を中心とした原地形図。鈴木 理生 編著「 図説 江戸・東京の川と水辺の事典 」より。江戸前島半島の左沿岸、日比谷入江という表記の「江」の字と丁度平行な位置あたりが今の新橋駅、その対岸の高台に愛宕神社がある感じの位置関係ですね。また、古川は現在の渋谷川。 色々説明し出すと非常に様々な点に触れることになることもあって、それも今の理解ではなかなか難しいところではあるのだが、図の引用だけで終わらせるのも適切ではないので、簡単に触れると、前回の記事でも説明したように、三浦半島の走水から房総半島の富津洲へと横断航路が古代から発達していたが、それと交差するように、太平洋から東京湾への銃弾航路と、武蔵野台地の各河口に登場した湊(ミナト)同士を繋ぐ航路、さらに湊から河口を上る輸送路が古くから発達していた。

    1590年当時の東京湾(江戸内海)原地形図と江戸湊について | Kousyoublog
  • 家康と関東移封~ライバル封じ込めか、信頼できる部下を東国の要にしたのか?/そして「江戸改造」と利根川

    6/19のNHK大河ドラマ「真田丸」で北条が滅亡、今後家康は根を張った東海・中部地方から関東に移り、江戸を築きます。そして直木賞候補に「家康、江戸を建てる」が選ばれました。自分も少しシビライぜーション脳、シムシティ脳なので、英雄たちの「都市建設」にも興味があり、特に利根川を東に動かすってスゲーと思ってはいましたが、詳細はしらないので、この機会に…そして、歴史クラスタでは「豊臣秀吉は、脅威の家康を牽制するために、代々の根拠地から、大禄ではあるが、旧敵地で田舎の関東に押し込めたのだ」という説への疑義や「そもそも江戸がススキの荒野、も権現様ageで盛り過ぎ」と言われています。この二つの個人的に興味深いテーマを合わせ技で。

    家康と関東移封~ライバル封じ込めか、信頼できる部下を東国の要にしたのか?/そして「江戸改造」と利根川
    kousyou
    kousyou 2016/06/20
    こんな記事昔書いたんでタイムリーじゃないでしょうか。「1590年当時の東京湾(江戸内海)原地形図と江戸湊について」http://kousyou.cc/archives/4905
  • 尾張藩、増水時に堤防切り橋保護 名古屋市博物館の学芸員調査:愛知:中日新聞(CHUNICHI Web)

    江戸時代前期、尾張藩は想定外の増水時に大切な橋を守るため堤防を決壊させたことを、名古屋市博物館の鈴木雅(まさし)学芸員が明らかにした。庄内川沿いの下小田井村・枇杷島村(現在の西区・清須市)に関する藩の文書を調べて分かった。十八日午後二時から、同館での講演で発表する。 同地域は矢田川が合流し、尾張藩は水防に力を入れていた。名古屋城側の枇杷島村と、対岸の下小田井村を渡す枇杷島橋は、初代藩主徳川義直が最初に架けた。 鈴木学芸員によると、藩の法令集「尾藩令条(びはんれいじょう)」に、一六六六(寛文六)年の「小田井堤」決壊で土地が水没し、年貢を取りはぐれた家臣や寺社に米を支援したという記述がある。さらに約百十年後の藩の民政記録集「地方古義(じかたこぎ)」には、「寛文六年秋に洪水が起き、枇杷島橋が耐えられなくなったため下小田井村の堤を切った」とあった。

    尾張藩、増水時に堤防切り橋保護 名古屋市博物館の学芸員調査:愛知:中日新聞(CHUNICHI Web)
  • 「春画の色恋 江戸のむつごと『四十八手』の世界」白倉敬彦 著

    九月から東京都文京区の永青文庫で開催されている春画展(2015年9月23日~12月23日)が大盛況なのだという。猥褻か芸術かという議論を巻き起こしつつ春画の再評価が進んできて、江戸時代の性文化の多様性を示すものとして一定の地位を確立してきたのだろう、僕も江戸時代の文化を調べる上で非常に興味をもっていた。 書は、2014年に亡くなられた、春画の再評価を牽引した春画研究の第一人者である白倉敬彦氏による、春画の二大先駆者菱川師宣と西川祐信の作品から見る春画の変遷と特徴を通して江戸の性愛ならぬ「色恋」の姿を浮き彫りにした春画入門書である。 書の第一部では浮世絵の始祖にして春画の父である菱川師宣(?~1694)の代表作の集大成「恋のむつごと四十八手」を一枚一枚丁寧に解説しつつ、春画草創期の特徴を、第二部では菱川師宣に続いて春画中期の隆盛を牽引した西川祐信(1671~1750)の作品から第一部を補

