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キリスト教に関するkousyouのブックマーク (211)

  • エホバの証人と輸血の話 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

    輸血拒否した両親・親権停止が男児の命を救った - NATROMの日記のブックマークコメントでだいぶん混乱がみられるので、一応の情報提供。 まずわたしの立場から説明しておくと、私はいまは正教会に通って勉強している身ではあるけれど(洗礼は受けていない)、子どもの頃はエホバの証人の研究生だった。そちらでもやはり洗礼(バプテスマと彼らは呼ぶ)は受けていない、でもまあ幼稚園くらいから親に連れられて週に三度の勉強会に出ていたせいで(彼らの用語では「集会」)家庭戸別訪問にたまに参加したり、それから後年自分の手術に際して輸血拒否したくらいにはずぶずぶに信者のようなものだった。すでに高校受験に際して集会にはいかなくなったとはいえ、私がほんとうに彼らときっぱりすっぱり縁を切れたのは、結婚して、30になる少し前だったと思う。幼少期のカルト系新宗教の影響を断ち切るのはかくも難しい。まあその話はおいて。 というわけ

    エホバの証人と輸血の話 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake
  • 陪審員制度の神学 pdf

    kousyou
    kousyou 2009/03/05
    "陪審制度で問題となるのは、事実の確信ではなく道徳の確信なのである"うむ。
  • 「わが国に経営判断原則は存在していたのか」 | isologue

    初めてコメントさせていただきます。 大変タメになるエントリーを読ませていただきました。経営判断原則ですか。なるほど、日ではあまり話題にならない部分ですね。大学で経営学を学んでいても「経営判断原則論」という講義はなかったかのように思います。 日の経営判断原則がもし司法によって構築されたものであるなら、それはかなり危ういものになるんではないかな?と思います。司法は世論の反応に敏感で、地方裁判所では判例とは違う判断がよく下される傾向にあります。村上ファンドやライブドア裁判が顕著です。これらは「感情に流された」部分が多い判断であり、法律家からも非常に疑問視されている判決です。 こういった感情に流された判決が今後出る可能性は今後も高く、国民世論に押されて間違った経営判断原則の判例が積み重なる可能性もあります。例えば今流行りの派遣切りなどの問題はまさに感情によって動かされています。「かわいそう」と

  • キリスト教民主主義と日本型システム - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

    タイミングを合わせたわけではないのですが、平家さんのエントリに反応したとたんに、関連する記事を見つけました。 日送られてきた『生活経済政策』3月号に、篠原一先生の「小さなユートピアを」の最終回「3つの政治潮流とその行方」が載っています。その中で、 >さて、20世、特にヨーロッパの政治には大きくいって3つの流れがあった。第一に自由主義、第二に社会民主主義、第三がキリスト教民主主義である。・・・この3つの流れの中でキリスト教民主主義は現実の力としては大きかったが、理論的には十分明らかにされてこなかった。これは近代の歴史をあまりにも近代化の直線的展開という一点から見過ぎたためであろう。この流れは、ヨーロッパの伝統社会が民主化する過程で、伝統との厳しい闘いの中から生まれた、いわば土着型のものであり、特に第二次世界大戦後、つまり20世紀の後半になって初めて民主主義にコミットするようになった。キリス

    キリスト教民主主義と日本型システム - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
  • 我に囚われた我々に赦しはあるのか I - 蒸散する物語

    雑記 | 13:27 | 原罪とは何か、ということを考えるとき、当然ですが創世記を読み直す必要が出てきます。けれど旧約聖書が成立する過程というのは極めて複雑ですから、ただロジカルに読むだけであれば、そこには多くの矛盾が生じます。けれども、それを単に無意味な論理的破綻と捉えるべきではない、とぼくは思います。いまぼくらの眼前にある聖書を前にして、そこから何かを読み取るということは、決して無駄ではない。いやこれはクリスチャンの方からすれば極当然のことだとは思うのですが、ぼくのように徹底して無信仰な人間からすると、どうしても文批評して分析してばらばらに解体してラベルを貼って、ということをしがちになる。もちろんヴェルハウゼンだってフォン・ラートだってグンケルだってノートだって、みんな立派な信仰者だったでしょう。けれどもぼくの場合、そこに神のいない分析になってしまう。それはやはり自分自身に対して批判

