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フランスと歴史に関するkousyouのブックマーク (83)

  • nix in desertis:2023年6月に行った美術館・博物館(ブルターニュ展2つ,マティス展)

    SOMPO美術館のブルターニュ展。偶然か作為かはわからないが(事情を知っている人がいればコメント欄でご教示いただけるとありがたい),2023年の6月に西美とSOMPO美術館でブルターニュ展がかぶった。ブルターニュはフランスの辺境で独自の文化を維持した地域であり,近代になって鉄道が通ると観光地として人気を博すことになった。そこには都会化し,過度に洗練化されたパリとは異なる,粗野で素朴で敬虔な人々と,波高く険しい断崖に代表される荒々しい風景が都会に疲れた人々を出迎えてくれるのであった……という説明だけで気づく人は気づくところで,数々の絵画を鑑賞して感じたのは,どう考えてもこれは身近なオリエンタリズムである。しかも距離が近すぎるがゆえに当事者たちが気づきにくいたぐいの。とするとそこを批評するのが展覧会の役目なのではないかと思うのだが,どちらの企画展もその方向性での批評性は高かったとは言いがたい。

  • nix in desertis:高校世界史でいかにリシュリューと三部会停止を記述するか

    高校世界史深掘りシリーズの小ネタ。ルイ13世の宰相といえばリシュリューであるが,ルイ13世の在位年1610〜43年,リシュリューの宰相就任は1624年である(1642年に在任のまま死去)。つまり,ルイ13世とリシュリューのコンビが組まれたのは,ルイ13世の治世33年の後半,約18年ほどであった。ルイ13世は即位時点で9歳であり,母后マリー・ド・メディシスが実権を握っていた。そのマリー・ド・メディシスが,1614-15年の(全国)三部会に聖職者代表として出席・活躍したリシュリューに目をつけて登用した。その後,ルイ13世は長じて母の専横を嫌って親政を開始したが,それでも母の寵臣だったリシュリューは追放せず,どころか宰相に引き上げた。リシュリューはマリー・ド・メディシスの寵愛ではなく,その才覚によって宮廷に留まったと言えよう。 リシュリューの事績は多岐にわたるが,高校世界史上,その一つとして挙げ

  • 『ジャンヌ』(安彦良和 作)感想 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ジャンヌ・ダルクは世界史上屈指の有名人だ。現在、我々が知るジャンヌ・ダルクの事績は同時代の書簡や文書、関係者の日記、歴史家の記録類とジャンヌ・ダルクの異端審問記録の彼女の証言などを除くと、大半は1455~56年に行われたジャンヌ・ダルクの異端判決取り消しを目的とした復権裁判での関係者の証言に基づいている。我々が良く知るジャンヌ・ダルク像はジャンヌ・ダルクと同時代を生きた人々の、いわば「思い出」として語られた姿である。 作「ジャンヌ」はジャンヌ・ダルクの死から9年が経った1440年初頭に物語が始まる。かつてジャンヌ・ダルクを送り出したロレーヌ地方ヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクールに男子エミールとして育てられた17歳の少女エミリーが、当時勃発していた諸侯反乱「プラグリーの乱」で国王シャルル7世派として参戦を決意する。エミールは幼い日、ジャンヌ・ダルクと出会った思い出を胸にシャルル

    『ジャンヌ』(安彦良和 作)感想 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 『図説ブルボン王朝(ふくろうの本)』長谷川輝夫 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    絢爛豪華なフランス・ブルボン王朝の歴史を近世フランス史研究の第一人者である著者によってコンパクトにまとめられた一冊。豊富な図版でお馴染みの河出書房新社「ふくろうの」シリーズということもあって、眺めるだけでも楽しい。 ブルボン朝時代については、フランス史上の最盛期で日でも人気が高いことで、それぞれの王や王妃・人物の伝記、フランス革命を筆頭にした様々な事件、ブルボン朝時代の文化・芸術・建築等類書は非常に多いが、一般向けの通史ということになると意外と少ない。軽い読み物を除くと、最近出た佐藤賢一氏の『ブルボン朝 フランス王朝史3 (講談社現代新書)』ぐらいで後は一気に世界歴史大系とかの専門書やフランス史の通史の書籍にジャンプアップする。 書は百ページ余りの薄さだが、全体像の要点が的確にまとまっているのでブルボン朝の時代はどんなものだったか、有名なあの人やあの人はどんなことをしたのか、何が起こ

