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フランスに関するkousyouのブックマーク (179)

  • nix in desertis:2023年6月に行った美術館・博物館(ブルターニュ展2つ,マティス展)

    SOMPO美術館のブルターニュ展。偶然か作為かはわからないが(事情を知っている人がいればコメント欄でご教示いただけるとありがたい),2023年の6月に西美とSOMPO美術館でブルターニュ展がかぶった。ブルターニュはフランスの辺境で独自の文化を維持した地域であり,近代になって鉄道が通ると観光地として人気を博すことになった。そこには都会化し,過度に洗練化されたパリとは異なる,粗野で素朴で敬虔な人々と,波高く険しい断崖に代表される荒々しい風景が都会に疲れた人々を出迎えてくれるのであった……という説明だけで気づく人は気づくところで,数々の絵画を鑑賞して感じたのは,どう考えてもこれは身近なオリエンタリズムである。しかも距離が近すぎるがゆえに当事者たちが気づきにくいたぐいの。とするとそこを批評するのが展覧会の役目なのではないかと思うのだが,どちらの企画展もその方向性での批評性は高かったとは言いがたい。

  • nix in desertis:高校世界史でいかにリシュリューと三部会停止を記述するか

    高校世界史深掘りシリーズの小ネタ。ルイ13世の宰相といえばリシュリューであるが,ルイ13世の在位年1610〜43年,リシュリューの宰相就任は1624年である(1642年に在任のまま死去)。つまり,ルイ13世とリシュリューのコンビが組まれたのは,ルイ13世の治世33年の後半,約18年ほどであった。ルイ13世は即位時点で9歳であり,母后マリー・ド・メディシスが実権を握っていた。そのマリー・ド・メディシスが,1614-15年の(全国)三部会に聖職者代表として出席・活躍したリシュリューに目をつけて登用した。その後,ルイ13世は長じて母の専横を嫌って親政を開始したが,それでも母の寵臣だったリシュリューは追放せず,どころか宰相に引き上げた。リシュリューはマリー・ド・メディシスの寵愛ではなく,その才覚によって宮廷に留まったと言えよう。 リシュリューの事績は多岐にわたるが,高校世界史上,その一つとして挙げ

  • 『ジャンヌ』(安彦良和 作)感想 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ジャンヌ・ダルクは世界史上屈指の有名人だ。現在、我々が知るジャンヌ・ダルクの事績は同時代の書簡や文書、関係者の日記、歴史家の記録類とジャンヌ・ダルクの異端審問記録の彼女の証言などを除くと、大半は1455~56年に行われたジャンヌ・ダルクの異端判決取り消しを目的とした復権裁判での関係者の証言に基づいている。我々が良く知るジャンヌ・ダルク像はジャンヌ・ダルクと同時代を生きた人々の、いわば「思い出」として語られた姿である。 作「ジャンヌ」はジャンヌ・ダルクの死から9年が経った1440年初頭に物語が始まる。かつてジャンヌ・ダルクを送り出したロレーヌ地方ヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクールに男子エミールとして育てられた17歳の少女エミリーが、当時勃発していた諸侯反乱「プラグリーの乱」で国王シャルル7世派として参戦を決意する。エミールは幼い日、ジャンヌ・ダルクと出会った思い出を胸にシャルル

    『ジャンヌ』(安彦良和 作)感想 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • カタカナ発音 - 北鎌フランス語講座 - 文法編

    発音の規則 フランス語で書かれた単語をどう読むかという視点から、おもにローマ字読みとは異なる点に絞って、初心者向けにフランス語の発音の規則を単純化してまとめてみました(網羅的なものではありません)。 以下では、カタカナ発音で表記します。滅茶苦茶な発音をするよりは、とりあえず近似のカタカナ発音でも発音できたほうがよいからです。 関連項目:「フランス語のアルファベットの読み方」 発音しない文字 英語で knife (ナイフ)の k や fight (ファイト)の gh を発音しないのと同様、フランス語でも特に単語の末尾では発音しない字があります。 1. 語末の -s, -t, -d, -lt, -ld, -x, -g, -p は発音しない Paris パリ(フランスの首都。英語のように「パリス」とは発音しない) grand prix グランプリ(大賞) alphabet アルファベ(英語だと「

