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近世に関するkousyouのブックマーク (46)

  • 東京新聞:日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか 池内敏 著:Chunichi/Tokyo Bookweb(TOKYO Web)

    トップ > Chunichi/Tokyo Bookweb > 書評 > 記事一覧 > 記事 【書評】 日人の朝鮮観はいかにして形成されたか 池内敏 著 Tweet 2017年12月17日 ◆憧憬と衝突を繰り返して [評者]四方田犬彦=比較文学者 かつて中野重治は、友人が「朝鮮の人」という表現をつい口にしたとき、それを叱責(しっせき)して、朝鮮人はきちんと「朝鮮人」と呼ぶべきであると語った。ところが『広辞苑』は一九七〇年まで「鮮人」という見出し項目を立てていた。日人は朝鮮人・韓国人に対し、自分たちが蔑称を用いていることに、長い間あまりにも無自覚であった。 竹島、従軍慰安婦、強制連行…。今日、日韓関係はあまりにも多くの困難を抱えている。巷(ちまた)にはヘイトスピーチが氾濫し、「嫌韓」が書店に平積みにされている。どうしてこのような不幸な事態が起きたのか。根底に日人の長年にわたる朝鮮人蔑視

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  • 積極的外交政策としての「鎖国」と鎖国史観についてのメモ | Kousyoublog

    最近「鎖国」について調べている。少し簡単に鎖国体制について、「鎖国」という言葉についてメモ的にまとめておきたい。 江戸時代の外交関係に関する一般的な常識は、対外貿易を長崎の出島に限り、外交関係を閉ざし、人の行き来を制限して日独自の社会を構築していく「鎖国」体制であったというものだ。これが幕末に「黒船」の登場によって「開国」し、明治維新を経て近代国家建設へと邁進する・・・しかし、このような「鎖国」観に代わって、現在では、国際関係の完全封鎖はなされず、貿易も長崎だけでなく薩摩、対馬、松前の四つの窓口を通じて積極的に貿易・外交が行われていたとする説が主流となっている。 「鎖国」は寛永一〇年(一六三三)から寛永一六年(一六三九)までに出された五つの禁令、通称「鎖国令」によって成立するが、キリスト教の布教禁止、日人の海外往来禁止、貿易を幕府の管理下に置くことなどを内容としているものであって、『

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    kousyou 2017/03/21
    最近話題のようなので過去記事をブクマ
  • 近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層 | Kousyoublog

    「重層と複合」、「分節構造」 江戸の身分制社会を解き明かす上で、その分析方法として注目されるのが身分的周縁論をリードする塚田孝氏の「重層と複合」論である。同氏は近世社会が「武士の家、百姓の村、町人の町、職人の共同組織、賤民の共同組織など」(吉田伸之2009 P12)の重層と複合から構成されているとする。「重層」とは「村々が組合村を形成したり、町々が組合町をつくったりという基礎的な社会集団が二次的三次的に集団を形成して行くような関係」であり、「複合」とは武士と町人、町人と賤民などの「異種の社会集団間の交流・関係」のことである。「近世の社会は、支配者から賤民までに及ぶ多数の社会集団が、相互に取り結ぶ無数の関係構造として全体の社会が形成される」(吉田伸之2009 P13) この塚田の「重層と複合」論を社会集団の関係構造を理解する基礎とし、吉田伸之はそこにもう一つの視点として権力秩序の「分節構造」

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  • 長崎新聞ホームページ:【県内トピックス】千々石ミゲルの墓穴?確認 (8月14日)

    千々石ミゲルの墓穴?確認 墓石を囲む基壇が出土した「千々石ミゲルの墓」=2014年9月、諫早市(浅田昌彦さん提供) 安土桃山時代にローマを訪問した天正遣欧使節の一員、千々石ミゲルの墓とみられる諫早市多良見町山川内の墓石の周辺で、地中のレーダー探査をした結果、遺体を埋葬した墓穴とみられる反応が確認されたことが13日、分かった。来月6日から発掘し、遺骨や遺品が残っていないか調べる。 レーダー探査は、宮崎県のNPO法人「i(アイ)さいと地中探査研究所」が2014年12月に実施。墓石の前方約1メートルの地中で、縦横各1メートルの円柱状の強い反射を確認した。同研究所は「墓坑(ぼこう)の可能性が高い」とみている。 発掘調査を統括する大村市の石造物研究者、大石一久さん(64)は「円柱状の反応は遺体を納めた座棺を埋めた穴ではないか」と推測。天正遣欧使節は1585年にローマ法王と謁見(えっけん)し、黄