    『図説ブルボン王朝(ふくろうの本)』長谷川輝夫 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2020/04/01
    更新しました。
  • シャトー・ディフ” Château d’If”~地中海に浮かぶ監獄城の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    築城までシャトー・ディフは1520年代にフランス王フランソワ1世の命でマルセイユ沖にあるラトノー” Ratonneau” 島など四つの島で構成されるフリウル諸島” Îles du Frioul”の一つイフ島に築かれた。フリウル諸島はその位置ゆえに古くから砦が築かれるなど地中海の要衝として重視されていた。 インドサイ来訪1516年1月23日、ポルトガル王マヌエル1世” Manuel I de Portugal”が教皇レオ10世に贈ろうと輸送中のインドサイがイフ島に立ち寄り、これを一目見ようとフランス王フランソワ1世も駆けつける騒ぎになった。このサイはグジャラート・スルターン朝のムザッファル・シャー2世(“Muzaffar Shah II”,グジャラート語” મુઝફ્ફરશાહ બીજો ”)からポルトガル王に贈られたもので、アルブレヒト・デューラー” Albrecht Dürer ”の木版

    シャトー・ディフ” Château d’If”~地中海に浮かぶ監獄城の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2020/02/18
    更新しました。十六世紀、マルセイユ沖のイフ島に築かれ、監獄として使われた城の歴史をまとめました。アレクサンドル・デュマ「モンテ・クリスト伯」の舞台として有名になりました
  • フジェール城” Château de Fougères”~フランス史を動かし続けた要衝 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    フジェール城(” Château de Fougères”)はフランス・ブルターニュ地方(現在のブルターニュ地域圏イル=エ=ヴィレーヌ県フジェール)にある城塞。ブルターニュ地方とノルマンディー地方の境界にあり、フランスの歴史上、ブルターニュ地方の要衝として繰り返し戦いの舞台となった。公益財団法人日城郭協会選「ヨーロッパ100名城」の一つ。 築城最初の城は十一世紀、一帯を支配するようになったフジェール家(注1)が築いた。十二世紀、ブリテン諸島からフランス西半分にいたる広大な領域を支配しアンジュー帝国を樹立したイングランド王ヘンリ2世は、1166年、ブルターニュへ侵攻し、フジェール城を攻略した。このとき破壊された石造のドンジョン(天守塔)の遺構が現在も残っている。 このあとブルターニュ公コナン4世はヘンリ2世の子ジョフロワと娘コンスタンスの結婚並びに譲位を承認し、ブルターニュ公領はアンジュー

    フジェール城” Château de Fougères”~フランス史を動かし続けた要衝 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2020/02/16
    更新しました。要衝ゆえアンジュー帝国、百年戦争、二度のフランス統一戦争、フランス革命までフランス史のターニングポイントに常に登場する名城の歴史をフランス史上のオールスター登場でまとめました。
  • ジャンヌ・ダルクの主な戦友30人まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー

    まえがきジャンヌ・ダルクの戦友というと、認知度の高さはほぼジル・ド・レに限られ、少し詳しい人でラ・イル、ジャン・ド・デュノワ、アランソン公ジャン2世、リッシュモン大元帥などが挙げられる程度だと思うのだが、ジャンヌ・ダルクほどの著名な人物ともなれば関連人物の研究も進んでおり、また、戦友たちはそのまま百年戦争の終結に活躍した有力な軍人たちということもあって、実はその事績なども詳しく知られている。そんな、日ではあまり知られていないだろうジャンヌ・ダルクの戦友たちの中から主な人物を30人ほどピックアップしてまとめてみたい。 この記事ではジャンヌ・ダルクの関連人物のうち、一緒に戦闘に参加した軍人・貴族たちが中心で、ジャンヌとともに戦っていない有力武将(例えばヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクールや著名な老騎士アルノー・ギーレム・ド・バルバザンなど)、文官(ジョルジュ・ド・ラ・トレムイユやル