  • ゲティスバーグ演説 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "ゲティスバーグ演説" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年11月) ゲティスバーグ演説(ゲティスバーグえんぜつ、英: Gettysburg Address)は、南北戦争の最中の1863年11月19日、ペンシルベニア州ゲティスバーグにある国立戦没者墓地の奉献式において、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが行った演説。アメリカ歴史において、最も有名な演説の一つとされる。 概要[編集] 現存するものとして唯一確認されているゲティスバーグでのリンカーンの写真(着座・演説中ではない) 奉献式の基調演説はエドワード・エ

    ゲティスバーグ演説 - Wikipedia
  • まずい! マケインが選ばれちゃった~『アメリカの宗教右派』 飯山雅史著(評:後藤次美):日経ビジネスオンライン

    書の冒頭には、こんな数字が紹介されている。 アメリカではダーウィンの進化論を信じている人は、国民の約4分の1にしかすぎず、一方、神による天地創造説を信じている人は4割にものぼる。 日人にはにわかに信じがたいこの数字は、アメリカが現在なお、宗教国家であり続けていることを示しているようだ。したがって―― 〈米国はピューリタンの移民の時代から、基的には宗教国家と言ってもいい。欧州でも日でも、近代化が進むと社会から宗教の影響が薄れて世俗的になってきたが、アメリカはそうではない〉 と著者が語るように、宗教という視点を欠いたアメリカ論は、ニコチン抜きのタバコ、カフェイン抜きのコーヒーと同じで、ほとんど「論」の体をなさないはずだ。 書は、アメリカ政治や社会を理解するうえで、最低限知っておきたいアメリカの宗教事情を「宗教右派」という視角から概説したものである。具体的には、アメリカのプロテスタン

    まずい! マケインが選ばれちゃった~『アメリカの宗教右派』 飯山雅史著(評:後藤次美):日経ビジネスオンライン
    kousyou
    kousyou 2008/10/06
    この本読もうと思ってた。ファンダメンタリズムの話は山本七平も読み返すといい。
  • ペンテコステ派 - Wikipedia

    ペンテコステ派(ペンテコステは、英: Pentecostalism)は、キリスト教のプロテスタント教会のうち、メソジスト、ホーリネス教会のなかから1900年頃にアメリカで始まった聖霊運動、つまりペンテコステ運動からうまれた教団、教派の総称ないし俗称。この教派、教団に属する教会をペンテコステ教会という。 ペンテコステ運動の歴史とペンテコステ教会の成立[編集] ウィリアム・シーモア チャールズ・F・バーハム 原始キリスト教を中心としたペンテコステ派と同等の教義を教え実行していた教派は、聖書の時代から世界中の様々なところに存在してきた。 近代ペンテコステ運動は、1901年にカンザス州トピカのベテル聖書学院で行われた年末年始の祈祷会で、指導者であるチャールズ・F・パーハムをはじめ神学生のほとんどが、いわゆる「聖霊のバプテスマ」を体験し異言で神をほめたたえたことが契機となった。バーハムは、テキサス州

  • アメリカ合衆国の現代キリスト教 - Wikipedia

    アメリカ合衆国の現代キリスト教(アメリカがっしゅうこくのげんだいキリストきょう)では、アメリカ合衆国における現代キリスト教について述べる。キリスト教およびキリスト教の歴史については別項を参照。 アメリカ合衆国のキリスト教の歴史(en)も参照。 アメリカ合衆国では、国民の約80%がキリスト教徒であり、かつプロテスタントの比率が高く、多数のプロテスタント教派が存立し、同一地域内で多様なキリスト教信仰がみられることに特徴がある。 リバイバル[編集] 循環的なリバイバル(信仰復興)は、アメリカのキリスト教の特徴である[1]。ジョージ・ホウィットフィールド、ジョナサン・エドワーズらの第一次大覚醒は、伝道活動の型を決定したと言われている[2]。その後もカンバーランド長老教会を形成させたチャールズ・フィニーらの第二次大覚醒、ドワイト・ライマン・ムーディー、ルーベン・アーチャー・トーレーらの第三次大覚醒が

  • キリスト教根本主義 - Wikipedia

    キリスト教根主義(キリストきょうこんぽんしゅぎ、英語:Christian fundamentalism)は、米国及び英国プロテスタントの保守的な福音主義(Evangelicalism)である。19世紀から20世紀初頭にかけて自由主義神学に対しキリスト教の基的な信条を主張した。 概説[編集] 聖書の霊感と権威(聖書の無誤性) キリストの処女降誕 代償的贖罪の教理 キリストの体の復活 イエス・キリストの再臨 キリスト教根主義運動は、当初は保守的な福音主義(evangelicalism)の中で協力するものであったが、次第にディスペンセーショナリズムの色合いを濃くしていった。 ファンダメンタリスト(原理主義者)の語は、21世紀に議論を呼ぶ語である。しばしば、レッテル張りのため攻撃的な侮蔑語として用いられるとされ、福音派の指導者である宇田進は、「ファンダメンタリストという名称ぐらい敵意に満ちた