    長崎新聞ホームページ:【県内トピックス】千々石ミゲルの墓穴?確認 (8月14日)
  • 天正遣欧少年使節のフレスコ画、法王の子孫宅で発見:朝日新聞デジタル

    16世紀に九州のキリシタン大名・大友宗麟らが送った天正遣欧少年使節の伊東マンショらが、1585年に当時のローマ法王グレゴリウス13世(在位1572~85)と面会した様子を描いたフレスコ画が、ローマにある法王の子孫の邸宅で見つかった。 絵は19世紀半ばに、法王の子孫のアントニオ・ボンコンパーニ・ルドビジ公爵の発注で、画家ピエトロ・ガリアルディが制作した。邸宅の改築の際に天井裏に隠れ、長い間存在が忘れられていた。米国人研究者が数年前、子孫宅のアルバムから絵の写真を発見。昔の新聞記事や改築記録をもとに天井裏に小型カメラを入れて調査した結果、絵が確認された。 絵の少年らは着物を着て親書を携え、中国風の髪形をしている。描かれたのは日が鎖国を終えて開国した頃で、美術史家の藤川真由さん(43)は「日欧関係の端緒を開いたのはグレゴリウス13世だったと、子孫はフレスコ画に残したかったのだろう」とみる。 子

    天正遣欧少年使節のフレスコ画、法王の子孫宅で発見:朝日新聞デジタル
  • 近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓 | Kousyoublog

    三つの支配者層 支配層として君臨するのが、 (1) 徳川将軍家を頂点として、独自の家政機構を備え封建領主として被支配層の統治を認められた大名と、幕府の行政機構において官僚としての職務を分担する旗・御家人、および各大名の家臣団からなる武士。 (2) 幕府の権威づけや元号宣下、官位叙任、祈祷や諸宗派の統制などの宗教的機能を持ち、幕藩体制を将軍家とともに支える役割を担わされつつも、制度上徳川将軍家に従属し、封建領主として大名と並列にあった天皇・公家。 (3) 近世身分制社会を成立せしめる宗旨改め制度の管理運用、キリシタン禁制のチェック機能、被支配身分の人身同定機能を担い、寺院末制度によって山・寺の地位を保障し各宗派の組織化を行って幕府の統制下で宗教社会を形成した寺社。 の三つである。公家貴族層と寺社領主層を長袖身分と呼んで区別する場合もあるが、公家貴族層は朝廷とその領地、後述する

    近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓 | Kousyoublog
  • 近世身分制社会の成立 | Kousyoublog

    兵農分離~太閤検地と刀狩り 近世の身分制度は兵農分離を軸としている。その土台は豊臣秀吉による太閤検地と刀狩りによってつくられた。太閤検地によって統一基準で算定された石高に基づき、秀吉から大名へ、大名から家臣へと領地が石高で与えられ、その知行の大きさに見合う軍役奉仕が義務付けられる。また、太閤検地によって百姓の耕作権が公認されるのとひきかえに、領主に対する貢租の納入が義務付けられる。支配者としての武士と被支配者としての百姓という構造が確立されていく。 この兵農分離に基づく身分構造の制度化として実施されたのが「刀狩り」である。「刀狩り」も、農民の武装解除という通俗的な理解が根深いが、そうではない。刀狩りは刀・脇差の所持ではなく帯刀を禁じることでの帯刀の有無を表象とした身分統制、すなわち『武士に奉公する者と、奉公しない百姓、戦う奉公人(兵)と戦わない百姓(農)の差別化』(藤木正志 「刀狩り」20

    近世身分制社会の成立 | Kousyoublog
    kousyou
    kousyou 2016/08/06
    “江戸時代、将軍と大名によって構成された『公儀』のもとで、すべての人々が宗旨改帳という『戸籍制度』によって登録されていた近世的な身分制度とは、<武士―平人―賤民>という身分制度であった。”
  • 「士農工商」とは何だったのか | Kousyoublog

    「士農工商」の由来と受容 「士農工商」という言葉と社会を構成する人々を四民に分ける分類は古代中国の古典に由来する。「春秋穀粱伝」に「古者有四民,有士民,有商民,有農民,有工民。」とあり、「漢書」には「士農工商,四民有業。學以居位曰士,闢土殖穀曰農,作巧成器曰工,通財鬻貨曰商。」、「管子」にも「士農工商四民者,國之石民也。」とある。いずれも士農工商に身分的序列の意味はなく、職能から社会を構成する人々を分類する意味でつかわれていた。 いつごろ士農工商の分類が日に伝わったかは定かではないが、「続日紀」の「霊亀元年(七一五)五月辛巳朔」に「四民之徒。各有其業」とあり、十四世紀に成立した「神皇正統記」にも「凡男夫は稼穡をつとめておのれもし、人にもあたへて、飢ざらしめ、女子は紡績をこととしてみづからもき、人をしてあたゝかにならしむ。賎に似たれども人倫の大也。天の時にしたがひ、地の利によれり。此