    ジャンヌ・ダルクの主な戦友30人まとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/10/18
    更新しました。有名なジル・ド・レ以外にも多くの戦友がいました。日本語で書かれたウェブ上の情報源として初の人も多いと思います。創作などにも役立てていただければ幸いです。
  • ジル・ド・レの生涯――百年戦争後期のある中小領主家の興亡 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ジル・ド・レ――フランス王国元帥、ジャンヌ・ダルクの戦友にして数々の軍功を重ねた百年戦争の英雄、フランス王よりも富裕とまでいわれたフランス屈指の大貴族・・・しかして、その栄光の陰で快楽の赴くままに百数十名にも上る子供たちの大量殺戮を行ったとして異端審問裁判により処刑された男。恐怖の民話「青髭」のモデルとも云われる、眩し過ぎる光と深すぎる闇を併せ持った彼の生涯をたどってみよう。 ジル・ド・レについて語られるとき、快楽殺人者、悪魔崇拝、瀆神といった描かれ方が多いが、記事では少し趣向を変えて百年戦争(1337-1453)の中に彼を位置付けて、中世末期フランスのとある中小領主家の盛衰という視点で見てみようと思う。 レ男爵家はブルターニュ公に臣従してロワール川河口付近一帯に領土を持った有力領主であったが、十四世紀末、賢女(ラ・サージュ)との異名を持つ女当主ジャンヌ・ド・レ” Jeanne de R

    ジル・ド・レの生涯――百年戦争後期のある中小領主家の興亡 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/10/08
    更新しています。ジル・ド・レを百年戦争史の中に位置づけてその生涯をまとめました。
  • ジャン・ポトン・ド・ザントライユ~傭兵隊長から元帥へ上った百年戦争の勇将 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ジャン・ポトン・ド・ザントライユ(” Jean Poton de Xaintrailles”,1390年頃生~1461年10月7日没)は百年戦争後期フランスの傭兵隊長。ジャンヌ・ダルクの親しい戦友の一人。同郷の傭兵隊長ラ・イルことエティエンヌ・ド・ヴィニョルと並ぶ勇将でヴェルヌイユの戦いやオルレアン包囲戦をはじめ対イングランド戦争で活躍し、後にフランス元帥に叙された。 ザントライユがいつから戦場にでて傭兵を稼業とするようになったかはよくわからないが、レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著(福直之訳)『ジャンヌ・ダルク』(東京書籍、1992年)によれば1418年頃からラ・イルとともにアルマニャック派の傭兵として戦闘に参加したという(注1)。1423年7月31日のクラヴァンの戦いでイングランドの捕虜となる。また、おそらくこの戦いでのエピソードと思われるが、ブルゴーニュ公フィリップ3

    ジャン・ポトン・ド・ザントライユ~傭兵隊長から元帥へ上った百年戦争の勇将 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/09/23
    ジャンヌ・ダルク関連作品でも盟友ラ・イルとセットでちょくちょく出てくる代表的な戦友の一人です。一介の傭兵から最後は元帥にまで昇進した立志伝中の人物でもあります。
  • オルレアン解放後のイングランド軍追撃戦「ロワール作戦」と「パテーの戦い」 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    1429年5月8日、イングランド軍はオルレアン市の包囲を解き退却した。オルレアン包囲戦はフランスの勝利に終わったが、イングランド軍は主力を温存したまま退いたに過ぎない。5月11日、国王シャルル7世が待つロッシュでオルレアン指揮官ジャン・ド・デュノワやジャンヌ・ダルクらも参加の上で善後策が協議された。デュノワの証言(注1)によれば、このとき会議の大勢の意見はノルマンディー地方への侵攻だったが、ジャンヌはランスでの国王戴冠を強く進言したという。 シャルル7世の側近ロベール・ル・マソン(注2)はこのときの様子を『乙女は部屋に入る前に扉をノックした。部屋に招じ入れられるや、ただちにひざまずき、国王の足をかき抱くと、次のように――あるいはだいたい似たようなことを――言った。“気高き王太子さま、そんなに長い間ダラダラと御相談などなさらずに、あなたさまにふさわしい王冠を戴きに、できるだけ早くランスにご出

    オルレアン解放後のイングランド軍追撃戦「ロワール作戦」と「パテーの戦い」 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • オルレアン包囲戦~勃発の背景からジャンヌ・ダルクの登場、終結まで | Call of History ー歴史の呼び声ー