  • 『図説ブルボン王朝(ふくろうの本)』長谷川輝夫 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    絢爛豪華なフランス・ブルボン王朝の歴史を近世フランス史研究の第一人者である著者によってコンパクトにまとめられた一冊。豊富な図版でお馴染みの河出書房新社「ふくろうの」シリーズということもあって、眺めるだけでも楽しい。 ブルボン朝時代については、フランス史上の最盛期で日でも人気が高いことで、それぞれの王や王妃・人物の伝記、フランス革命を筆頭にした様々な事件、ブルボン朝時代の文化・芸術・建築等類書は非常に多いが、一般向けの通史ということになると意外と少ない。軽い読み物を除くと、最近出た佐藤賢一氏の『ブルボン朝 フランス王朝史3 (講談社現代新書)』ぐらいで後は一気に世界歴史大系とかの専門書やフランス史の通史の書籍にジャンプアップする。 書は百ページ余りの薄さだが、全体像の要点が的確にまとまっているのでブルボン朝の時代はどんなものだったか、有名なあの人やあの人はどんなことをしたのか、何が起こ

    『図説ブルボン王朝(ふくろうの本)』長谷川輝夫 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2020/04/01
    更新しました。
  • シャトー・ディフ” Château d’If”~地中海に浮かぶ監獄城の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    築城までシャトー・ディフは1520年代にフランス王フランソワ1世の命でマルセイユ沖にあるラトノー” Ratonneau” 島など四つの島で構成されるフリウル諸島” Îles du Frioul”の一つイフ島に築かれた。フリウル諸島はその位置ゆえに古くから砦が築かれるなど地中海の要衝として重視されていた。 インドサイ来訪1516年1月23日、ポルトガル王マヌエル1世” Manuel I de Portugal”が教皇レオ10世に贈ろうと輸送中のインドサイがイフ島に立ち寄り、これを一目見ようとフランス王フランソワ1世も駆けつける騒ぎになった。このサイはグジャラート・スルターン朝のムザッファル・シャー2世(“Muzaffar Shah II”,グジャラート語” મુઝફ્ફરશાહ બીજો ”)からポルトガル王に贈られたもので、アルブレヒト・デューラー” Albrecht Dürer ”の木版

    シャトー・ディフ” Château d’If”~地中海に浮かぶ監獄城の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2020/02/18
    更新しました。十六世紀、マルセイユ沖のイフ島に築かれ、監獄として使われた城の歴史をまとめました。アレクサンドル・デュマ「モンテ・クリスト伯」の舞台として有名になりました
  • フジェール城” Château de Fougères”~フランス史を動かし続けた要衝 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    フジェール城(” Château de Fougères”)はフランス・ブルターニュ地方(現在のブルターニュ地域圏イル=エ=ヴィレーヌ県フジェール)にある城塞。ブルターニュ地方とノルマンディー地方の境界にあり、フランスの歴史上、ブルターニュ地方の要衝として繰り返し戦いの舞台となった。公益財団法人日城郭協会選「ヨーロッパ100名城」の一つ。 築城最初の城は十一世紀、一帯を支配するようになったフジェール家(注1)が築いた。十二世紀、ブリテン諸島からフランス西半分にいたる広大な領域を支配しアンジュー帝国を樹立したイングランド王ヘンリ2世は、1166年、ブルターニュへ侵攻し、フジェール城を攻略した。このとき破壊された石造のドンジョン(天守塔)の遺構が現在も残っている。 このあとブルターニュ公コナン4世はヘンリ2世の子ジョフロワと娘コンスタンスの結婚並びに譲位を承認し、ブルターニュ公領はアンジュー

    フジェール城” Château de Fougères”~フランス史を動かし続けた要衝 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2020/02/16
    更新しました。要衝ゆえアンジュー帝国、百年戦争、二度のフランス統一戦争、フランス革命までフランス史のターニングポイントに常に登場する名城の歴史をフランス史上のオールスター登場でまとめました。
  • ジャンヌ・ダルクの主な戦友30人まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー

    まえがきジャンヌ・ダルクの戦友というと、認知度の高さはほぼジル・ド・レに限られ、少し詳しい人でラ・イル、ジャン・ド・デュノワ、アランソン公ジャン2世、リッシュモン大元帥などが挙げられる程度だと思うのだが、ジャンヌ・ダルクほどの著名な人物ともなれば関連人物の研究も進んでおり、また、戦友たちはそのまま百年戦争の終結に活躍した有力な軍人たちということもあって、実はその事績なども詳しく知られている。そんな、日ではあまり知られていないだろうジャンヌ・ダルクの戦友たちの中から主な人物を30人ほどピックアップしてまとめてみたい。 この記事ではジャンヌ・ダルクの関連人物のうち、一緒に戦闘に参加した軍人・貴族たちが中心で、ジャンヌとともに戦っていない有力武将(例えばヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクールや著名な老騎士アルノー・ギーレム・ド・バルバザンなど)、文官(ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユやル

    ジャンヌ・ダルクの主な戦友30人まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/10/18
    更新しました。有名なジル・ド・レ以外にも多くの戦友がいました。日本語で書かれたウェブ上の情報源として初の人も多いと思います。創作などにも役立てていただければ幸いです。
  • ジル・ド・レの生涯――百年戦争後期のある中小領主家の興亡 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ジル・ド・レ――フランス王国元帥、ジャンヌ・ダルクの戦友にして数々の軍功を重ねた百年戦争の英雄、フランス王よりも富裕とまでいわれたフランス屈指の大貴族・・・しかして、その栄光の陰で快楽の赴くままに百数十名にも上る子供たちの大量殺戮を行ったとして異端審問裁判により処刑された男。恐怖の民話「青髭」のモデルとも云われる、眩し過ぎる光と深すぎる闇を併せ持った彼の生涯をたどってみよう。 ジル・ド・レについて語られるとき、快楽殺人者、悪魔崇拝、瀆神といった描かれ方が多いが、記事では少し趣向を変えて百年戦争(1337-1453)の中に彼を位置付けて、中世末期フランスのとある中小領主家の盛衰という視点で見てみようと思う。 レ男爵家はブルターニュ公に臣従してロワール川河口付近一帯に領土を持った有力領主であったが、十四世紀末、賢女(ラ・サージュ)との異名を持つ女当主ジャンヌ・ド・レ” Jeanne de R

    ジル・ド・レの生涯――百年戦争後期のある中小領主家の興亡 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/10/08
    更新しています。ジル・ド・レを百年戦争史の中に位置づけてその生涯をまとめました。
  • ジャン・ポトン・ド・ザントライユ~傭兵隊長から元帥へ上った百年戦争の勇将 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ジャン・ポトン・ド・ザントライユ(” Jean Poton de Xaintrailles”,1390年頃生~1461年10月7日没)は百年戦争後期フランスの傭兵隊長。ジャンヌ・ダルクの親しい戦友の一人。同郷の傭兵隊長ラ・イルことエティエンヌ・ド・ヴィニョルと並ぶ勇将でヴェルヌイユの戦いやオルレアン包囲戦をはじめ対イングランド戦争で活躍し、後にフランス元帥に叙された。 ザントライユがいつから戦場にでて傭兵を稼業とするようになったかはよくわからないが、レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)によれば1418年頃からラ・イルとともにアルマニャック派の傭兵として戦闘に参加したという(注1)。1423年7月31日のクラヴァンの戦いでイングランドの捕虜となる。また、おそらくこの戦いでのエピソードと思われるが、ブルゴーニュ公フィリップ3