    「士農工商」とは何だったのか | Kousyoublog
    kousyou
    kousyou 2016/08/06
    “職能区分を示す「士農工商」が身分として捉えられるようになったのは十九世紀に入って、江戸時代後期から幕末のこと”
  • ヴァスコ・ダ・ガマの沈没船を発見 大航海時代の貴重な財宝もみつかる

    ナショナルジオグラフィックによれば、この500年前の難破船は、ヨーロッパのいわゆる「大航海時代」の遺物として発見されたものの中で最古のものだという。大航海時代とは、ヨーロッパ各国が世界の海の交易ルートを発見しようとしていた15世紀から17世紀頃の時期のことだ。ガマは、アフリカ(南岸)を経て、インド洋を通過し、現在の南インド・ケーララ州まで航海した1498年に、インド交易ルートを発見した人物として知られている。

    ヴァスコ・ダ・ガマの沈没船を発見 大航海時代の貴重な財宝もみつかる
  • 「明暦の大火(振袖火事)」と復興、江戸の都市改造 | Kousyoublog

    明暦三年一月十八日(西暦1657年3月2日)から十九日にかけ三次に渡り連続して発生して江戸の町を焼きつくした大規模火災は明暦の大火と呼ばれて「江戸の三大大火」の一つに数えられている。また、この大火災害からの復興の過程で江戸の町が整備され、後の百万都市「大江戸」の土台が整うことになった。 明暦の大火の発生当時の江戸は、約八十日間雨が降っておらず非常に乾燥して火災が起こりやすい状態にあり、また年初より小規模火災が頻発していた。さらに、前日十七日頃から北西の風が吹き、十八日未明から強風となって朝になってもなお砂塵で暗かったという。乾燥した気候と延焼しやすい強風という悪条件が重なっていたのである。 第一次:郷丸山町妙寺から出火一月十八日未の刻(午後二時頃)、郷丸山町(文京区)の寺院妙寺から出火、強風を受けて郷・湯島・駿河台へと延焼、湯島天神・神田明神・東願寺を焼いて神田川南岸(現在の万

    「明暦の大火(振袖火事)」と復興、江戸の都市改造 | Kousyoublog
    kousyou
    kousyou 2015/07/07
    id:Josui_Do さん。あっ、武蔵野市吉祥寺って書いたつもりで間違えてました。ありがとうございます。訂正しました。
  • 由比正雪の乱(慶安の変)と江戸時代前期の牢人問題 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    徳川家一門松平定政の乱心慶安四年(1651)四月二十日、三代将軍家光が死に、老中堀田正盛・阿部重次を始め多くの家臣が殉死し、あるいは隠居・出家して一線を退いた。 同七月九日の三河刈谷藩主松平能登守定政・定知親子の出家もその流れかと思われたが、少々様子が違った。定政は徳川家康の異父弟松平定勝の六男で、徳川家一門に連なる二万石の大名であった。定政は出家して「能登入道不白」と号し、現在の老中たちでは世が乱れると語り、老中井伊直孝に自身が見た夢を書き連ねた文書を送りつけ、「天徳大居士」と号して江戸を托鉢して回って人びとを驚かせた。七月十八日、幕府は定政を狂気として改易、兄の伊予松山藩主松平隠岐守定行に預け蟄居とし、この騒動は終わった。 彼が言いたかったことは、人びとが困窮しているのに幕府はその救済を全く行おうとしない、自分の二万石を例えば五石ずつ分ければ四千人に分けられる、自分が二万石の禄をむよ

    由比正雪の乱(慶安の変)と江戸時代前期の牢人問題 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「徳川慶喜 (人物叢書)」家近 良樹 著

    江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の評伝である。近年の幕末史の様々な知見をふんだんに盛り込んで、複雑怪奇、敵味方がくるくると入れ替わる幕末諸勢力の情勢の中に一橋慶喜の行動を位置づけて、彼の事績を描いており、さすが家近氏といったところだ。それほど多くの評伝を読んだわけではないが、それでもこれまで読んだこのような人物伝の中でも屈指の面白さだった。2014年1月刊。 江戸幕府を終わらせ鳥羽伏見の戦いでは無様に敵前逃亡をして、以後表舞台に一切姿を表さなかったゆえ、彼には悪いイメージが強く残っている。一方で大政奉還に至るその政治過程では確かに他を圧倒する巧みな政治手腕を見せ、いち早くばっさりと髷を落として開明的な姿勢でも知られ、切れ者としての評価も高い。この評価が一定しないところが慶喜の慶喜たるゆえんとでも言おうか、その毀誉褒貶と彼の行動原理もまた、その足跡を丁寧に追うことで浮き彫りにされている。 とりあ