    「春画の色恋 江戸のむつごと『四十八手』の世界」白倉敬彦 著
  • 廃藩置県直後に大規模農民暴動を生んだ流言(デマ) | Kousyoublog

    昨日は廃藩置県前の各藩の逼迫した財政について紹介したので、今日は廃藩置県の実施を受けて農民の間に広がったデマについて。引き続き勝田 政治「廃藩置県―「明治国家」が生まれた日 (講談社選書メチエ)」より。 廃藩置県実施直後の明治四年八月から十二月にかけて西日を中心に各地で旧藩主の引き留め、あるいは再任を要求する農民一揆が発生した。その原因は様々な種類の流言(デマ)であった。中でも最も広まった流言がこのようなものだったという。 『中央政府の役所は「異人」が政治を行う場所であり、「異人」は女性の血を絞って飲み、牛肉をべ「猿」のような着物を着ているようだが、すでに「異人」が血を飲んでいるところをみた者がいる。中央政府は人や牛を外国にわたそうとしている。いまの皇后は毎日生血を飲んでおり、これに供するためにわれわれの生年月日を調べようとしている。』(勝田P172) つまり廃藩置県以前から続く急激な

    廃藩置県直後に大規模農民暴動を生んだ流言(デマ) | Kousyoublog
  • 明治政府成立直後~廃藩置県前の諸藩財政の逼迫っぷりについて | Kousyoublog

    幕末の借金踏み倒しと武士の困窮 – Togetter こちらのtogetterまとめが面白かったので関連して、明治維新直後から廃藩置県にかけての諸藩の財政の逼迫っぷりについて簡単にまとめ。以下勝田 政治著「廃藩置県―「明治国家」が生まれた日 (講談社選書メチエ)」より。 明治二年に戊辰戦争が終結してから、明治四年に廃藩置県が実施されて藩が消滅するまでの間、諸藩の財政は悪化の一途を辿った。 幕末時点で諸藩の財政はどこも火の車だったが、それに戊辰戦争の戦費が重くのしかかる。例えば、『熊藩では兵器や弾薬などの費用をふくまない出兵費だけで約一〇万九〇〇〇両を要し、この額は年間収入の半分を占めたという』(P43)。あるいは肥前藩の場合、『幕末以来発行した藩札の八五パーセントが軍艦購入費と出兵費にあてられ』(P43)、さらにそれでも賄いきれず、明治二年に同藩で新たに発行された藩札の額は『同年の家禄を

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  • やはり龍馬は強かった 「北辰一刀流」免状、本物と確認:朝日新聞デジタル

    幕末の志士、坂龍馬(1836~67)が青年時代、江戸で修行した道場から与えられたとされてきたなぎなたの免状「北辰一刀流長刀(ほくしんいっとうりゅうちょうとう)兵法目録」が、物であると確認された。所有者らが7日発表した。存在は長年知られていたが、龍馬研究家の鑑定で“お墨付き”を得た。 龍馬は故郷土佐で剣術修行後、数え19歳で江戸に出て、北辰一刀流の開祖、千葉周作の弟、定吉の道場でさらに剣術を学んだとされる。 目録は縦17・9センチ、幅約2・7メートルの巻物で、「安政五(1858)年正月吉祥日」の日付がある。軸頭が水晶製で背面に金箔(きんぱく)を散らすなど、豪華なつくり。外装の見返し部分に、北斗七星を表す、金地に青色の丸い印を七つ配している。技の型の名を21列挙し、剣術の心得を和歌形式で記している。末尾前の朱印と花押(かおう=サイン)から、定吉の筆と考えられる。龍馬と恋仲だったとされ、なぎ

    やはり龍馬は強かった 「北辰一刀流」免状、本物と確認:朝日新聞デジタル