    ジャン・ポトン・ド・ザントライユ~傭兵隊長から元帥へ上った百年戦争の勇将 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/09/23
    ジャンヌ・ダルク関連作品でも盟友ラ・イルとセットでちょくちょく出てくる代表的な戦友の一人です。一介の傭兵から最後は元帥にまで昇進した立志伝中の人物でもあります。
  • オルレアン解放後のイングランド軍追撃戦「ロワール作戦」と「パテーの戦い」 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    1429年5月8日、イングランド軍はオルレアン市の包囲を解き退却した。オルレアン包囲戦はフランスの勝利に終わったが、イングランド軍は主力を温存したまま退いたに過ぎない。5月11日、国王シャルル7世が待つロッシュでオルレアン指揮官ジャン・ド・デュノワやジャンヌ・ダルクらも参加の上で善後策が協議された。デュノワの証言(注1)によれば、このとき会議の大勢の意見はノルマンディー地方への侵攻だったが、ジャンヌはランスでの国王戴冠を強く進言したという。 シャルル7世の側近ロベール・ル・マソン(注2)はこのときの様子を『乙女は部屋に入る前に扉をノックした。部屋に招じ入れられるや、ただちにひざまずき、国王の足をかき抱くと、次のように――あるいはだいたい似たようなことを――言った。“気高き王太子さま、そんなに長い間ダラダラと御相談などなさらずに、あなたさまにふさわしい王冠を戴きに、できるだけ早くランスにご出

    オルレアン解放後のイングランド軍追撃戦「ロワール作戦」と「パテーの戦い」 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • オルレアン包囲戦~勃発の背景からジャンヌ・ダルクの登場、終結まで | Call of History ー歴史の呼び声ー

    前史フランス王シャルル6世が発狂して統治能力を失って以降、対立していたブルゴーニュ派とアルマニャック派はイングランド王ヘンリ5世に同盟を求め、両者の対立を好機としたヘンリ5世は1415年フランスに侵攻、アジャンクールの戦いでフランス軍を壊滅させ、北フランスを占領した。 イングランドの侵攻に対しブルゴーニュ派とアルマニャック派は手を結ぼうとするが、1419年、ブルゴーニュ公ジャンがフランス王太子シャルルの配下によって暗殺されると、跡を継いだブルゴーニュ公フィリップ3世はイングランド王ヘンリ5世と「トロワ条約」(1420年)を締結して軍事同盟(アングロ=ブルギニョン同盟)を結び、フランス南東ブールジュへ逃れた王太子シャルル擁するアルマニャック派と対立した。 1422年、ヘンリ5世、シャルル6世が相次いで亡くなり、ヘンリ5世とシャルル6世の娘との間に生まれた生後9か月の王子がイングランド王にして

    オルレアン包囲戦~勃発の背景からジャンヌ・ダルクの登場、終結まで | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/09/07
    なんだかんだで書き始めてから書き終えるまで一年ぐらいかかってしまいました。たぶん日本語で読めるウェブ上の記事としては一番詳しいと思うのですが。
  • フランスで45度9分を記録 ヨーロッパで記録的暑さ 死者も | NHKニュース

    ヨーロッパでは記録的な暑さが続き、死亡する人も出る事態となっていて、各国の政府は屋外での活動を控えるなどの注意を呼びかけています。 ヨーロッパではアフリカのサハラ砂漠から熱い空気が流れ込み、6月にもかかわらず各地で厳しい暑さが続いています。 地元メディアによりますと、この影響で、28日までにイタリアのミラノで72歳の男性が死亡したほかスペインでも男性2人が死亡し、北東部カタルーニャ州では山火事で6000ヘクタールが焼けました。 またフランスでは28日、南部ガール県で気温が45度9分に達し、国内の観測史上最高を16年ぶりに更新したほか、パリでも34度と6月の平年値を10度以上上回り臨時の給水所で水をくんだり水浴びをしたりする人の姿が見られました。 パリでは高齢者の家を訪ねて安否を確認する取り組みも始まり、ボランティアが水分を十分に補給するようアドバイスしていました。88歳の1人暮らしの女性は

    フランスで45度9分を記録 ヨーロッパで記録的暑さ 死者も | NHKニュース
  • ジャンヌ・ダルク活動・関連事項全年表

    ジャンヌ・ダルクの書簡は直筆署名付きの三通の書簡と口述した手紙の原六通、その他写で文面のみ残っているものが多数ある。十九世紀に歴史学者ジュール・キシュラ(1814~82)によってジャンヌ・ダルクの裁判記録、年代記、書簡、会計簿等史料がま...

