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軍事と江戸に関するkousyouのブックマーク (4)

  • 「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ

    1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。 主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年) 徳川政権の事情秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピー

    「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ
    kousyou
    kousyou 2015/11/10
    誤字脱字、繋がりがおかしいところを訂正、あと戦後体制について誤解生むかもと思い"琉球の自由貿易を促進しつつ利益を島津の財政と直結させる富の収奪体制が整えられていった。"と追記
  • 「刀狩り―武器を封印した民衆」藤木 久志 著

    豊臣秀吉の刀狩令、明治政府の廃刀令、第二次大戦後の占領軍による武装解除の三つの「刀狩り」を通して民衆が武器を封印していく過程を描き出す、日中世民衆史の大家による「刀狩り」概論。とはいえ、論考のほとんどは秀吉の刀狩令と江戸時代の民衆の武装が中心となっている。 このでは、従来の刀狩り観として根強い『刀狩りいらい庶民の武装は禁止され、廃刀令で武士の帯刀も禁止され、ここに国民の非武装が定着した』(藤木「刀狩り」P12(平凡社版「廃刀令」一九八五年の引用))という「刀狩りで武装解除された庶民」という通念は様々な史料をもとに丁寧に否定される。 豊臣秀吉の天正十六年(1588)七月の刀狩令は確かに第一条で「刀・脇差・弓・鑓(やり)・鉄砲、そのほか武具のたぐい」全般の所持を禁止しているが、実際の施行の段階では徴収されたのは刀と脇差が中心でその他の武器は大して集められていない。また、徴収された刀と脇差の

    「刀狩り―武器を封印した民衆」藤木 久志 著
  • 「幕末日本と対外戦争の危機―下関戦争の舞台裏」保谷 徹 著

    幕末、諸外国と修好通商条約が結ばれて一気に開国すると、それに反対する人びとによる外国人排斥運動(攘夷)が盛んになった。過激な攘夷運動の盛り上がりは諸外国を警戒させ、やがて米仏艦隊による長州報復攻撃、英国海軍と薩摩との薩英戦争、さらに英国による日侵攻作戦の立案、そして長州征伐と連動しての下関戦争と対外戦争の危機が顕在化していくことになる。書は主に英国側の資料を中心にして当時日が直面していた対外戦争の危機について具体的に描かれた一冊である。 奉勅攘夷と横浜鎖港問題日米修好通商条約とそれに続く安政の五カ国条約によって諸外国に対し神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と領事裁判権、関税自主権の放棄、片務的最恵国待遇などが約されると、日中に攘夷の嵐が吹き荒れ、外国人に対するテロ行為が頻発。文久二年(1862)、島津久光の行列を遮ったとして英国商人リチャードソンらが殺害されると、英国との間で緊張が高ま

    「幕末日本と対外戦争の危機―下関戦争の舞台裏」保谷 徹 著
  • 幕末の銃器

    ゲーベル銃 1670年代にフランスで開発され1777年にオランダは制式採用しています。 ゲベール(Geweer)とはオランダ語で小銃のこと。 燧石式洋式銃 ( 雷管式マスケット銃 ) 天保二年(1832年)高島秋帆が阿蘭陀から輸入。 燧石式の為、火縄式よりは装槙時間は短縮、雨に強く照尺はなし、しかし火縄銃より命中精度が低い。 ナポレオン式の戦術では敵の密集兵団の中に撃ち込み兵を混乱させる為に作られた銃で、精度より射程の長さ、大量生産の為の構造を簡素化。 滑腔式先込め銃でライフルは刻まれておらず、簡単に各地で模造されました。 管打式が流行ると、ゲベール銃も管打式に改められた。 管打ち式銃の操作は、左手で銃床を保持し火薬を流し込いれ弾を挿入し索杖で突き固める。 撃鉄を上げ、火門に雷管を被せ二段式の撃鉄を最後まで引き上げて引き金を引く。 後に新式薬包と弾を使用できるように改造されていきました。

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