ギアヌーヴ(東京都港区、斉藤恵子社長)は建設業界を主なターゲットに現場の状況を遠隔で確認できるシステムを展開している。2023年には同システムに人工知能(AI)を組み込んだ施工状況... マイクリップ登録する
青森県内の伝統的な民家には、茅(かや)で葺(ふ)いた屋根のほかに柾(まさ)で葺いた屋根もありました。一般に茅葺きは農村に多く、柾葺きは漁村や町の商家に多かったようです。 柾とはヒバやスギをごく薄く削った板のことで、長柾とコバ柾の二種類がありました。長柾は長さ約40センチ、幅約8センチくらいで、これを屋根に敷き詰めていきます。風で飛ばされぬように上から細い板で押さえ、さらに石を乗せて押さえました。今からみると屋根に石を置いている不思議な光景が漁村などで当たり前に見られたのです。 しだいに長柾の半分ほどの大きさのコバ柾を使用するようになっていきます。コバ柾の場合は釘(くぎ)打ちして止めたので風に強く、石を置く必要がありませんでした。コバ柾を葺く専門の職人がいたもので、小さな釘を口に何本も含み、それを一本ずつはき出しては特殊な金槌ですばやく打って止める様子はさながらマジックを見ているようでした。
↑昭和30年代、弘前市若党町の子供ねぷた(佐々木直亮氏撮影、写真提供県立郷土館) ねぷた喧嘩防止策である合同運行が開発されると、昭和4年には弘前商工会が合同審査制を導入する。当初は過半数のねぷた組が反対したが、戦後の観光化で合同運行と合同審査制度が各地に普及・定着すると、自地域を中心に練り歩いていたねぷた・ねぶた達は、都市部のメインストリートでの合同運行を主目的とするようになり、昭和30年代には受賞争いが激化した。 昭和8年、最後のねぷた喧嘩が弘前で行われたという。しかし筆者の民俗調査では、昭和30年頃まで各地で発生していたことが判明した。昭和7年まで深浦町では、浜町と陸町(おかまち)のねぶたが進路争いの口論から投石、ナタや木ぎれで乱闘した。昭和9年には青森市細越と浪館のねぶたが投石と喧嘩でメラハド(娘)を奪い合った。昭和16年頃の平内町では喧嘩太鼓の合図で乱闘し、ねぶたの首を奪い合った。
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