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中世に関するkousyouのブックマーク (95)

  • アルスラーン王とギスカール公爵 | Kousyoublog

    アルスラーン王とギスカール公爵、というと田中芳樹の小説「アルスラーン戦記」でお馴染みの名前だが、ここで紹介するのはその元ネタと思われる歴史上の人物の話。セルジューク朝第二代君主(スルターン)アルプ・アルスラーン(生没年1029~72年、在位1064~72年)と、群雄割拠の南イタリア・シチリアを一代で統一し後のシチリア王国建国へと至る基盤を確立した初代プッリャ・カラブリア公ロベール・ギスカール(ロベルト・イル・グイスカルド、生没年1015~85年、在位1059~85年)である。ともに十一世紀、十字軍へと至るヨーロッパとイスラーム世界の対立の歴史の中で非常に重要な役割を担った。 アルプ・アルスラーン セルジューク朝を建国したトゥグリル・ベグの死後、後継者を巡ってトゥグリルの兄チャグリーの子アルプ・アルスラーンとトゥグリルの長兄アルスラーン・イスラーイールの子クタルミシュの争いとなり、1064年

    アルスラーン王とギスカール公爵 | Kousyoublog
  • 「大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー」 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ヨーロッパの中世を「暗黒時代」、すなわち「暴力と狂信と無知と停滞の時代」とする見方はすでに否定されている。確かに絶え間なく続く戦争と、キリスト教的世界観の浸透と、ローマ教会の支配が築かれ、ギリシア・ローマ時代の知識が少なからず一時的ながら失われた時代ではあったけれども、後に近代を切り開く土台となる様々な技術のささやかながら着実な革新が繰り返された、ゆっくりと着実な進歩の時代であった。その中世ヨーロッパのテクノロジーとイノベーションはどのようなものであったのか、緩やかな技術革命の千年を振り返る一冊である。 別に中世ヨーロッパが栄光の時代であったとか、産業革命に比肩する技術進歩の時代だったなどと言う訳ではなく、ただただ、後進地であったヨーロッパで中世の千年間で起きていた地道な技術的革新の歩みを描いているに過ぎないが、そこにドラマがあり、面白さがある。ジャレッド・ダイアモンドとかウィリアム・H・

    「大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー」 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 『耳鼻削ぎの日本史』”やさしさ”から”見せしめ”まで - HONZ

    “耳鼻削ぎ”とは穏やかではない。というか、野蛮。現代人はそう感じるだろう。日歴史上で耳や鼻を削ぐといえば、戦国時代の話かな。敵の首をいくつとったか戦功を証明するのに、首だと持って帰るには重いから耳。いや耳だと左右二つ削いで数をごまかせるので鼻になったんだっけ。いやはや、戦国時代は血腥い…。 著者は日各地の“耳塚”“鼻塚”を訪ね歩き調査する。無惨に討たれた武士たちの耳や鼻が何百と葬られたというのなら、さぞや怨念が染み付いているだろう、怨霊話もあるだろう。耳や鼻を削ぐという行為の意味もみえてくるだろう、と思いきや。 なぜかどこへいっても「耳の神様が耳の聞こえをよくしてくださるところ」という話ばかりだったのだという。 私は日中の耳塚・鼻塚を訪ねてまわり〜(中略)けっきょくのところ、どこの耳塚・鼻塚からも不気味な怨霊譚が聞かれることはなかった。それどころか〜(中略)土地の人から愛され、ご利

    『耳鼻削ぎの日本史』”やさしさ”から”見せしめ”まで - HONZ
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    kousyou 2015/06/24
    これは清水先生の新刊だし前々から読もうと思っていた。
  • 源平合戦と中世考~「平家勝利のIF」「あの時代のチート武士」「なぜ日本史は『身代金』が無いか」など【地雷魚氏を中心に】

    自分も、世界史で「君主が敵国の捕虜となったが、身代金を払い解放された」との記述をを読むたび「えー、殺されないの?」と思ってました。小説『越天の空』などで知られる作家・地雷魚@Jiraygyo氏のツイートでその話題が出ていたのですが、読んでみるとそこから話が縦横に展開(笑)。テーマを絞りきれない表題になってしまいましたが、自分はこういう対話から話が進展していくからこそ、togetterでのまとめに醍醐味があると思います。

    源平合戦と中世考~「平家勝利のIF」「あの時代のチート武士」「なぜ日本史は『身代金』が無いか」など【地雷魚氏を中心に】
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    kousyou 2015/03/31
    重盛生きてたらむしろ平家一門内部分裂してたと思う
  • “海外を視野に入れていた”TVアニメ「純潔のマリア」谷口悟朗監督インタビュー 前編 | アニメ!アニメ!