    ジャンヌ・ダルク活動・関連事項全年表
    kousyou
    kousyou 2019/06/12
    更新しています。ジャンヌ・ダルクの年表を可能な限り詳しくまとめました。調べものや創作などの参考になれば幸いです。
  • 「ジャンヌ・ダルクの指輪」真贋論争

    【3月21日 AFP】フランス史上最も有名な殉教者ジャンヌ・ダルク(Joan of Arc)のものとみられる指輪が20日、西部バンデ(Vendee)県にあるピュイ・デュ・フー(Puy du Fou)の歴史テーマパークで公開された。 ジャンヌ・ダルクの三つの指輪記録に残る限りでジャンヌ・ダルクにまつわる指輪は三種類ある。 第一の指輪は1429年6月、ジャンヌ・ダルクからジャンヌ・ド・ラヴァルという女性へ送られた金の指輪である。ジャンヌ・ド・ラヴァルはシャルル5世に仕えてフランスの勝利に貢献した名将ベルトラン・デュ・ゲクランの後だった老女で、ジャンヌ・ダルクの戦友としてともに戦っていたギー・ド・ラヴァルとアンドレ・ド・ラヴァルの祖母にあたる。 第二の指輪は兄から送られたという指輪で、ジャンヌ・ダルク処刑裁判の証言によれば裁判中、この指輪は裁判長ピエール・コーションによって保管されている。ジャ

    「ジャンヌ・ダルクの指輪」真贋論争
    kousyou
    kousyou 2019/06/09
    更新しています。ジャンヌ・ダルクの指輪は三種類記録に残っていますが、2016年にオークションで競り落とされたジャンヌの指輪とされるものを巡る真贋論争について簡単にまとめました。
  • ノルマンディー公国の歴史(911~1204年) | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ノルマン人の北フランス襲来は840年頃から始まり、北海にそそぐ主要河川の河口から内陸へと侵攻、856年から、パリ、シャルトル、エヴルーその他有力諸都市が次々と襲撃・略奪され、多くの修道院や施設が破壊された。 ノルマンディー公国はヴァイキングの侵攻に悩む西フランク王シャルル単純王が911年、ノルマン人の首長ロロにキリスト教への改宗と臣従を条件に領地として与えたことに始まる(サン=クレール=シュール=エプト条約)。セーヌ川河口ルーアン地方を領土としてルーアン伯と呼ばれたが、後に西方へ拡大していった。以後ルーアンはノルマンディー公国の首邑であり続ける。 ギヨーム1世長剣公(在位927~942)、リシャール1世無畏公(在位942~996)の時代に海上交易の繁栄を背景とした強力な領邦権力として確立され、リシャール2世(在位996~1026)の時代にノルマンディー公を名乗り、フランス諸侯の中でも屈指の

    ノルマンディー公国の歴史(911~1204年) | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/05/09
    更新しました。ノルマン人の首長ロロからフィリップ2世の征服までの簡単な歴史です。
  • ノートルダム大聖堂の尖塔再建、デザインを世界中から公募へ

    火災が発生した仏パリのノートルダム大聖堂から崩落する尖塔(2019年4月15日撮影、資料写真)。(c)Geoffroy VAN DER HASSELT / AFP 【4月17日 AFP】(更新)大規模火災で壊滅的な被害を受けたフランスのノートルダム大聖堂(Notre Dame Cathedral)について、エドゥアール・フィリップ(Edouard Philippe)首相は17日、火災で崩壊した尖塔(せんとう)の再建用デザインを世界中の建築家から公募する計画を発表した。 【関連記事】大規模火災の前と後のノートルダム大聖堂 フィリップ首相によると、公募を通じてまずは尖塔を再建すべきか否かを決め、再建する場合は、火災で崩壊した19世紀建造の塔と同じデザインにすべきか、完全に新しいデザインにすべきかを決定する。 フィリップ首相は、ノートルダム大聖堂には過去に尖塔がない期間もあったと指摘。「国際コン

