天皇陛下が、天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を宮内庁の関係者に示されていることが分かりました。数年内の譲位を望まれているということで、天皇陛下自身が広く内外にお気持ちを表わす方向で調整が進められています。
天皇陛下が、天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を宮内庁の関係者に示されていることが分かりました。数年内の譲位を望まれているということで、天皇陛下自身が広く内外にお気持ちを表わす方向で調整が進められています。
ISBN: 9784000610551 発売⽇: 2015/07/28 サイズ: 20cm/302,4p 日本の敗戦により、天皇制の存続が危ぶまれるという未曽有の危機に直面した昭和天皇は、いかなる行動に出たのか。日本の戦後体制の形成プロセスに、天皇が能動的に関与していった事実… 昭和天皇の戦後日本―〈憲法・安保体制〉にいたる道 [著]豊下楢彦 敗戦から講和条約発効までの6年8カ月間、天皇制には二つの危機があった。憲法改正時には天皇制廃止の、そして東西冷戦下では内外の共産主義による天皇制打倒の危機である。この二つを昭和天皇はどう乗り切ったのか、そこに見られるリアリズムを検証した書である。 とくに『昭和天皇実録』を読みこなし、著者のこれまでの視点を確認、微調整して昭和天皇の意思をありのままに浮かびあがらせた。実録解析の貴重な書となっている。 6年8カ月の間、天皇は「歴史」と戦い続けた。具体的に
13年前に公開された大正天皇の活動記録、「大正天皇実録」について、宮内庁は個人情報の保護などを理由に一部を黒塗りにした当時の措置を見直し大部分を公開しました。病弱で悲運の天皇として知られる大正天皇の体調や病状、未発表の動静などの詳細が明らかになりました。 一方、去年完成した昭和天皇実録は個人情報にあたるものも可能なかぎり、公開するとして黒塗りは行われず、NHKでは大正天皇実録についても同じ基準で公開するよう申請し、宮内庁は当時の措置を見直して黒塗り部分のおよそ8割を解除しました。 この中には、病弱だった大正天皇が事実上、引退する原因となった発語障害や歩行困難などの体調の異状や、晩年の脳貧血の病状などが詳しく記されている箇所もあります。 また、即位後、元老の山県有朋などの要人と頻繁に会っていたことや、第1次世界大戦について軍の幹部から、たびたび説明を受けていたことなども分かりました。 こうし
まぁ絶版なので最初は書評書かなくてもいいかと思ったのだが、やはり本書の幕末史における重要度から言っても紹介しておく方が良いかなと。2007年の本なので、たぶんあと五年か十年かしたら中公文庫なり講談社学術文庫なりから再販されるんじゃないかと思うが、とりあえず良い本なので、古書なり図書館なりで一読おすすめします。一応、先日紹介した同じ著者の「江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」 (講談社学術文庫)」2~5章で同時代の大まかなアウトラインはつかめます。 天皇の地位の急激な上昇日本近世・近代政治史上最大のテーマ、それは「天皇は何故これほど急激に地位を向上させたのか」ということだ。 豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は元和元年(1615)、禁中並公家諸法度を制定して天皇と朝廷を事実上支配下に置いた。表面上幕府と朝廷は対等という体裁を整えてはいたが摂関家以下公家は将軍に臣従し、武家伝奏を通じて朝廷統制が行われ天皇
@denzirou 右翼は南朝に惹かれる。何故なら右翼的心性というのは、システムに回収しきれない天皇の聖性に恋焦がれるものだから。後醍醐天皇という、権門体制というシステムに反逆して専制君主となろうとした王に惹かれるのは当然ではある。 2011-03-02 23:23:45 @sakuratetsu むしろ後醍醐天皇の聖なるセックス術に… RT @denzirou: 右翼は南朝に惹かれる。何故なら右翼的心性というのは、システムに回収しきれない天皇の聖性に恋焦がれるものだから。後醍醐天皇という、権門体制というシステムに反逆して専制君主となろうとした王に惹かれるのは当然ではある。 2011-03-02 23:25:29