    “海外を視野に入れていた”TVアニメ「純潔のマリア」谷口悟朗監督インタビュー 前編 | アニメ!アニメ!
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    kousyou 2015/03/28
    "当時の人々が苛酷な日々のなかで生きていくために必要な、“社会システム”としてのキリスト教を描こうと考えました。"
  • 十二世紀南九州の覇者「阿多忠景」について

    元木泰雄編「保元・平治の乱と平氏の栄華 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第一巻)」で十二世紀に薩摩を中心に南九州一帯を支配した阿多忠景について詳しく書かれていて、名前はうっすら聞いたことがあるけど・・・程度の認識だったこともあって同書の『栗林文夫「阿多忠景と源為朝――その伝説と実像」』から簡単に紹介。 阿多忠景(生没年不詳)は桓武平氏の流れをくむ薩摩平氏の一流で十二世紀初頭から1160年頃にかけて、薩摩一国を自身の直接統治下に置き、さらに彼に従う豪族たちを通じて大隅・日向も傘下におき南九州三カ国を支配したという南九州の覇者である。また、保元物語にある九州の惣追捕史を自称し源為義に追われて九州に下ってきた源為朝に娘を嫁がせてその後ろ盾となった「アワノ平四郎忠景」と同一人物と考えられ、琉球まで影響力を及ぼしていたと言われていることもあり、後の為朝征琉伝説にも影響があったという。 彼が拠地とし

    十二世紀南九州の覇者「阿多忠景」について
  • 「贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ」桜井 英治 著

    社会に贈与の慣行が深く根付き、一気に浸透したのが中世であるという。その日の贈与はどのようなものだったのか。市場経済の拡大と結びついた贈与経済の姿を、史料を丁寧に読み込むことで明らかにしていく一冊。 マルセル・モースと彼の「贈与論」を研究したモーリス・ゴドリエによると「贈与」をめぐっては次の四つの義務が発生するという。 1) 贈り物を与える義務(提供の義務) 2) それを受ける義務(受容の義務) 3) お返しの義務(返礼の義務) 4) 神々や神々を代表する人間へ贈与する義務(神にたいする贈与の義務) 贈与慣行は古代から現代に到るまであらゆる社会に見られるが、大なり小なり上記の四つの義務が存在している。贈り物を受けたらそのお返しをせねばならないという意識が芽生えるし、贈り物を贈られた際に受け取らないようにするのは若干の後ろめたさを覚えるものでもある。例えば上司や同僚、取引先など仕事上の関

    「贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ」桜井 英治 著
  • TVアニメ「純潔のマリア」公式サイト

    最終話でジョセフの答えに対して大天使ミカエルが発する「パクス・デイ(Pax Dei)」という言葉。これは「神の平和」を意味しており、中世ヨーロッパに起こった平和運動を指している。 十字軍などの歴史を見るとキリスト教の戦闘的な側面が気になるかもしれないが、ローマ教会の中では、10世紀から11世紀頃にかけて、宗教的な権威を持って横暴な封建貴族に対して女性、子供、非武装な農民などへの危害、略奪を止めさせるという平和運動も展開されている。始まりは南フランス地方だったが、やがて司教などを中心にヨーロッパ各地で広がみせ、その理念は教会法などにも取り入れられていった。一定期間の戦闘の停止や非戦闘員への安全確保、約束に反した領主の破門など、ローマ教会が平和実現のための具体的かつ政治的な努力を行った運動であり、それまで不法な収奪などに苦しめられていた農民にとっては救いだっただろう。横暴や腐敗は少なからず存在

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  • 北鎌倉の梅の名所「東慶寺」 | Kousyoublog

    公開日: 2013/03/10 : 最終更新日:2014/01/29 カテゴリー:散歩・写真 タグ:gender, 中世, 仏教, 寺院, 文学, 日史, 明治, 自然, 鎌倉 北鎌倉の梅の名所として知られる東慶寺です。東慶寺は正式には松岡山東慶総持禅寺といい、弘安八年(一二八五)、第八代執権北条時宗の覚山志道尼によって時宗の死後尼寺として開かれた。中世~近世の尼寺の多くがそうであったように、この東慶寺も尼寺として縁切の機能を有していた。江戸中期に書かれた同寺の由緒には開山の覚山志道尼が縁切寺としての法を定める旨、子の執権北条貞時に申し出たとあるとのことだが、史料的信憑性は薄いとされる。丁度、この寺が創建された弘安八年は幕府の重臣安達一族が内紛「霜月騒動」によって族滅した年で、覚山志道尼は安達一族出身であったことから、その安達一族の供養の目的で作られたとも考えられているが、確かなこと

