タグ

日本と天皇に関するkousyouのブックマーク (8)

  • 「日本文化論」の典型としての『國體の本義』 - 美徳の不幸 part 2

    今日は、久々の院ゼミ(約1ヶ月ぶりか?)。今日の課題図書は『國體の義(やっぱ、ここは旧字がしっくり来るよな)』(文部省編、1937年発行)。実は、が学部時代のゼミでこれを読んでおり、そのコピーが「発掘」されたので、僕がもらい受け、「たまにはこういうのをみんなで読むのも面白かろう」と思って、レジュメを作らず好き放題にしゃべり合う。 勿論、内容は今から見れば突っ込みどころのオンパレードなのだが、このの主旨は「そういう賢しらな論理・理屈を越えて日の国体、ひいては天皇は偉いのだ。なぜなら偉いというのは過去から現在、そして未来永劫続くのだから」とトートロジカルに宣揚することなので、その論理の瑕疵を言い立ててもはっきり言って意味がない。 僕としては、つい習性でこのの宗教観などに注目してしまうのだが(例えば仏教に関してはやはり「鎌倉新仏教中心史観」ぽいなあ、とか)、それよりも気になったのは、戦

    「日本文化論」の典型としての『國體の本義』 - 美徳の不幸 part 2
  • 東国国家論 - Wikipedia

    東国国家論(とうごくこっかろん、複数国家論とも)とは、歴史学者佐藤進一が提唱した日の中世国家体制に関する学説。権門体制論と対比される。 概略[編集] 鎌倉幕府を東国において朝廷から独立した独自の特質をもつ別個の中世国家と見なし、西日を中心とする王朝国家と鎌倉幕府とは、「相互規定的関係をもって、それぞれの道を切り開いた」[1]とする。さらに東国国家は、北条時頼が親王将軍を迎えて以降、西日からの相互不干渉と自立を目指したとされる(これを特に東国独立国家論ともいう)。 学説史[編集] 佐藤は元々『新日史講座 封建時代前期』「幕府論」[2](中央公論社、1949年)の中で、寿永二年十月宣旨により源頼朝が朝廷から東国における行政権を付与され一つの国家的存在(東国国家)が成立したと主張し、鎌倉幕府を一個の国家と規定していた。 しかし1963年に黒田俊雄が権門体制論を提唱し、二つの国家などではな

  • 権門体制 - Wikipedia

    権門体制(けんもんたいせい)は、歴史学者黒田俊雄が提唱した日の中世国家体制に関する学説。岩波講座『日歴史 中世2』(1963年)で「中世の国家と天皇」というタイトルで発表した。 この「権門体制論」は戦前の歴史学者平泉澄の研究を継承したものとする、歴史学者今谷明の指摘もある。 概略[編集] それまでの中世史観では、中世国家は旧体制である天皇を代表とする公家権力と宗教権力(寺家)、新興の武家権力が三つ巴の対立抗争を行っている社会であるとの見方が大勢を占めていた。 それに対し黒田は、文献に現れる権門勢家という言葉を用語化して権門体制論という学説を提唱した。 権門勢家とは簡単に言い表すと権威があり、勢威もある政治的、経済的に有力な勢力というところだろう。これら公家権門(執政)、宗教権門(護持)、武家権門(守護)はそれぞれ荘園を経済的基盤とし、対立点を抱えながらも相互補完的関係があり、一種の分業

  • 終戦記念日という神話: 極東ブログ

    終戦記念日というけど、終戦したのは日だけ、ということを日人は忘れがちになる。しかも、8月15日は。降伏勧告のポツダム宣言を受諾したと元首が国民に通知しただけで、実効の降伏文書に調印したのは9月2日。終戦記念日は9月2日とすべきかとも思うが、沖縄を含む南西諸島の日軍守備軍と米軍との間で降伏調印が行われたのは9月7日。なので、沖縄戦が当に終わったこの9月7日をもって、日の終戦記念日としたほうがいいと思う。 1945年8月15日、日の国家元首である天皇はラジオを通して敗戦を通知した。玉音放送と呼ばれている。放送とはいっても、いったんレコードに録音されたものだった。録音場所は皇居なので最初から雑音が入った。その前日、新聞などで重大な放送があると発表されていたので、多くの日人はたぶん敗戦宣言だろうと予断を持って聞いたようでもある。 玉音とはいえ、日国民は現実の天皇の声など聞いたことも

