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wikipediaとフランスに関するkousyouのブックマーク (9)

  • ルイ17世は本当に「虐待」を受けたのか? 検証途中まとめー日本語版Wikipediaの情報の不確かさとネタの伝播スピードの恐ろしさについてー

    y ( ● ω ● ) k @ykcavecanem トレンドに「ルイ17世」。何かと思ったら日語のウィキペディアで、どうやら彼がうけた(とされる)虐待についての記述が加筆されたようなんだけど、ソースがおそらくきちんと史料とか使ってなさそうなだなと思ったら何かやっぱりうさんくさい。とりま同じくあやしい英語のウィキペディアみたら 2018-03-21 19:34:53 y ( ● ω ● ) k @ykcavecanem 彼の虐待についての記述は実は裏付けがなくて王政復古期に盛られたものだと書いてあった。ウィキペディアの記述が恐ろしいと騒ぎになってるけど、前時代の歴史が改ざんされることとか、このトレンド見に行ったらだから左派とか革命はダメ、みたいな単純なものとかけっこうあったこととか、何だかなと… 2018-03-21 19:38:30

    ルイ17世は本当に「虐待」を受けたのか? 検証途中まとめー日本語版Wikipediaの情報の不確かさとネタの伝播スピードの恐ろしさについてー
  • ニコラ・ショーヴァン - Wikipedia

    ニコラ・ショーヴァン(Nicolas Chauvin)は、フランスの陸軍兵士。第一共和政及びその後の第一帝政に仕え、彼の名は熱狂的な排外主義を指す「ショーヴィニズム」の語源にもなった。 来歴[編集] 1780年頃、シャラント=マリティーム県ロシュフォールで生まれたとされる。18歳で入隊したショーヴァンは武勲の誉れ高かったものの、度重なる戦により17度負傷したと言われている。ナポレオン1世に対する忠誠心が高かった分、ボナパルティズムが支持を失った復古王政期には嘲笑の的となった模様。 文学作品の中のショーヴァン[編集] ウジェーヌ・スクリーブの「農民兵士」(1821年)やコニアール兄弟の「三色帽章」(1831年)、その他の劇やオペラ[1]にも描かれているが、その中ではアメリカ独立記念日の1776年7月4日に生まれ、恐怖政治時代に革命軍へ入隊したという設定である。 ショーヴァンは実在したか?[編

    kousyou
    kousyou 2015/06/16
    実在が疑われるショービニズムの語源となったナポレオン1世時代の兵士。前々からこの人のことを調べてみたいとは思っているのだが。
  • ピレネー=オリアンタル県 - Wikipedia

    ¹ 「French Land Register data」(1平方キロ以上の湖沼、エスチュアリー、氷河などの水面積除く。 ピレネー=オリアンタル県(ピレネー=オリアンタルけん、フランス語: Pyrénées-Orientales、カタルーニャ語: Pirineus Orientals、オック語: Pirenèus Orientals)は、フランスのオクシタニー地域圏の県である。なお、フランス語での来の発音はリエゾンにより、ピレネーゾリアンタルとなる。 概要[編集] 県をかつての州で色分けした図 東は地中海、南はスペインのカタルーニャ州ジローナ県、北はオード県、西はアンドラ公国とアリエージュ県と接する。また、ジローナ県の飛地リビアを抱える。フランス革命以前の州であるルシヨン(セルダーニュ、コンフラン、ヴァルスピ、カプシルといった地方に分かれる)を再編したものである。北部のフヌイイェード地方

    ピレネー=オリアンタル県 - Wikipedia
    kousyou
    kousyou 2014/10/02
    フランスのカタルーニャ
  • アンドラ - Wikipedia

    ^ a b “UNdata”. 国連. 2021年11月11日閲覧。 ^ 1999年までの通貨はフランス・フランとスペイン・ペセタ。 ^ アンドラのユーロ硬貨も参照。 アンドラ公国(アンドラこうこく)、通称アンドラは、ヨーロッパ西部のピレネー山脈中に位置する立憲君主制国家。首都はアンドラ・ラ・ベリャ。 概要[編集] フランスとスペインに挟まれたピレネー山脈中にあり、歴史的理由によりフランス大統領とカタルーニャ(ラ・セウ・ドゥルジェイ)のウルヘル司教の2名による共同公(カタルーニャ語版、英語版)を元首とするミニ国家である。 イベリア半島に属しており、国際連合の分類では南欧とされている。 アンドラの国旗は青、黄色、赤の縦三色旗であり真ん中に国章が描かれている。 元々はフォワとカタルーニャの旗を合わせた黄色と赤の縦2色の旗を使用していたが、1866年にフランスの青を入れた三色旗に変更され、それぞ