この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼って書かれています。(2017年3月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2015年3月) 出典検索?: "八紘一宇" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 八紘一宇(はっこういちう、旧字体:八紘一宇、英語: Eight crown cords, one roof)、または八紘為宇[1](はっこういう、旧字体:八紘爲宇)とは、「天下を一つの家のようにすること」または「全世界を一つの家にすること」を意味する語句であり[2]、「天皇総帝論」、「唯一の思想的原動力」等ともいう[3]。『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家
古代天皇家の婚姻の特徴はその強い閉鎖性である、ということを様々な史料を元に当時の東アジア諸国の婚姻関係との比較も交えつつ大局的に描いた一冊。一言で言うと「お兄ちゃんだけど政治目的さえあれば関係ないよねっ」って話(たぶん)。 倭・日本の古代王権は濃密な近親婚によって強い結束力を保とうとした。皇族男性は外部からキサキを迎えることはあっても、皇族女性が非皇族と結婚することはほぼ無く、皇族女性は皇族男性と婚姻関係を結ぶという婚姻規制が存在していた。その特徴は、一つに異母兄弟姉妹婚による同世代婚、もう一つがオジ―メイ婚・オバ―オイ婚による異世代婚である。 六~八世紀を通じて、歴代天皇のキサキを整理するとその多くが異母姉妹か、畿内の諸豪族、一部のほぼ限定された畿内の外(「外国(ゲコク)」)の諸勢力から女性がキサキとなっていることが本書で明らかにされている。 例えば天智天皇の子女四人の皇子と十人の皇女の
英文 昨年は大雪や大雨,さらに御嶽山の噴火による災害で多くの人命が失われ,家族や住む家をなくした人々の気持ちを察しています。 また,東日本大震災からは4度目の冬になり,放射能汚染により,かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます。昨今の状況を思う時,それぞれの地域で人々が防災に関心を寄せ,地域を守っていくことが,いかに重要かということを感じています。 本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。 この1年が,我が国の人々,そして世界の人々にとり,幸せな
「歌はかけがえのない喜び」 岡本知高(高知県宿毛市出身)CDデビュー20周年 ベストアルバム発売 3月に宿毛市、高知市で公演
先日の記事「近代日本、海水浴の誕生」で明治時代に日本の医療制度の確立に多大な影響を与えたドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツについて紹介したが、そのベルツの日記に、彼が侍医を務めた皇太子嘉仁(後の大正天皇)の結婚に関するエピソードとして、伊藤博文の発言が紹介されている。明治三十三(1900)年五月九日の日記より。皇太子の結婚は翌日五月十日のこと。 『一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをして見せたのである。――こんな事情をなんとかしようと思えば、至極簡単なはずだが。皇太子を事実
秘境というと外部の人が足を踏み入れたことのない地域を指すが、日本にもまだ秘境が残っている。歴代天皇・皇族の陵墓だ。陵墓の中でも特に古墳時代の陵墓古墳は専門の考古学者や研究者もほとんど入ることが許されない。本書ではその陵墓古墳の現状と歴史、研究上の問題点が整理されている。 三世紀中頃の巨大な前方後円墳の登場から六世紀末の前方後円墳衰退後に主流となる円墳・方墳などが消滅する八世紀末までが考古学上の古墳時代となる。この考古学上の古墳のうち宮内庁が管理している陵・墓・陵墓参考地を陵墓古墳と呼ぶ。皇室典範第二十七条には「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を陵、その他の皇族を葬る所を墓とし、陵及び墓に関する事項は、これを陵籍及び墓籍に登録する。」と定められ、陵・墓とは別に、陵墓の治定が完了した1890年代以降に『巨大な古墳や多数の優れた副葬品を出土した古墳を陵墓参考地』(P19)と呼んでいる。現在
11月3日の「文化の日」を「明治の日」に改めてはどうか-。10日の衆院内閣委員会で祝日法改正に関する質問が飛び出し、菅義偉官房長官は議員立法による改正を念頭に「国民の理解が大事。各党各会派が議論し、まずは(改正に向けた)雰囲気をつくってほしい」と期待感を示した。 質問したのは日本維新の会の遠藤敬氏。平成19年に昭和天皇の誕生日にあたる4月29日を「みどりの日」から「昭和の日」に改めたことから、明治天皇の誕生日にあたる11月3日も「『明治の日』に改めなければ首尾一貫しない。明治は近代化を進めた輝かしい時代だ」と訴えた。 かつて昭和の日制定推進の議員連盟に参加していた菅氏。祝日法改正の“先輩”として「国民の理解をいただき、『昭和の日』を制定できたことを思い浮かべながら、政府として議論を待ちたい」とエールを送った。