    キリスト教根本主義 - Wikipedia
  • [書評]プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー): 極東ブログ

    「プロテスタンティズムの倫理と資主義の精神」(参照)、通称「プロ倫」についてなにかを書こうと思うような日が来ようとは思いもかけなかった。「プロ倫」はただ百遍読めばいいのである。 しかし、馬鹿につける薬はないな、プロ倫を百遍読めとばかりも言えないかもしれないご時世でもある。ま、かく言う私自身がその馬鹿の部類でもあろうから、たまに恥をさらしておくのもいいだろう。 とはいえ、このがなんであるかについてはさすがに省略する。ブログを書く手間はあるが、プロ倫を解説する手間はさすがにない。なので、いくつかティピカルなポイントだけ簡単に記しておく。 カルヴァン的なプロテスタンティズムの「神の選びの教義」とは何か これを、「神が現世における人間の努力やその成果によって人間を選別し、勝利者を救済し、弱者を地獄に落とす」と理解している人は、およそ社会学なり現代社会・政治を論じるに足りない。昔なら、岩波文庫で

  • 宗教者によるいいかげんな教典解釈と、自己保身的なご都合主義 - macska dot org

    デルタGのサイト(いつも読んでます頑張ってください)において、レズビアン&ゲイのイスラム教徒の姿を映したドキュメンタリ映画『愛のジハード』の評論を読んでいて、気になった部分があった。向こうのコメント欄ではじめた議論だけど、長くなってしまったのでこちらに書いてトラックバックすることにする。まず、以下はその評論の最後の部分から引用。 同性愛を弾圧するヘテロ男教徒の宗教解釈は、ほんとうにいいかげんだ。 ・同性愛者は罪人だ。 ・罪を公にする罪人は死刑に処すべきだ。 ・だから、同性愛者は皆、死刑に処すべきだ。 ふたつの前提の是非はともかく、この論法にはとりあえず矛盾はない。 しかし、同じ聖典において、そもそも人間は、罪を犯したために楽園を追われ、原罪を抱えた存在だったはずだ。 そうであるならば ・人間は罪人だ。 ・罪を公にする罪人は死刑に処すべきだ。 ・だから、人間は皆、死刑に処すべきだ。 何故こう

    宗教者によるいいかげんな教典解釈と、自己保身的なご都合主義 - macska dot org
  • kousyoublog.jp – このドメインはお名前.comで取得されています。

    このドメインは お名前.com から取得されました。 お名前.com は GMOインターネットグループ(株) が運営する国内シェアNo.1のドメイン登録サービスです。 ※表示価格は、全て税込です。 ※サービス品質維持のため、一時的に対象となる料金へ一定割合の「サービス維持調整費」を加算させていただきます。 ※1 「国内シェア」は、ICANN(インターネットのドメイン名などの資源を管理する非営利団体)の公表数値をもとに集計。gTLDが集計の対象。 日のドメイン登録業者(レジストラ)(「ICANNがレジストラとして認定した企業」一覧(InterNIC提供)内に「Japan」の記載があるもの)を対象。 レジストラ「GMO Internet Group, Inc. d/b/a Onamae.com」のシェア値を集計。 2023年5月時点の調査。

  • パウロとレーニンの「働かざるもの食うべからず」との言葉は同じ意味に解釈するとまずいと思いませんか。 - パウロとレーニン... - Yahoo!知恵袋

    マルクス主義ってのは、ユダヤ教の『至福千年王国』の焼き直しなんだよ。 だから、同じ意味に解釈していいんだ。 ただし、だれを敵として、この発言をしているか、の違いだけだ。 wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist1_2_4.htm - 共産主義は、単なる政治形態の一つではなく、むしろ新宗教の一種と見ることができる。その起源は、フランス革命の理論的支柱となったルソーであり(注)、その妄想性、破壊性は、ロベスピエールによるギロチンの恐怖政治(処刑された者2万人、革命全体による犠牲者は200万人)を生み出した。さらにこの新宗教は、サン=シモン、ヘーゲル、フォイエルバッハらの理論を取り入れて補強され、マルクス、エンゲルスおよびレーニンにより、「ユダヤ教」の教義やロシア正教の「メシアニズム」を加味して完成された。 共産主義者は、自らの宗教を唯一絶対の真の宗教と