    アンドラ - Wikipedia
  • サン・バルテルミの虐殺 - Wikipedia

    サン・バルテルミの虐殺 フランソワ・デュボワ(1529-1584), ローザンヌ美術館 サン・バルテルミの虐殺(サン・バルテルミのぎゃくさつ フランス語:Massacre de la Saint-Barthélemy)は、1572年8月24日にフランスのカトリックがプロテスタントを大量虐殺した事件である。 聖バルテルミーの虐殺あるいは(英語表記から)聖バーソロミューの虐殺(St. Bartholomew's Day Massacre)とも表記される。 概要[編集] 宗教改革者ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側から「ユグノー」と呼ばれた。1562年以降、フランスはカトリックとユグノーとの内乱状態(ユグノー戦争)となっていた。 国王シャルル9世の母后カトリーヌ・ド・メディシスの提案により、ユグノーとカトリックとの融和を図るため、ユグノーの指導者である

    サン・バルテルミの虐殺 - Wikipedia
  • オルレアニスム - Wikipedia

    この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2016年9月) 脚注による出典や参考文献の参照が不十分です。脚注を追加してください。(2016年9月) 出典検索?: "オルレアニスム" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL オルレアニスム(フランス語:Orléanisme)は、フランス革命期に起源を持つ、フランスの右翼ないし中道右派の派閥による政治運動。オルレアン派、オルレアン主義、オルレアン王朝主義などと訳される。 オルレアニスムの名称は、派閥の指導者であるブルボン王家の分枝オルレアン家に由来する。オルレアニスムは1789年に起きた革命の指導者たちが追求した「人間の権利」と、君

    オルレアニスム - Wikipedia
  • レジティミスム - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "レジティミスム" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年9月) レジティミスム、正統派、正統主義(フランス語: Légitimisme)は、「フランスとナヴァルの王はサリカ法の単純適用によってのみ選ばれるべき」とする立場をとるフランスの君主制支持運動。この立場を支持する者をレジティミスト (Légitimiste) と呼ぶ。フランス復古王政期には「ユルトラ王党派」と呼ばれ、1830年の7月革命で王位を追われたブルボン王朝の嫡系を強く支持した。フランスの歴史家ルネ・レーモンはレジティミストを、オルレアニスト、ボナパルティス

    レジティミスム - Wikipedia
  • ユグノー戦争 - Wikipedia

    この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年8月) フランソワ1世 ルター思想は1520年代にフランスに伝わり、プロテスタントに対する政策は寛容と弾圧の間で揺れ動いていた。イタリア戦争の渦中にあったフランソワ1世(在位:1515年 - 1547年)は神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯の反乱を支援しており、フランス国内における信者に対して寛容であった。それ以上にルター派と宮廷内で人気のあった人文主義改革運動との区別が曖昧であり、また国王の姉ナバラ王妃マルグリットはルフェーヴル・デタープルなどの改革者たちを異端の嫌疑から庇護していた。だが、1534年に檄文事件が起こるとフランソワ1世はプロテスタントを脅威と感じ、彼らを弾圧し始める。 アンリ二世[編集

    ユグノー戦争 - Wikipedia
  • ラザール・カルノー - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年9月) ラザール・カルノー ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー(Lazare Nicolas Marguerite Carnot, 1753年5月13日 - 1823年8月2日)は、フランスの軍人、政治家、数学者。フランス革命戦争にあたってフランス軍の軍制改革を主導し、「勝利の組織者」と称えられた。政治的には穏健な共和主義者の立場を貫き、反対派からも尊敬されたという。また数学者としても功績を残した。著名な子孫たちとの区別のため大カルノーとも呼ばれる。 生涯[編集] Réflexions sur la métaphysique du calcul infinitésimal, 1797 平民出身の将校[編集] ラザール

    ラザール・カルノー - Wikipedia
    kousyou
    kousyou 2011/09/05
    その後の国民国家の誕生→総力戦の大きな歴史の流れを考えると、烏合の衆になるはずだった徴兵された素人の組織化に成功して、仏国民軍を整備したこの人はもっと注目されるべきだなぁ。
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