    前史フランス王シャルル6世が発狂して統治能力を失って以降、対立していたブルゴーニュ派とアルマニャック派はイングランド王ヘンリ5世に同盟を求め、両者の対立を好機としたヘンリ5世は1415年フランスに侵攻、アジャンクールの戦いでフランス軍を壊滅させ、北フランスを占領した。 イングランドの侵攻に対しブルゴーニュ派とアルマニャック派は手を結ぼうとするが、1419年、ブルゴーニュ公ジャンがフランス王太子シャルルの配下によって暗殺されると、跡を継いだブルゴーニュ公フィリップ3世はイングランド王ヘンリ5世と「トロワ条約」(1420年)を締結して軍事同盟(アングロ=ブルギニョン同盟)を結び、フランス南東ブールジュへ逃れた王太子シャルル擁するアルマニャック派と対立した。 1422年、ヘンリ5世、シャルル6世が相次いで亡くなり、ヘンリ5世とシャルル6世の娘との間に生まれた生後9か月の王子がイングランド王にして

    オルレアン包囲戦~勃発の背景からジャンヌ・ダルクの登場、終結まで | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/09/07
    なんだかんだで書き始めてから書き終えるまで一年ぐらいかかってしまいました。たぶん日本語で読めるウェブ上の記事としては一番詳しいと思うのですが。
  • ジャンヌ・ダルク活動・関連事項全年表

    ジャンヌ・ダルクの書簡は直筆署名付きの三通の書簡と口述した手紙の原六通、その他写で文面のみ残っているものが多数ある。十九世紀に歴史学者ジュール・キシュラ(1814~82)によってジャンヌ・ダルクの裁判記録、年代記、書簡、会計簿等史料がま...

    ジャンヌ・ダルク活動・関連事項全年表
    kousyou
    kousyou 2019/06/12
    更新しています。ジャンヌ・ダルクの年表を可能な限り詳しくまとめました。調べものや創作などの参考になれば幸いです。
  • 「ジャンヌ・ダルクの指輪」真贋論争

    【3月21日 AFP】フランス史上最も有名な殉教者ジャンヌ・ダルク(Joan of Arc)のものとみられる指輪が20日、西部バンデ(Vendee)県にあるピュイ・デュ・フー(Puy du Fou)の歴史テーマパークで公開された。 ジャンヌ・ダルクの三つの指輪記録に残る限りでジャンヌ・ダルクにまつわる指輪は三種類ある。 第一の指輪は1429年6月、ジャンヌ・ダルクからジャンヌ・ド・ラヴァルという女性へ送られた金の指輪である。ジャンヌ・ド・ラヴァルはシャルル5世に仕えてフランスの勝利に貢献した名将ベルトラン・デュ・ゲクランの後だった老女で、ジャンヌ・ダルクの戦友としてともに戦っていたギー・ド・ラヴァルとアンドレ・ド・ラヴァルの祖母にあたる。 第二の指輪は兄から送られたという指輪で、ジャンヌ・ダルク処刑裁判の証言によれば裁判中、この指輪は裁判長ピエール・コーションによって保管されている。ジャ

    「ジャンヌ・ダルクの指輪」真贋論争
    kousyou
    kousyou 2019/06/09
    更新しています。ジャンヌ・ダルクの指輪は三種類記録に残っていますが、2016年にオークションで競り落とされたジャンヌの指輪とされるものを巡る真贋論争について簡単にまとめました。
  • ノルマンディー公国の歴史(911~1204年) | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ノルマン人の北フランス襲来は840年頃から始まり、北海にそそぐ主要河川の河口から内陸へと侵攻、856年から、パリ、シャルトル、エヴルーその他有力諸都市が次々と襲撃・略奪され、多くの修道院や施設が破壊された。 ノルマンディー公国はヴァイキングの侵攻に悩む西フランク王シャルル単純王が911年、ノルマン人の首長ロロにキリスト教への改宗と臣従を条件に領地として与えたことに始まる(サン=クレール=シュール=エプト条約)。セーヌ川河口ルーアン地方を領土としてルーアン伯と呼ばれたが、後に西方へ拡大していった。以後ルーアンはノルマンディー公国の首邑であり続ける。 ギヨーム1世長剣公(在位927~942)、リシャール1世無畏公(在位942~996)の時代に海上交易の繁栄を背景とした強力な領邦権力として確立され、リシャール2世(在位996~1026)の時代にノルマンディー公を名乗り、フランス諸侯の中でも屈指の