    パウロとレーニンの「働かざるもの食うべからず」との言葉は同じ意味に解釈するとまずいと思いませんか。 - パウロとレーニン... - Yahoo!知恵袋
  • 「働かざるもの食うべからず」この言葉は誰の言葉でしたっけ?また、どんな意味でしたか? - 「働かざるもの食うべからず」この言葉は誰の言... - Yahoo!知恵袋

    「働かざるものうべからず」 正確に言うならば、「働きなくない者はべるな。」というのが聖書の記述です。 - パウロ テサロニケ人への第2の手紙3章10節 If man will not work, he shall not eat. 英語語では、働かざるものうべからず とされています。 働かざるものうべからず・などといわれると、ちょっとひねて、それじゃ、赤ん坊や子供、病気や怪我でで仕事が出来ない者たちは、ご飯をべる資格はないのか! と言ってみたくなるものです。 やはり人は自分で稼げるようになって初めて一人前の人間になった、と言うべきでしょうか?

    「働かざるもの食うべからず」この言葉は誰の言葉でしたっけ?また、どんな意味でしたか? - 「働かざるもの食うべからず」この言葉は誰の言... - Yahoo!知恵袋
  • 「働かざるもの食うべからず」は新約聖書が由来だった

    「働かざる者うべからず」 という、誰もが一度は聞いたことがあるであろうこのフレーズ。 もとはレーニンの言葉だという話を私は耳にしました。びっくり!レーニンというと、ロシア革命を起こした共産主義の、今でも遺体が永久保存されている(TVで見た覚えがある)、あの人のことですよね?保守派が好んで使う「働かざる者うべからず」って、共産主義の考え方だったのでしょうか。 気になった私は、インターネットで調べてみました。松原俊氏のlivedoorニュースの記事「『働かざる者うべからずの真実』」によると、これはレーニンが伝道者パウロの言葉を引用して言った言葉なのだそうです。つまり、おおもとはキリスト教です。 http://news.livedoor.com/ webapp/journal/cid__1904824/detail それにしても、なぜレーニンがパウロの言葉を引用したのでしょうか?共産主義者

    「働かざるもの食うべからず」は新約聖書が由来だった
  • 知性とキリスト教 - 暴風日記

    2008-07-13を聴いた。 日人だってそこそこ馬鹿だって気もするけれど、面白かった。町山氏は、近年のアメリカ人が馬鹿になった理由として、元来アメリカが持っていた反知性主義に加えて、近年のキリスト教原理主義が持っている反科学主義があることを指摘していた。関係ないのかもしれないけれど、最近日でも「チャーチスクール」ってのが流行っている。わたしの語彙では、チャーチスクールすなわち教会学校というのは、日曜日の礼拝の前に、子どもたち対象に行われる礼拝と教育の時間のことだと思っていた。ところが最近はそうではないらしい。いわゆるホームスクールのように、教会が子どもたちを集めて学校に代わって教育を行うことをチャーチスクールというのだそうだ。単純にわたしの印象として日のホームスクールは、不登校の子どもに対応するためと言うのが多いような気がするが、チャーチスクールの場合、その多くが宗教的な理由、特に

    知性とキリスト教 - 暴風日記
  • 牛に引かれて善光寺 - Comments by Dr Marks

  • 【インフォシーク】Infoseek : 楽天が運営するポータルサイト

  • 旧約聖書 - Wikipedia

    旧約聖書(きゅうやくせいしょ、英語: Old Testament)は、ユダヤ教およびキリスト教の正典である。「旧約聖書」は『新約聖書』も正典とするキリスト教による呼び方で、ユダヤ教では「旧約聖書」と呼ばず、正式の名は『律法(トーラー)、預言書(ネビイーム)と諸書(ケスビーム)』で[1][注 1][出典無効]、日常的にはその頭文字をとって『タナハ』あるいは読誦を意味する「ミクラー」と呼ぶ[3]。『旧約聖書』は原則としてヘブライ語で記載され、一部にアラム語で記載されている。 イスラム教では「タウラー」(トーラー、律法)と「ザブール」(詩篇)を啓典としてその正統性を認めている[4][注 2]。 呼称[編集] 『旧約聖書』とは、『新約聖書』の『コリントの信徒への手紙二』3章14節などの「旧い契約」という言葉をもとに、2世紀頃からキリスト教徒によって用いられ始めた呼称である。これは古い契約の書が旧約