なかなか刺激的なタイトルだ。 わずか7文字の中に、知的好奇心を刺激してやまない「違和感」が内包されている。 まず「戦国」と「天皇」がうまく結びつかない。日本史で習った天皇を思いつくままに挙げてみても、古代であれば神武、推古、聖武、桓武といった有名ドコロがすぐに浮かぶし、中世になると、後に院政を敷いたことで知られる白河、鳥羽といったあたりが思い出される。しかし、その後となると、多くの人にとって耳馴染みがあるのは後醍醐天皇くらいで、建武の新政が崩壊して室町時代に入ってくると、その頃の天皇の名前はほとんど知らないのではないだろうか。 そして「貧乏」と「天皇」も、同じように結びつかない。鎌倉幕府の誕生以降、武家統治の時代が長かったのは事実としても、やはり天皇は一貫して日本史の中心にいたはずだ。武家の時代にあっても、たとえば征夷大将軍の任命権限を持っていたのは天皇だ。要するに、武家にとっても天皇の権
宮内庁の羽毛田信吾長官は26日の定例記者会見で、天皇、皇后両陛下が、自らの葬儀や陵墓の在り方について、国民生活への影響を少なくするよう、火葬とし、葬礼の簡略化を望まれていることを明らかにした。 宮内庁はこれを踏まえ、陵墓の規模や、両陛下の合葬も視野に入れた検討を行う。 現在、天皇、皇后の葬儀は伝統的方式に従って土葬で行われており、江戸末期の孝明天皇から昭和天皇まで、いずれも土葬で行われてきた。同庁によると、歴代天皇124代(うち2人は2回即位)の葬儀方法は、土葬が73人、火葬が41人、不明が8人となっている。
西南戦争(1877年)の原因の一つとされる「西郷隆盛暗殺計画」を巡り、戦端が開かれた直後に当時の鹿児島裁判所の裁判官ら7人が連名で、ただちに停戦し暗殺計画の首謀者を法によって裁くよう明治天皇に「非常の裁断」を仰ぐ上表文が見つかった。 薩軍を一方的に「賊徒」として鎮圧しようとする政府に異議を唱えており、草創期の司法の独立がうかがえる文書として注目される。 鹿児島市立西郷南洲顕彰館が、20日発表した。上表文は田原坂の総攻撃が始まる前日の3月3日付。天皇の侍従と太政大臣・三条実美(さねとみ)を通しての密書の形をとっている。 西郷暗殺の陰謀発覚が挙兵の理由ではないかとし、法律で暗殺計画の首謀者を裁くべきだと主張。「直訴で死を賜ることを待つ」との覚悟も示している。7人のうち1人が上京する際に八つ折りにしてひそかに携帯したが、侍従や三条に届けられたかどうかは不明。 上表文は昨年2月、東京・神田の古書店
多羅間 俊彦(たらま としひこ、1929年〈昭和4年〉3月24日 - 2015年〈平成27年〉4月15日)は、日本の旧皇族で日系ブラジル人。東久邇宮稔彦王の第4王男子。母は、明治天皇第9皇女子・聡子内親王。旧名、俊彦王(としひこおう)。皇籍離脱前の身位は王で、皇室典範における敬称は殿下。兄に盛厚王、師正王、彰常王がいる。明治天皇の女系の孫であり、明治天皇の孫としてはもっとも年少。 人物・来歴[編集] 1929年(昭和4年)3月24日、東久邇宮稔彦王と同妃聡子内親王の第4王男子として生まれる。 学習院に学び、陸軍予科士官学校へ進むが、在校中に太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦を迎える(61期、陸士最後の期)。 1947年(昭和22年)10月14日、皇室典範第11条1項により、皇籍離脱。後に当人は「皇籍を剥奪されても、特に何も感じませんでした。これでようやく身軽になれると思いました」と語っている[1
NHK大河ドラマ「平清盛」で、当時の皇室(天皇家)を登場人物らが「王家」と呼んでいることが議論を呼んでいる。中国の冊封(さくほう)体制下で「王」は「皇帝」に仕える立場であることなどから、王家の呼称は「天皇家の権威をおとしめる表現」との批判があるためだ。同番組の時代考証を担当し、本紙で「日本史ナナメ読み」を連載している本郷和人・東大史料編纂所准教授に、「王家」を使った理由を解説してもらった。当時、天皇イコール「王」だった なぜ天皇家、皇室という言葉を用いなかったか。ひとことで言えば、「平清盛」の時代には使われていなかったから、です。 この時期には、天皇の血族をファミリーとして捉えるという概念がいまだ出現していない。播磨の海、周防の灘、と命名しても「瀬戸内海」とまとめる言葉がなかったのと同じです。近衛天皇の寺院、鳥羽上皇の御所、美福門院(びふくもんいん)の荘園など、個別の名が用いられ、天皇家も
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