    ノルマンディー公国の歴史(911~1204年) | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/05/09
    更新しました。ノルマン人の首長ロロからフィリップ2世の征服までの簡単な歴史です。
  • 中世のブルボン家~ブルボン公国の興亡とヴァンドーム家の台頭 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ブルボン公家は、1272年、フランス王ルイ9世の六男クレルモン伯ロベールと中央フランスにあるブルボネ地方を領するブルボン伯家の女継承者ブルボン女伯ベアトリスが結婚、その子ルイ1世がブルボン公に陞爵したことに始まる有力諸侯である。中世後期フランスに登場した有力「諸侯国家(”État princier ”)」のひとつブルボン公国として十四世紀から十六世紀初頭まで勢力を誇った。 初代ブルボン公ルイ1世(在位1327~41)はフランドル戦争で活躍し、1317年父の死後クレルモン伯位と母の所領ブルボン伯領を継承した。フランス王シャルル4世の忠実な支持者として信頼され、クレルモン伯領とラ・マルシュ伯領の交換と、それにともなう公への陞爵によってブルボン公家を開いた。ヴァロワ伯シャルルの娘イザベラを嗣子ピエールと結婚させるなどヴァロワ家の有力な支持者でもあった。また次男ジャックにラ・マルシュ伯を継承させた

    中世のブルボン家~ブルボン公国の興亡とヴァンドーム家の台頭 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/01/30
    更新しました。十四世紀初頭のフランス、ブルボン公国が諸侯国家として隆盛を迎え王権が中央集権化を進める過程で断絶、改めて傍流のヴァンドーム家が当主となって台頭する十六世紀半ばまでの200年史です。
  • ノルマン朝(アングロ=ノルマン王国、1066~1154)の歴史まとめ

    ウィリアム1世のノルマンディー公位継承時からフランス王、アンジュー伯が介入して三つ巴の争いが展開され、北海を挟んで北欧ではデンマーク、ノルウェー、さらにイングランドまでを支配下においたクヌート大王による北海帝国の圧力が強まっていた。クヌート大王死後北海帝国は空中分解してイングランドはエドワード証聖王のアングロ・サクソン政権に戻っていたが彼には後継者が無く、イングランド王位は地域の覇権を狙う上で誰もが欲しい地位であった。 1060年代、ノルマンディー公ギヨーム2世はノルマンディの内紛を制し、ちょうどタイミングよくフランス王アンリ1世が没して幼年のフィリップ1世が即位し、アンジュー伯家でも後継者争いが勃発していた。ノルマン・コンクエストの結果、イングランド王ハロルド2世、デンマーク王ハーラルらを退けてノルマンディー公家がイングランド王位を獲得したことで地域で最大の勢力になったのである。このとき

    ノルマン朝(アングロ=ノルマン王国、1066~1154)の歴史まとめ
    kousyou
    kousyou 2019/01/28
    ノルマン朝王家略系図と略年表付きである程度わかりやくまとめました。
  • 百年戦争の猛将、傭兵ラ・イルことエティエンヌ・ド・ヴィニョルの生涯 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    少年時代から戦いに明け暮れていたというが、彼の軍歴としてはっきりわかるのは1418年、同郷の戦友ジャン・ポトン・ド・ザントライユとともに王太子シャルル派の軍に参加して、クーシー城を占領したのが最初である。このとき、『王に非ず公に非ず、候にも非ず伯にも非ず、われはクーシー城主なり』(注2)と語ったという。 以後バール枢機卿に雇われてザントライユとともにヴェルマンドワ、ラン、ロレーヌを転戦、1421年ボージェの戦いに参加した。この頃、宿に宿泊していた際に暖炉が崩れ落ちて右足を骨折、以後その後遺症で右足を引きずって歩くようになったが、戦いに支障が出るほどではなかった。(注3) 1423年、シャロン=シュル=マルヌ(現シャロン=アン=シャンパーニュ)を攻撃し、続いてルクセンブルク公領へと侵攻、1424年メーヌ地方へと転戦した。その後、バタール・ドルレアン(ジャン・ド・デュノワ)に雇われ、1427年