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    kousyou 2015/03/08
    ブログの過去記事です。
  • 退位した歴代ローマ教皇(法王)四人まとめ | Kousyoublog

    ローマ教皇は終身制の地位だが、歴史上、退位したローマ教皇が四人おり、今回のベネディクトゥス16世で五人目となる。 1)ポンティアヌス(在位二三〇~二三五)最初に退位したのが第一八代教皇ポンティアヌスである。このころはまだ、キリスト教会はローマ帝国の激しい弾圧の渦中にあった。ポンティアヌスはローマ皇帝マクシミヌス・トラクスから迫害を受けサルディーニャの鉱山に、先先代のローマ教皇カリストゥス一世以来対立していた対立教皇ヒッポリュトゥスとともに流罪となり、解放の見込みがないことから二三五年九月二八日に退位した。以後ほどなくして劣悪な環境により衰弱、獄死している。2)シルウェリウス(在位五三六~五三七)西ローマ帝国滅亡直後、六世紀当時のローマ教皇は西ローマ帝国を滅ぼした東ゴート王国と東ローマ帝国という二大国に挟まれて翻弄されていた。東ゴート王国はイタリア王位をよこせと言い、東ローマ帝国は東ゴート王

    退位した歴代ローマ教皇(法王)四人まとめ | Kousyoublog
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    kousyou 2015/01/20
    2013年の記事です
  • 「葬式仏教の誕生-中世の仏教革命」松尾 剛次著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    中国韓国の仏教は日ほど葬送にかかわることなく、葬儀は儒教や道教、シャーマニズム、あるいは無宗教的な手法で行われるのが常であるという。日の仏教が葬式仏教として葬送儀礼に深く関与するようになったのはなぜか、書ではその仏教革命ともいえる日仏教の葬式仏教化の過程が解き明かされる。 結論からいうと仏教の僧侶が組織的に葬送儀礼に関るようになるのは鎌倉仏教教団が格的に社会的影響力を持ち始める十三世紀~十五世紀ごろのことで、檀家制度や諸法令などが整備されていく江戸時代の十七世紀~十八世紀以降やっと葬式仏教が確立する。 それ以前は、仏教の僧侶たちは葬儀に対してはかなり消極的だった。古代から中世にかけて穢(ケガレ)忌避の観念は制度化され、僧侶たちも非常に強く穢れを避けることを意識していた。死穢は「死体に触れたり、葬送、改葬、墓の発掘などに携わったために生ずる穢れで、その穢れに触れた人間は普通、三〇

    「葬式仏教の誕生-中世の仏教革命」松尾 剛次著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「ノストラダムス―予言の真実 (「知の再発見」双書)」エルヴェ・ドレヴィヨン,ピエール・ラグランジュ著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    諸宗教の聖典・経典を除けば、十六世紀フランスの医師・占星術師・詩人であるミシェル・ノストラダムス(1503~66)によって書かれた「予言集」は世界で最も読まれたの一つに挙げられるだろう。単なるオカルトブームの書籍としてだけでなく、多くの人がその文章に何らかの意味を見出して、それがときに人々の生死を左右するほどの悲劇を呼ぶことにもなった。 ノストラダムスに関しては、世界の終末を始めとする現代までの様々な事件を予言した予言者として信奉するか、インチキ予言者として弾劾するかの二項対立が続き、ブームの中で必ずしも学術的な分析が進められてこなかった経緯がある。運命の1999年も過去のものとなり、近年、ノストラダムスを彼が生きた十六世紀フランスという歴史の中に位置づけて格的に研究・実証することが出来るようになってきた。その、歴史の中のノストラダムスと彼の予言集はどのようなものとして位置付けられるか

    「ノストラダムス―予言の真実 (「知の再発見」双書)」エルヴェ・ドレヴィヨン,ピエール・ラグランジュ著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史」永田 諒一著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    書は宗教改革の時代のドイツの民衆の様子を社会史の視点から描いた一冊である。 著者の説明を借りると、伝統的な歴史学が『政治史の優位と事件史的な歴史叙述を特色』(P12)として、『社会の「急激に変化する過程」に注目』(P12)してきたのに対して、社会史とは、『これに対抗する形で社会の全体、あるいは中下層に焦点をあわせ、また、百年も二百年も変わらない制度、習慣、ものの考え方に注目』(P12)した分野、いわゆるアナール学派の手法を基礎としたものだ。 例えば日の民俗学の視点とかなり近いのかもしれない。民俗学者宮常一は自身の足跡を振り返って『進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今のわれわれに課せられてれているもっとも重要な課題ではないか』(宮常一「民俗学の旅 (講談社学術文庫)」P234)と後年著しているが、まさにそのような民衆の日々の営みを丁寧に見つめ、解きほぐしていく民