    ノートルダム大聖堂の尖塔再建、デザインを世界中から公募へ
    kousyou
    kousyou 2019/04/20
    保科正之「」
  • ノートルダム高額寄付に怒り=反政府デモ激化も-フランス:時事ドットコム

    ノートルダム高額寄付に怒り=反政府デモ激化も-フランス 2019年04月19日08時06分 ノートルダム大聖堂の前を行進するデモ隊=1月5日、パリ(AFP時事) 【パリ時事】大火災に見舞われたフランスのパリ中心部にある観光名所、ノートルダム大聖堂の再建のため、大富豪らから多額の寄付金の申し出が相次いでいることに対し、マクロン大統領の政策に反対し昨年11月からデモを続けている抗議運動参加者らは「不公平だ」と不満を募らせている。 ノートルダム大聖堂、再建には「数十年」=修復に寄付始まる 抗議運動の中心となっている女性は17日、「社会的な惨状には何もしないのに、わずか一晩で膨大な金を拠出できることを見せつけた」と高額な寄付を批判。インターネット交流サイト(SNS)上では「人間より石が優先されるのか」などと反発する投稿が相次いだ。 有力紙フィガロは、20日に予定されているデモについて「怒りを募らせ

    ノートルダム高額寄付に怒り=反政府デモ激化も-フランス:時事ドットコム
  • パリ ノートルダム大聖堂で火災 中央部分が崩落 大きな被害 | NHKニュース

    フランスのパリを代表する観光名所でユネスコの世界文化遺産にも登録されているノートルダム大聖堂で、現地時間の15日夜、日時間の16日未明、大規模な火災が発生し大聖堂の中央部分が崩れ落ちたほか正面の塔にも火が燃え移り消火活動が続いています。 大聖堂の中央部分が最も激しく燃え、高さおよそ90メートルのせん塔や周辺の屋根が火災発生からおよそ1時間後に崩れ落ちました。 その後、火は正面にそびえるふたつの塔のうち北側の塔にも燃え移り、現場ではいまもおよそ400人の消防隊員が消火活動を続けています。 消防によりますと、消火活動中に隊員の1人が大けがをしたほか、これまでに大聖堂の屋根の3分の2が崩れ落ちましたが火の広がりは抑えているとしています。 大聖堂は火が燃え広がったときには閉館後で、中に観光客はいなかったとみられ、内務省の高官は今のところ死者は出ていないと話しています。 消防は大聖堂の屋根裏付近か

    パリ ノートルダム大聖堂で火災 中央部分が崩落 大きな被害 | NHKニュース
  • 中世のブルボン家~ブルボン公国の興亡とヴァンドーム家の台頭 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ブルボン公家は、1272年、フランス王ルイ9世の六男クレルモン伯ロベールと中央フランスにあるブルボネ地方を領するブルボン伯家の女継承者ブルボン女伯ベアトリスが結婚、その子ルイ1世がブルボン公に陞爵したことに始まる有力諸侯である。中世後期フランスに登場した有力「諸侯国家(”État princier ”)」のひとつブルボン公国として十四世紀から十六世紀初頭まで勢力を誇った。 初代ブルボン公ルイ1世(在位1327~41)はフランドル戦争で活躍し、1317年父の死後クレルモン伯位と母の所領ブルボン伯領を継承した。フランス王シャルル4世の忠実な支持者として信頼され、クレルモン伯領とラ・マルシュ伯領の交換と、それにともなう公への陞爵によってブルボン公家を開いた。ヴァロワ伯シャルルの娘イザベラを嗣子ピエールと結婚させるなどヴァロワ家の有力な支持者でもあった。また次男ジャックにラ・マルシュ伯を継承させた

    中世のブルボン家~ブルボン公国の興亡とヴァンドーム家の台頭 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/01/30
    更新しました。十四世紀初頭のフランス、ブルボン公国が諸侯国家として隆盛を迎え王権が中央集権化を進める過程で断絶、改めて傍流のヴァンドーム家が当主となって台頭する十六世紀半ばまでの200年史です。