    百年戦争の猛将、傭兵ラ・イルことエティエンヌ・ド・ヴィニョルの生涯 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 偽ジャンヌ・ダルク事件~中世フランス「自称乙女」騒動の顛末 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ジャンヌ・ダルクの家族 ジャック・ダルク ジャンヌ・ダルクの父。ジャンヌが生まれ育ったドンレミ村の名士であった。1420年頃、旧領主ブールレモン家の邸宅を村の倉庫兼避難所として使えるよう賃借契約を結んだ記録や、23年に、野武士ロベール・... クロード・デュ・リスと名乗った自称ジャンヌ・ラ・ピュセルは実際のジャンヌ・ダルクとよく似た容姿であったらしい。ジャンヌ・ダルクの事績をよく調べていたし、体も鍛えていて武器の扱いや乗馬技術などにも長け、すぐに乙女の復活と話題になった。オルレアンでも話題となり、使者を派遣して真偽を調査させている。 メスのサン=ティボー教会の主席司祭はこう書き残している。 『この年ラ・ピュセル・ド・フランスと名乗る若い娘が現れ、その人物になりきっていたので、だまされた人も数多かった。特に身分のある人々がそうであった。』(注5) 翻弄される人々自称ジャンヌは、メスの貴族や有

    偽ジャンヌ・ダルク事件~中世フランス「自称乙女」騒動の顛末 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/01/20
    ジャンヌを騙った当人と言いみんないいかげんですごく好きな事件です。色々調べながらこの事件、いいコメディ映画のネタになりそうだなあと思ってはいました。
  • ブーサック元帥ジャン・ド・ブロス~ジャンヌ・ダルクと常に共にあった老将 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    記録に残る彼の軍歴の初出は1423年3月31日、48歳のとき、サンセール伯の指揮下での戦闘である。もちろんそれ以前、若い頃から経験を重ねていただろう。その後リッシュモン伯アルテュールの下で功を重ね、その忠実な奉仕が認められて、1426年7月14日、元帥に叙された(注3)。リッシュモンがクーデターによって宮廷を追われてからは、ラ=ファイエット元帥ジルベール・モティエ(注4)、リュー元帥ピエール・ド・ロシュフォールとの元帥三人体制で、シャルル7世の軍事面を支えている。なおラ=ファイエット元帥はフランス軍司令の名で史料に登場し国王顧問会議への出席(注5)もある点などを踏まえると、ブーサックは次席の元帥であったと思われる。 1428年10月イングランド軍がオルレアンの包囲を開始すると同25日、バタール・ドルレアンらとともにオルレアンに入り、以後イングランド軍の攻囲に対抗している。1429年2月12

    ブーサック元帥ジャン・ド・ブロス~ジャンヌ・ダルクと常に共にあった老将 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    kousyou
    kousyou 2019/01/17
    ジャンヌ・ダルクの主要な戦いすべてに参加していた武将です。常にジャンヌとともにあり、ジャンヌ処刑後雪辱を果たして、後を追うように亡くなりました。
  • フランス王アンリ1世(在位1031-1060)~弱小王権は生き残れるか

    誕生から即位まで1008年5月4日、カペー朝第二代フランス王ロベール2世敬虔王と王妃コンスタンス・ダルルの次男として生まれた。1016年、ロベール2世がブルゴーニュ公領の継承権を獲得すると、アンリはブルゴーニュ公領の統治権が与えられる。1017年、父王ロベール2世は長男ユーグを共同王として戴冠させたが、1025年、ユーグが亡くなり、ロベール2世はアンリを後継としようとしたが、王妃コンスタンス・ダルルは三男ロベールの後継を望んで対立、1027年、ロベール2世の意思が通ってアンリが共同王として戴冠した。1030年、アンリとロベールの兄弟は母コンスタンスに促されて父王に反逆、ロベール2世は王子たちの反乱を受けてボージャンシー城に籠城を続け、1031年7月20日、城内で亡くなり、アンリ1世の統治が始まった。 在位中の事績 1030年のフランス諸侯(パリ周辺の水色の地域がフランス王領、その東西を挟む

    フランス王アンリ1世(在位1031-1060)~弱小王権は生き残れるか
    kousyou
    kousyou 2019/01/12
    強大な諸侯が台頭し、その狭間でなんとか生き残りを図ったカペー家三代目です。