    「徳川慶喜 (人物叢書)」家近 良樹 著
  • 「幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白」家近 良樹 著

    まぁ絶版なので最初は書評書かなくてもいいかと思ったのだが、やはり書の幕末史における重要度から言っても紹介しておく方が良いかなと。2007年のなので、たぶんあと五年か十年かしたら中公文庫なり講談社学術文庫なりから再販されるんじゃないかと思うが、とりあえず良いなので、古書なり図書館なりで一読おすすめします。一応、先日紹介した同じ著者の「江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」 (講談社学術文庫)」2~5章で同時代の大まかなアウトラインはつかめます。 天皇の地位の急激な上昇日近世・近代政治史上最大のテーマ、それは「天皇は何故これほど急激に地位を向上させたのか」ということだ。 豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は元和元年(1615)、禁中並公家諸法度を制定して天皇と朝廷を事実上支配下に置いた。表面上幕府と朝廷は対等という体裁を整えてはいたが摂関家以下公家は将軍に臣従し、武家伝奏を通じて朝廷統制が行われ天皇

    「幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白」家近 良樹 著
  • 書籍に奥書が書かれるのは享保の改革の出版統制・検閲政策から | Kousyoublog

    徳川吉宗による出版統制・検閲令について軽くメモ。現在の書籍で必ず書かれる奥書(奥付)だが、これが一般的に書籍に記されるようになったのは享保の改革のこと。享保七年(1722)十一月、吉宗政権は出版統制・検閲強化を目的として新刊書に関する五箇条の法令を出した。その第四条にこうある。一、 何書物ニよらじ此後新板之物、作者并版元実名奥書致可申事(大石学「吉宗と享保の改革」P149)如何なる書物であっても今後新刊書は作者ならびに版元の実名を奥書として書くこと、と定められた。ちなみに第一条は、今後新刊書は儒書・仏教書・神道書・医学書・歌書の出版は許可するが異説を交えた物は禁止すること、第二条は過去に出版された書籍のうち好色を絶版とすること、第三条は諸家の先祖について誤りを記し世の中に流布することを禁止し、子孫からの申し出のあった場合には取調べを行うこと、第五条は徳川家康を初めとして徳川家に関する書籍

    kousyou
    kousyou 2015/03/19
    blogの過去記事です。
  • 「世界史の中のアラビアンナイト」西尾 哲夫 著

    アラジン、アリババ、シンドバードの物語に代表されるアラビアンナイト(「千一夜物語」)。世界中で愛されるこの物語は九世紀頃バグダードで誕生し、各地の伝承を取り込みながら十八世紀に欧州に紹介された後、来の姿から離れて独自の展開をたどるうちに世界文学として確立されていった。その変貌の過程を丁寧に辿ることで、アラビアンナイト成立史を通してヨーロッパとイスラームという異文化の邂逅、オリエンタリズムの増幅と、異文化を通して自文化を内省するオリエンタリズム的文学空間の創出という結実へと至る様を描く非常に面白い一冊。 現存する最も古い千一夜物語「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」の記録は、1947年にエジプトで発見された。行政文書などに混じって発見された紙片には、現在の千一夜物語では語り手シェヘラザードの妹とされるディーナーザードが「楽しいお方」に話をねだる全体の冒頭部分である枠物語が書かれ、その余白にこの紙

    「世界史の中のアラビアンナイト」西尾 哲夫 著
  • 近世オーストリアの名将プリンツ・オイゲンの戦争と生涯まとめ | Kousyoublog

    第二次世界大戦時の軍用艦艇を擬人化した人気ブラウザゲーム「艦隊これくしょん~艦これ~」にその名を由来とする旧ドイツ海軍重巡洋艦のキャラクターが登場したことで、「プリンツ・オイゲン」という名は以前と比べると格段によく知られるようになってきていると思う。ということで十七世紀後半~十八世紀前半のオーストリアの軍人プリンツ・オイゲンについて。 プリンツ・オイゲンについてプリンツ・オイゲン(1663-1736)ことオイゲン=フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリニャンは十七世紀後半から十八世紀前半にかけて、神聖ローマ帝国=ハプスブルク家に仕えた軍人で、対オスマン戦争スペイン継承戦争などで活躍し、後のオーストリア=ハプスブルク帝国の基礎を軍事面の成功によって築いた人物として評価され、フランス皇帝ナポレオン1世も古今東西の名将七人の中の一人に数えている。 プリンツ・オイゲンのプリンツは公とか公子などと訳