  • 院政のはじまりー白河院ー - 我が九条

    院政を始めたのは白河上皇である。白河上皇は子どもに譲位した後、自由な立場から院政を行った。 これがよくなされる説明である。しかし実際にはそれほど単純に院政が成立したわけではない。白河天皇が自分の皇子善仁(たるひと)親王に譲位したその背景には、白河天皇の妄執があった。 発端は後三条天皇親政に遡る。後三条天皇は藤原摂関家を外戚としない天皇であることは、有名である。後三条が実際に院政を行おうとしたか否かについては、議論の分かれるところであるが、後三条の皇位継承計画によれば、とりあえず白河天皇を即位させ、時期が来れば皇族を外戚とする実仁親王を即位させようと考えていたようだ。 白河天皇は自分が愛した賢子の血を引く善仁親王に皇位を継承させたいと考えた。そういう中で皇太弟の実仁親王が死去し、その機を捉えて善仁親王の即位を強行した。堀河天皇である。ここに院政が成立した、と言われる。 しかし白河上皇自身、院

    院政のはじまりー白河院ー - 我が九条
  • NHKスペシャル 象徴天皇 素顔の記録、見たよ - finalventの日記

    NHKスペシャル|象徴天皇 素顔の記録 見るつもりはなくて、録画の設定中、天気予報を見ていたら始まり、つい見てしまった。 見て、感動しましたよ。天皇、SUGEEEEですよ。いや、昭和のシーンに明仁さんが出てきて「天皇」と言われると、「ちがうだろ皇太子だ」と脳内コビトが突っ込むのがうざい。 ウヨサヨがお好きな「天皇」というのはさておき、普通に公務をされているリベラルな中産階級の爺さん婆さんの金婚式に至る日々という感じが最高によかったですよ。中産階級なわけはなかろうにというのもあるかもしれないが、その慎ましさはそれだった。 このお二人のお人柄は、もう、どうしようもなくすばらしいものだった。人として優れているのだから、どうしようもないじゃんという以上に、ご努力の姿がきちんと伝わる。 天皇であることには、まあ、公務だしなというくらいに割り切って私は見ていたのだが、いやこの公務はただ事ではない。明

  • 大正生まれの日本人は…… - finalventの日記

    先生⇒「方法」と「方法論」 - を償うにをもってせよ 『新ゴー宣』で、天皇を気で神だと信じていたのは、大東亜戦争時分に子供だった「小国民世代」だけだと書いてあった。これは興味深い指摘だ。同じように、明治43年までの日人は、それほど天皇を崇拝すべき、畏怖すべき存在だとは思っていなかったのである。 これは私の父(大正生まれ最後)の世代に人には当たり前のことだった。普通に「天ちゃん」とか言っていた。普通に、「あ、そう」とかギャグ飛ばしていた。「なるたん憲法」なんていう言葉もそのころの名残かもしれない。さらに普通に大正天皇は民衆から変に思われていた。 このあたり、しかし嘆息したのは、「大東亜戦争時分に子供だった」吉隆明かな。彼は学生時代、さすがに天皇を神と信じていたわけもないが、現人神というか理念には従っていた。山七平との対話でもそのあたりがずれまくっていた。 山七平にしてみれば

    大正生まれの日本人は…… - finalventの日記
  • 和歌と祭祀/昭和天皇(原武史) - 見もの・読みもの日記

    ○原武史『昭和天皇』(岩波新書) 岩波書店 2008.1 待望の原武史さんによる昭和天皇論! そう思ったのは私だけではあるまい。同氏の『大正天皇』(朝日選書,2000)は、「頭が弱い」「病弱」といわれた大正天皇の人間味にあふれる姿を、巡行中のエピソードや御製の漢詩を使って描き出した、すがすがしい好著だった。 書は1986(昭和61)年11月23日から始まる。昭和天皇が執り行った最後の新嘗祭である。翌87年9月から長い闘病生活に入り、89年1月に死去。書の記述によって、私は初めて、宮中祭祀における天皇の役割の過酷さを知った。時には夕方から未明まで、暖房設備もない暗闇の中に正座して、神に奉仕しなければならない。高齢の天皇に配慮して、座椅子を用いるとか、儀式の一部を省略するなどの対処は取られていたそうだが、「御肉体においても日人中一番御苦労遊ばされるは、天皇陛下にあらせられる」という掌典職

    和歌と祭祀/昭和天皇(原武史) - 見もの・読みもの日記
  • 1