    「宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史」永田 諒一著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    kousyou 2014/11/01
    ブログの過去記事です。
  • 日本奥州中世史を振り返りつつ会津蘆名(葦名)氏の興亡まとめ | Kousyoublog

    公開日: 2013/01/13 : 最終更新日:2014/08/21 カテゴリー:歴史・宗教, 鎌倉・室町時代 タグ:中世, 日史, 東北, 福島 室町戦国時代に会津地方を支配していたのが蘆名(葦名)氏である。蘆名(葦名)氏の系図を遡ると平安時代後期以降相模三浦半島を支配していた三浦一族にたどり着く。1)葦名氏のルーツとしての三浦一族三浦一族の隆盛の基礎を築いたのが三浦義明(一〇九二~一一八〇)であった。義明は三浦半島一円を支配下に治め、三浦介と呼ばれる相模国国司の次官にあたる職に就き、源頼朝の父義朝に早くから仕え、頼朝決起の際にも一族挙げて彼を支え、頼朝が敗走した石橋山の戦いの後の衣笠城合戦で八九歳の老体で一人平家の大軍をい止め壮絶な討死をした。子沢山であった彼の子らは父の戦死後も頼朝に従い、長男の子和田義盛、三浦宗家を継いだ次男の義澄など鎌倉幕府創業の功臣・宿老として名を連ね、義

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    kousyou 2014/10/22
    ブログの過去記事です。
  • 中世イングランドの貧困弾圧・強制労働法令「労働者条例」 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    労働者条例(The Statute of Labors)1348年の史上最大規模の黒死病(ペスト)の流行によって、欧州諸国では多数の犠牲者が出たが、イングランドでも400万人から200~250万人へと大幅な人口の減少を余儀なくされた。労働者の不足は賃金の上昇をもたらすが、これに対し地主層は賃金の引き下げを要求、これを踏まえて百年戦争中で国内の基盤を安定させたいイングランド国王エドワード3世は強制労働と賃金上限を設定した「労働者条例(The Statute of Labors)」を定めた。 ・自営業者、自作農、すでに雇用されている者を除く六十歳以下の身体健常者はその地域の慣習的賃金の水準で労働力を必要とする者に強制的に雇用されること ・労働者の契約期間内の正当な理由または雇用主の許可なしの退職の禁止 ・雇用主に対しては慣習に基づく賃金より多額の賃金を支払うことを禁止し、それを超えて賃金を支払

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    kousyou 2014/10/12
    ブログ更新しています。
  • バイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の歴代君主まとめ

    ヴィッテルスバッハ家前史ヴィッテルスバッハ家はドイツの名門で、主にバイエルンを738年に渡って統治した王家として知られる。現在のドイツ南部一帯バイエルン州は遡ると六世紀、フランク人の部族アギロルフィング家の統治に始まり、八世紀、タシロ3世(在位:749~88)が小ピピンに臣従し、その後シャルルマーニュに反旗を翻したことで追放され、以後カロリング朝東フランク王国、ルイトポルト家などを始め、統治者が次々と入れ替わった。 ヴィッテルスバッハ家の統治下となるのは1180年。当時バイエルン公は勇名で知られたザクセン獅子公ハインリヒ3世で、獅子公はイタリア遠征を巡って赤髭王(バルバロッサ)こと神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(在位:1152~90)と対立、怒った皇帝は獅子公からバイエルンを取り上げて、ヴィッテルスバッハ家のオットーに下賜し、彼はバイエルン公オットー1世(在位:1180~83)となった。以

    バイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の歴代君主まとめ
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    kousyou 2014/08/28
    blog更新しています。欧州の名門の歴史から西欧史を概観した感じの記事です。とりあえず二人のマクシミリアン1世の影響力が凄い。
  • 琉球王国の興隆と衰退を中心に十六世紀東アジア貿易と島津-琉球外交略史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    別のテーマで書いていた記事の話のまくらとして琉球王国の興隆と衰退、琉球と島津氏の外交について五百~千文字ぐらいの気分で略史をまとめていたらやたら長くなったので個別記事として切り出してみる。 琉球王国は長く三国鼎立状態にあった沖縄島を一地方豪族から身を起こして一代で統一した尚巴志とその父尚思紹に始まる。尚巴志は統一戦争の過程で父尚思紹を王位につけ(1406年)、父の死後の1429年、沖縄島を統一(第一尚氏王朝)。しかし、尚巴志王の死後政権が安定せず、1469年、重臣金丸が王位を簒奪、尚円王を名乗り、第二尚氏王朝が成立した。以後、十五世紀末から十六世紀前半にかけて全盛期を迎え、島津氏の琉球出兵(1609年)を経て、1879年に日に併合(「琉球処分」)されるまで第二尚氏王朝が存続する。 琉球王国の隆盛は海禁政策下にあった明国の冊封体制に入ることで明と東アジア諸国とをつなぐ中継貿易によっても

    琉球王国の興隆と衰退を中心に十六世紀東アジア貿易と島津-琉球外交略史 | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    kousyou 2014/08/01
    id:netcraft 丁度ご指摘のような趣旨の記事を書いていたので投稿しました。ご紹介の記事は明記されていませんが内容から察するに同じ書籍を参考にしていると思います。http://kousyou.cc/archives/6855
  • なぜ崇徳上皇は怨霊になったのか? | Kousyoublog

    保元元年(一一五六)、後白河天皇との対立によって発生した政変「保元の乱」に敗れた崇徳上皇は讃岐国へ配流となる。わずかな女官らとともに極楽浄土への往生だけを願いとして静かな余生を送り、長寛二年(一一六四)、その不遇の生涯を閉じた。「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(風雅和歌集)心細い思いを歌に詠み、失意のうちに亡くなった孤独で無力な元天皇が怨霊となったのは、安元二年(一一七六)年から翌安元三年(一一七七)にかけてのことだという。この頃京都には不穏な空気が蔓延していた。安元二年六月十三日  二条天皇の中宮高松院妹子死去 安元二年七月八日   後白河院の女御で平清盛の義妹建春門院滋子死去 安元二年七月十七日  後白河院の孫、第七十九代天皇であった六条院が十三歳の若さで死去 安元二年八月十九日  近衛天皇の中宮九条院呈子死去 安元三年四月十三日  延暦寺の僧侶による

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    kousyou 2014/07/25
    2012年5月の過去記事です。
  • 俺たちゃ海賊!

    俺たちゃ海賊! -激動の東アジア海上史- 「史劇的な物見櫓」のトップページに戻る 海上史事件簿 現在第十一回まで掲載!(2005/4/8) 海上史の主要な事件を詳細に解説します。「倭寇世界」の入り口としてご活用ください。 海上史年表 とりあえず「王直時代」のみ公開中 ここで全体の流れがつかめます。人物、事件の検索にも使用できます。 海上史人名録 海賊・女性・日人など一挙増量して現在51名!(2005/4/10) 海上史を彩る人名目録。簡単な伝記が読めます。 海上史図書館・専門書室 海上史図書館小説室 とりあえず「王直時代」のみ仮公開(~98/10/19) 「海上世界」の歴史の手引きとなる書籍を紹介。専門書から小説まで網羅! 舞台「倭寇伝」について その1/その2/その3 2004年9月21日公開 史上初?の倭寇世界をテーマにした舞台を紹介。 「歴史アドバイザー」として関与した裏話も。

  • 「安倍晴明伝説 (ちくま新書)」諏訪 春雄 著

    陰陽師安倍晴明というと、様々な伝説に彩られた日史上のスターの一人である。死後の平安時代後期から様々な伝承が語られ始め、現代でも小説映画、マンガなど様々な創作作品に登場して人を魅きつけている。僕は丁度世代的に八十年代後半、荒俣宏の「帝都物語」で知り夢枕獏の「陰陽師」や菊池秀行作品など伝記小説で認識した感じだ。 実在の安倍晴明は様々な伝承や創作で語られるような呪術妖術に長けた超能力者ではなく、地味な、しかし政治力に長けた遅咲きの官僚である。平安時代、中国から伝わった陰陽五行思想や道教・密教、修験道などを総合して登場した陰陽道を統括する部署として陰陽寮という組織があった。晴明も陰陽寮に所属していたが陰陽道の能力的にもそれほど秀でていたわけではなく、長らく出世コースから外れていたらしい。彼が歴史の表舞台に登場するのは四十代に入ってからで、丁度藤原道長が権力を掌握していく過程で藤原氏や花山・一条

    「安倍晴明伝説 (ちくま新書)」諏訪 春雄 著
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    kousyou 2014/07/23
    ブログ更新しています