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  • ラーコーツィの独立戦争 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "ラーコーツィの独立戦争" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年9月) ラーコーツィ・フェレンツ2世とエセ・タマーシュの出会い ラーコーツィの独立戦争(ラーコーツィのどくりつせんそう、Rákóczi-szabadságharc, 1703年 - 1711年)は、ハプスブルク帝国の絶対主義支配に対し、ハンガリーが自由を求めて起こした最初の重要な紛争。スペイン継承戦争に連動する形で展開した。 この戦いはハプスブルク家とハンガリー間の政治権力の不平等を是正しようと考えた富裕な進歩派上級貴族の一派が起こしたもので、ラーコーツィ・

    ラーコーツィの独立戦争 - Wikipedia
  • 「ハプスブルクとオスマン帝国-歴史を変えた<政治>の発明」河野 淳 著

    十六世紀初頭から十七世紀末にかけて、神聖ローマ帝国=ハプスブルク家は強大なオスマン帝国の侵攻を撃退し続けた。フランスのように絶対主義体制の構築ができたわけでも、イギリスのように四方を海に守られていたわけでもなく、宗教戦争と度重なる国際戦争で疲弊し分裂した神聖ローマ帝国に、なぜオスマン帝国からの防衛が可能であったのか。その大きな要因として書は、ハプスブルク家における実証主義的政治の誕生を挙げている。 『書のテーマは単純で、オスマン帝国から国を守るという極限状況がハプスブルクに強いた、理想を追わず現実を直視するという心性が、十六世紀的な、世界を客観的、数量的に把握し分析するという技術と出会い、そこに強力な、説得力のある実証主義政治が生まれたというものである。脱魔術化しているという点において、この政治はすぐれて近代的な政治である。』(P229~230) この分析がとても面白い。もちろん、みん

    「ハプスブルクとオスマン帝国-歴史を変えた<政治>の発明」河野 淳 著
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    kousyou 2015/01/21
    blog更新しています。ほんと面白い本でした。
  • 退位した歴代ローマ教皇(法王)四人まとめ | Kousyoublog

    ローマ教皇は終身制の地位だが、歴史上、退位したローマ教皇が四人おり、今回のベネディクトゥス16世で五人目となる。 1)ポンティアヌス(在位二三〇~二三五)最初に退位したのが第一八代教皇ポンティアヌスである。このころはまだ、キリスト教会はローマ帝国の激しい弾圧の渦中にあった。ポンティアヌスはローマ皇帝マクシミヌス・トラクスから迫害を受けサルディーニャの鉱山に、先先代のローマ教皇カリストゥス一世以来対立していた対立教皇ヒッポリュトゥスとともに流罪となり、解放の見込みがないことから二三五年九月二八日に退位した。以後ほどなくして劣悪な環境により衰弱、獄死している。2)シルウェリウス(在位五三六~五三七)西ローマ帝国滅亡直後、六世紀当時のローマ教皇は西ローマ帝国を滅ぼした東ゴート王国と東ローマ帝国という二大国に挟まれて翻弄されていた。東ゴート王国はイタリア王位をよこせと言い、東ローマ帝国は東ゴート王

    退位した歴代ローマ教皇(法王)四人まとめ | Kousyoublog
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    kousyou 2015/01/20
    2013年の記事です
  • 醤油の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    古代日の調味料奈良時代から平安時代にかけて、貴族たちのあいだで儀式料理として唐の饗応料理の影響を受けた大饗(饗膳)料理とよばれる事様式が形成されるが、これはたくさんの料理を並べて好みに応じて調味料をつけてべるもので、使われた調味料は塩・酢・酒・醤(ひしお)であったという。 醤とは材を塩漬けにして発酵させたもので、動物性の魚醤・肉醤と植物性の草醤・穀醤とに大別される。魚醤は魚の内蔵を塩蔵したもので後に塩辛に、草醤は野菜・果物を塩漬けにしたもので後に漬物に、穀醤は米・麦・豆などの穀類に塩を加えて発酵させるもので後に味噌・醤油へと発展した。日へはまず草醤が最初に伝わったと考えられており、記録に残る古いものとして、孝謙上皇の女官から平城宮の料担当者にあてた請求書の文面として醤・酢・末醤(みそ)が挙げられている西暦763年頃と推定される木簡や万葉集にもいくつか醤や酢が詠みこまれた歌もある

    醤油の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー